第59話 骨を折った数だけ、死んだ魚の目に光が戻る
真剣な声。
「三波高校に来てよかった」
その言葉が、夕方の空気の中に浮かんだ。
鮎川は盲学校から三波高校に転校してきた。四月に。たった三か月前。
三か月。たった三か月で、鮎川の世界は変わった。友達ができた。クラスに溶け込んだ。体育祭で応援合戦の指揮をした。帰り道で景色を教えてくれる人間ができた。
そして今、「来てよかった」と言っている。
「鈴木くんに会えたから」
心臓が止まった。
比喩じゃない。本当に一瞬、止まった気がした。
鮎川がオレの方を向いている。閉じた目。長いまつげ。夕日に照らされた横顔。
その顔が、真剣で、柔らかくて、少しだけ照れくさそうで。
風が吹いた。夏の風。鮎川の髪がふわりと揺れた。ジャスミンの匂い。もう何回嗅いだかわからない。でも毎回、胸が苦しくなる。
鮎川は「鈴木くんに会えたから」と言った。凛でも翔太でも蓮でもなく。オレの名前を。
嬉しくて。
嬉しすぎて。
何も言えなかった。
答えたいことが、山ほどあった。
オレも嬉しい。鮎川に会えてよかった。鮎川のおかげで世界が色づいた。死んだ目が生き返った。毎日が変わった。景色が変わった。心が変わった。
全部言いたい。全部伝えたい。
でも、何も出てこなかった。言葉が全部、喉の奥で渋滞している。一台も前に進めない。
結局、出てきたのは。
「……オレも」
たった三文字。
オレも。
何だよそれ。「オレも」って。もっとましなことが言えなかったのか。「オレも嬉しい」とか「オレも鮎川に会えてよかった」とか。「鮎川のおかげで世界が変わった」とか。「お前が隣にいると死んだ目が生き返る」とか。
全部言いたかった。全部、喉まで来ていた。
でも出てきたのは「オレも」。三文字。三マス。点字で打っても三秒ぐらいで終わる。
死んだ魚のコミュニケーション能力、ここに極まれり。
でも、「オレも」に全部が詰まっている。「オレも」の中に、言えなかった全部が圧縮されている。ZIP圧縮。解凍したら何万文字にもなる。
鮎川は――聞こえたのだろうか。たった三文字の、死んだ魚の返事を。
聞こえていた。
鮎川が微笑んだ。いつもの「えへへ」じゃない。もっと静かな、深い微笑み。
「うん。知ってるよ」
知ってる。
鮎川は「知ってる」と言った。
何を知っている。「オレも」の中に圧縮された全部を、知っている?
鮎川の耳なら、三文字の中に含まれた感情の全部を聞き取れるのかもしれない。声のトーン、呼吸の乱れ、心拍数の変化。全部から、オレの気持ちを読み取れるのかもしれない。
……怖くなかった。
知られていることが、怖くなかった。
むしろ、少しだけ安心した。言葉にできなくても、伝わっているのかもしれない。声に出せなくても、鮎川には聞こえているのかもしれない。
それで、今は十分だ。
「じゃあ、夏休みも楽しみにしてるね」
「……ああ」
「バイバイ、鈴木くん」
「ああ。バイバイ」
鮎川が手を振って、角を曲がっていった。白杖の音が遠ざかっていく。かつ、かつ、かつ。
いつもの音。いつもの別れ。
でも今日の別れは、少しだけ違った。
「また明日ね」じゃなくて、「夏休みも楽しみにしてるね」。
明日は終業式。そのあとは夏休みだ。
毎日会えなくなる。でも、「たまに会おう」という約束ができた。
鮎川の背中が消えた後、オレはしばらくその場に立っていた。
夕暮れの空。オレンジ色がだんだん紫に変わっていく。鮎川が「寂しい色」と呼んだ色。
でも今日は、寂しくない。
紫の空の向こうに、夏がある。花火がある。海がある。入道雲がある。
そして鮎川がいる。
夏休みの間も、鮎川に景色を伝えられる。
三波高校に来てよかった、と鮎川は言った。
オレも言いたかった。鮎川に会えてよかったと。お前のおかげで、死んだ目が生き返ったと。景色に意味が生まれたと。雨の日が怖くなくなったと。
全部、言えなかった。「オレも」の三文字に圧縮してしまった。
でも、鮎川は「知ってる」と言ってくれた。
伝わっている。たぶん、伝わっている。
今はそれでいい。
夏が来る。夏休みが来る。鮎川と過ごす、初めての夏が。
引き出しの中の手紙は、まだ眠っている。でも、永遠に眠らせるつもりはない。
夏の間に、もっと鮎川のことを知ろう。もっと景色を伝えよう。もっと一緒にいよう。
そして、本物の「好き」を見つけたら。
そのときは――声で言う。面と向かって。点字の手紙じゃなく。
鮎川さん、好きだ、と。
帰り道。一人。
ポケットの中で、指が動いた。もう癖になっている。
点字の指の動き。
ま、つ。
待つ。
オレは待つ。
恋の骨折り損。骨を折っても報われない恋。
でも、シェイクスピアの王は待った。本気だったから。一年でも一〇年でも待つと言った。
オレの恋はまだ骨折り損かもしれない。
告白未遂は二回。手紙は引き出し。まだ何も伝えていない。
でも、骨を折った分だけ、この気持ちは本物に近づいている。
雨の日に傘を差した。鮎川の手の温度を知った。横断歩道で手を繋いだ。鮎川の弱さを見た。鮎川の笑顔を雨の中で見た。「鈴木くんの手、あったかい」と言われた。「嬉しかった」と言われた。
鮎川が雨を怖がっていたことを知った。盲学校の夏休みが寂しかったことを知った。「鈴木くんに会えたから」と言ってくれたことを、ずっと忘れない。
全部が、オレの恋を本物にしていく。
だからまだ言わない。
でも、いつか必ず言う。
オレの言葉で。オレの声で。
点字の手紙じゃなくて。
声で。面と向かって。
鮎川さん、好きだ。
それを言える日は――たぶん、そう遠くない。
夏が、連れてきてくれる気がする。
引き出しの中で、点字の手紙がまだ眠っている。
約四二〇点の凸点。六枚目の最終稿。
いつか目覚める日を、静かに待ちながら。
恋の骨折り損。
骨を折っても報われない恋。
でも。
骨を折った数だけ、死んだ魚の目に光が戻る。
三割だった生存率が、今日で五割になった気がする。
半分生きてる目。
まだ死んでいるけど、もう死んでいない。
鮎川が生き返らせてくれた。
あの子の声と、笑顔と、「鈴木くんに会えたから」の一言で。
夏が来る。
恋の骨折り損の、二度目の季節が始まる。
第3章「恋の骨折り損(Love's Labour's Lost)」 了




