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死んだ魚のような目をしているオレは、盲目なあの子に恋をする。  作者: しましまましま
第3章 恋の骨折り損(Love's Labour's Lost)

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第58話 夏の約束

 七月。

 梅雨が明けた。

 期末テストが終わり、夏休みが目前に迫っている。

 テスト期間中は帰り道が別々になることが多かった。鮎川は凛と一緒にテスト勉強をして遅くなったり、母親が迎えに来たりした。オレは翔太と図書室で勉強していた。翔太が「数学教えてくれ」と泣きついてきたのだ。

 テストの結果は中の上。いつも通り。鮎川は学年五位。化け物だ。蓮が学年三位。やつも化け物だ。翔太は下の上。「お前のおかげで赤点回避した」とオレに感謝していたが、オレの功績じゃなくて翔太の努力の結果だ。

 七月の第三週、木曜日。終業式の前日。夏休み前の最後の普通授業の日。

 放課後。いつもの帰り道を、鮎川と二人で歩いていた。

 テスト期間中に会えなかった分を取り戻すみたいに、鮎川がよく喋った。テストの話、凛と一緒に勉強した話、シェイクスピアの新しい点字本を買った話。

 梅雨明けの空は、嘘みたいに青かった。雲が高くて、白くて、入道雲がもくもくと立ち上がっている。空気が乾いていて、でも暑い。夏の匂いがする。アスファルトの匂い。木々の匂い。遠くからプールの塩素の匂い。セミはまだ鳴いていないが、あと一週間もすれば鳴き始めるだろう。

 アジサイは枯れ始めていた。花びらの色が褪せて、茶色がかっている。梅雨が終わると、アジサイの季節も終わる。数週間前、雨の中で「宝石みたい」と言ったアジサイが、もう役目を終えようとしている。季節は容赦なく進む。

 代わりに、ヒマワリが顔を出し始めていた。まだ小さいけど、太陽に向かって伸びている。生け垣の隙間から、黄色い顔がこちらを覗いている。

 道端にはオシロイバナが咲いていた。夕方に咲く花。ピンクと白と黄色がまだらになった小さな花が、夕暮れの光の中で輝いている。こんな花、今まで気にしたことがなかった。鮎川に出会う前のオレは、道端の花なんて見えていなかった。見えていたけど、見ていなかった。

 今は違う。全部見えている。全部の花に名前があって、全部の色に意味がある。鮎川に伝えるために、世界の解像度が上がった。


「鈴木くん、今日はどんな景色?」

「夏だ」

「夏」

「梅雨が明けた空。青い。すごく青い。雲が高くて、入道雲がでかい。アジサイが枯れ始めてて、代わりにヒマワリが顔を出してる。まだ小さいけど」

「ヒマワリ。……夏の花だね」

「ああ。太陽に向かって伸びてる。馬鹿みたいにまっすぐ」

「馬鹿みたいに、か。……でもわたし、まっすぐなの好きだよ。回り道しないで、まっすぐ向かう感じ」

「……」

「鈴木くんは回り道する人だよね」

「回り道?」

「うん。言いたいことがあっても、すぐに言わない。ゆっくり、遠回りして、やっと言う。でも、そうやって時間をかけて出てきた言葉は、すごくあったかいの」

「……」

「あ、悪い意味じゃないよ? わたし、回り道も好き。……むしろ、回り道の方が好きかも」


 鮎川がいたずらっぽく笑った。

 回り道の方が好き。

 それは――オレのやり方を肯定してくれているのか。

 ヒマワリみたいにまっすぐ告白する勇気はない。何度も骨を折って、遠回りして、まだ「好きだ」にたどり着けない。

 でも鮎川は「回り道の方が好き」と言ってくれた。


 鮎川が突然、立ち止まった。


「ねえ、鈴木くん」

「ん?」

「夏休み、何するの?」

「特に何も」

「じゃあさ」


 鮎川が少し躊躇してから、言った。


「夏休みの間も、たまに会おうよ」


 オレの心臓が、どくんと跳ねた。


「わたし、鈴木くんに夏の景色を教えてもらいたい。花火とか、海とか、入道雲とか。夏にしか見えないものがいっぱいあるでしょ?」

「……ああ。いっぱいある」

「じゃあ、教えてよ。夏休みも」


 鮎川が笑った。いつもの笑顔。でも、ほんの少しだけ照れくさそうな笑顔。

 夏休みも会おう。鮎川からの誘い。

 これは――何だ。友達としての誘いか。それとも。

 考えるな。深読みするな。鮎川は純粋に、景色の話を聞きたいだけだ。

 でも。

 嬉しかった。単純に、嬉しかった。


「……ああ、いいよ」

「ほんと? やった!」

「大げさだな」

「大げさじゃないよ。夏休みに会える人がいるって、すごく嬉しいことなんだよ? 前の学校……盲学校のときは、夏休みになると友達と会えなくなっちゃって。みんな遠くから通ってたから」


 盲学校の話。鮎川が自分から盲学校の話をするのは珍しい。

 鮎川は幼い頃から盲学校に通っていた。成績が優秀で、インクルーシブ教育の推進で三波高校に転校してきた。そのことは知っている。でも、盲学校時代のことはあまり聞いたことがない。


「盲学校の友達とは、会えなかったのか」

「うん。みんなバラバラの場所に住んでたから。夏休みは基本的に一人。お母さんは仕事だし。本を読んでた。シェイクスピアの点字本をずっと」

「……寂しくなかったか」

「寂しいとか、あんまり思わなかったな。そういうものだと思ってたから」


 鮎川の声が、平たかった。感情を消している声。オレがよくやる声だ。嘘をつくとき、感情を消す。鮎川も同じことをしている。

 本当は寂しかったんだ。でも、寂しいと思わないことで、自分を守っていた。


「でも」


 鮎川が少し黙った。風が吹いた。夏の風が鮎川の髪を揺らした。


「でも、三波高校に来て、鈴木くんや凛ちゃんや桐谷くんやみんなと過ごして。……あ、こういうのが『寂しくない』なんだって知った。それを知ったら、前の夏休みは寂しかったんだなって、後からわかった」


 前の夏休みは寂しかった。それを後から知った。

 鮎川は強い。寂しさを感じないくらい強い。でもそれは、寂しさを知らなかっただけだ。知ってしまった今、もう「寂しくない」には戻れない。

 だからこそ、「夏休みも会おうよ」と言ったのか。

 寂しくない夏休みを、知ってしまったから。


「だから、夏休みも鈴木くんに会えるの、嬉しい。……迷惑じゃない?」

「迷惑なわけないだろ」

「ほんと?」

「ほんと。……オレも、暇だし」

「暇だから会うの?」

「違う。……会いたいから、会う」


 言った。

 「会いたいから」と言った。

 自分でも驚いた。こんな素直な言葉が、オレの口から出るとは。

 鮎川がぱっと顔を上げた。閉じた目が少しだけ見開かれたように見えた。


「……会いたいから?」

「……ああ」

「えへへ」


 鮎川が嬉しそうに笑った。「えへへ」。いつもの「えへへ」。でもいつもより少しだけ、声が弾んでいる。

 鮎川が嬉しそうに跳ねた。白杖を持ったまま、小さくぴょんと。

 危ないだろ。転ぶぞ。

 でも、その無邪気な仕草が、かわいくて仕方なかった。

 また歩き出した。別れ道が近い。

 鮎川がふと立ち止まった。二度目。


「ねえ、鈴木くん」

「ん?」

「わたしね」


 鮎川の声が、少し変わった。いつもの明るさは同じだけど、その下に、何か深いものが潜んでいる。

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