第60話 夏の匂い
恋とは、目ではなく心で見るもの。だから、翼をもつキューピッドは盲目に描かれる――ウィリアム・シェイクスピア『夏の夜の夢』
夏休みが始まった。
一学期終業式の翌日。
朝、目が覚めた。時計を見る。九時半。学校がない。どこにも行く予定がない。誰にも会う約束がない。
天井を見上げた。蛍光灯。いつもの白い光。
……暇だ。
死ぬほど暇だ。
夏休み初日にして、すでに虚無。死んだ魚にとって夏休みは、水槽の水が止まった状態と同じだ。流れがなければ、ただ浮いているだけ。
窓の外を見た。青い空。入道雲。セミの声。夏だ。
去年の夏休みは何をしていたか。たぶん何もしていない。ゲームして、漫画読んで、たまに翔太と遊んで、あとは昼寝。死んだ魚のデフォルトモード。
今年は違う。違うはずだ。鮎川がいるから。
でも、鮎川がいるからこそ、何をしていいかわからない。去年の虚無とは種類が違う。去年は「何もしたくない」虚無。今年は「何かしたいけどどうしていいかわからない」虚無。
スマホを見た。通知がいくつか。翔太からのメッセージ。
『夏休み初日! 何する?』
『なんもしない』
『お前なあ……鮎川さんと約束しただろ。ちゃんと連絡しろよ』
約束。
そうだ。約束した。夏休みの間も、たまに会おうと。鮎川からの誘い。オレは「会いたいから会う」と答えた。
でも、いざ夏休みになると、どう連絡していいかわからない。
「暇なら遊ばないか」? 軽すぎる。
「夏の景色を見に行こう」? 何だそれ。意味がわからない。
「会いたい」? 重すぎる。死ぬ。
スマホを握ったまま、三〇分が過ぎた。何も打てない。送信ボタンの手前で指が凍る。恋の冷凍保存だ。
もう一通、翔太からメッセージが来た。
『お前のことだから三〇分スマホ握ったまま固まってると思うから言うけど、こう打て。「夏休み、暇なら。どっか行くか」。これでいい。シンプルが最強だと体育祭で学んだだろ』
翔太に読まれている。三〇分の沈黙すら読まれている。
……でも、翔太の案は悪くない。シンプル。短い。重くない。
打った。
『夏休み、暇なら。どっか行くか』
送信。
送った瞬間、心臓が跳ねた。取り消しボタンはどこだ。もう遅い。既読がつく前に地球が爆発してくれないだろうか。
三秒後。
既読。
五秒後。
返信。
『行く行く! どこ行こう?』
即レス。爆速。送信から返信まで五秒。
鮎川、待ってたのか? スマホの前で待機してたのか? いやいや、たまたまスマホを触っていただけだろう。
でも五秒は早い。音声読み上げ機能でメッセージを聞いて、音声入力で返信して、五秒。鮎川の処理速度は異常だ。
あるいは――待ってくれていたのかもしれない。
考えすぎだ。
返信を打つ。
『特に考えてない。鮎川さんが行きたいとこあれば』
『んー、どこでもいいよ。鈴木くんと一緒なら、どこでも景色が見えるから』
どこでも景色が見えるから。
朝からこんな破壊力のあるメッセージを送ってこないでほしい。心臓の耐久力に限界がある。
『じゃあ、近くの公園でも行くか。日陰があるとこ』
『いいね! 何時にする?』
『午後二時。暑いのが落ち着く頃に』
『わかった! 楽しみ!』
楽しみ。
鮎川は「楽しみ」と言っている。
近所の公園に行くだけなのに、楽しみ。
……オレも楽しみだ。口には出さないけど。
翔太にメッセージを送った。
『約束した。午後二時に公園』
『おっしゃあああ! デートじゃん!』
『デートじゃない。公園行くだけだ』
『公園に二人で行くのはデートって言うんだよ。辞書引け』
『引かない』
『ちなみに安藤に報告してもいいか?』
『するな』
『もうした』
『おい』
秘密結社「見守る会」の情報網は、夏休みでも健在だった。
午後二時。
駅前のバス停で待ち合わせ。
五分前に着いた。暑い。七月の太陽が容赦なく照りつけている。アスファルトが熱を持っていて、足の裏から暑さが伝わってくる。空は青くて、雲が白くて、入道雲が遠くにもくもくと立ち上がっている。
セミが鳴いている。ミンミンゼミ。夏の定番。
時間ちょうどに、鮎川が現れた。
白杖を持って、片手にスマホ。耳にイヤホンをつけている。ナビアプリの音声案内を聞きながら歩いてきたのだろう。
白いワンピース。麦わら帽子。サンダル。
……かわいい。
制服以外の鮎川を見るのは、ショッピングモール以来だ。あのときも私服だったけど、今日はさらにカジュアルというか、夏っぽいというか。
白いワンピースが夏の光に映えて、鮎川の肌が透けるように白く見える。麦わら帽子の影が顔に落ちて、閉じた目の周りに柔らかな陰影を作っている。
見とれている場合じゃない。声をかけろ。
「鮎川さん」
「あ、鈴木くん? 声で位置がわかった。右斜め前、三メートルくらい?」
「……だいたい合ってる。ちょっと左だけど」
「えへへ。精度上がってきたでしょ」
鮎川がにこっと笑った。麦わら帽子の下の笑顔が眩しい。太陽より眩しい。
バスに乗って、公園へ。三つ目のバス停で降りた。
公園は住宅街の中にある大きめの公園で、遊具とベンチと広場と、何本かの大きな木がある。平日の午後で、人はまばら。小さな子どもが砂場で遊んでいるくらいだ。
木陰のベンチに座った。風が吹くと、頭上の葉っぱがさわさわと揺れる。蝉の声が降ってくる。
暑い。でも、木陰は涼しい。直射日光を遮るだけで、こんなに違うのか。
「今、目の前に大きな木がある」
「うん」
「ケヤキかな。枝が横に広がってて、葉っぱが密集してる。その葉っぱの隙間から日が差してる。地面に光の斑点ができてる。風が吹くと斑点が揺れる」
「木漏れ日?」
「そう。木漏れ日」
「木漏れ日って、英語にも他の言語にもぴったりの訳がないんだって。日本語だけの言葉なんだよ。きれいだよね」
「……そうなのか。日本語だけなのか」
「うん。英語だと、sunlight filtering through trees、みたいに説明するしかない。一語で表せるのは日本語だけ。すごくない?」
すごい。そして鮎川の雑学力もすごい。シェイクスピアだけじゃなくて、言語学にも詳しい。
木漏れ日。たしかにきれいな言葉だ。光が葉っぱを透過して、地面に丸い斑点を作る。その斑点が風で揺れると、まるで地面が息をしているみたいに見える。
オレは今まで「木漏れ日」を見たことがなかった。いや、見てはいたけど、認識していなかった。ただの光の斑点だと思っていた。
鮎川に伝えるために見ると、世界が変わる。ただの光が「木漏れ日」になる。ただの風が「葉っぱの歌」になる。ただの暑さが「夏の匂い」になる。




