第56話 あの子色の雪が積もっている
帰り道。
雨が少し弱まった。さっきまでの豪雨が嘘みたいに、しとしとと静かな雨に変わっていた。
空を見上げた。灰色の雲の隙間から、わずかに光が漏れている。天使のはしご。前に鮎川に教えたやつだ。雨の切れ間に現れる、光の柱。
今日のことを振り返る。
鮎川の腕に掴まる手。横断歩道で繋いだ手。「鈴木くんの手、あったかい」。雨の中の景色の話。「鈴木くんの声は雨の中でも聞こえる」。玄関先の笑顔。「鈴木くんがいてくれてよかった」。
全部が、胸の中に積もっていく。雪みたいに。一つ一つ小さいけど、積もると風景が変わる。死んだ灰色の風景が、少しずつ白くなっていく。いや、白じゃない。鮎川色だ。オレの中に、鮎川色の雪が積もっている。
……何を言ってるんだ、オレは。鮎川色って何だ。
でも、そういう言葉しか見つからない。
恋って、語彙力を奪う病気でもあるらしい。
帰宅。玄関を開けたら、母さんが「何その格好!」と叫んだ。右半身びしょ濡れのオレを見て、呆れた顔。
「傘差してたのに何でそんなに濡れてるの」
「……片方だけ差してた」
「片方だけ? 何で?」
「もう一人いたから」
「もう一人?」
母さんの目がきらりと光った。
「女の子?」
「……」
「女の子でしょ。あんたがそんな顔するの、女の子がいたときだけだし」
「どんな顔してるんだよ」
「死んだ魚がちょっとだけ生き返ったような顔。最近ちょくちょく見るわよ、その顔」
母さんにまでバレている。死んだ魚の生存率は、周囲にどんどん観測されている。プライバシーという概念はこの家にはない。
「いいから着替えなさい。風邪引くわよ」
「死んだ魚は風邪引かない」
「引くわよ馬鹿。タオル持ってきなさい」
母さんにまで「死んだ魚」が通じている。家族公認のニックネームだ。
自室に戻って、濡れた服を脱いだ。タオルで髪を拭く。
右腕を見た。鮎川が掴まっていた場所。
……やっぱり、温かい気がする。
翌週。
梅雨は続いている。でも金曜日みたいな豪雨はなく、小雨か曇りが続いた。
鮎川との日常は、雨の日以降も何も変わっていない。いつもの席で隣同士。いつもの昼休みに弁当。いつもの帰り道で景色を話す。
変わったのは、雨の日だけだ。雨が降ると、オレが傘を差す。鮎川がオレの腕に掴まる。それが新しい「日常」になりつつあった。
火曜日。小雨。傘を差して一緒に帰った。鮎川の手がオレの腕に。この日は雨が弱かったから、景色の話もできた。「雨上がりの空に虹が出てる」と言ったら、鮎川が「前に指で弧を描いてくれたやつだね」と笑った。覚えていてくれた。あの日のことを。
水曜日。午後から雨。傘を差して一緒に帰った。鮎川がオレの腕に掴まりながら、シェイクスピアの『テンペスト』の話をしてくれた。嵐の話。「嵐の中で出会う二人の恋の話なの」と。雨の日にする話としては完璧な選曲だ。
雨のたびに、鮎川の手の感触を覚えていく。指の長さ。握る力。体温。
翔太が「お前、雨の日だけ顔が生き返ってるぞ」と指摘してきた。黙れ。
木曜日の放課後。雨は降っていなかったが、蓮が鮎川に話しかけているのが見えた。
最近の蓮は派手なアプローチをしなくなった。コンサートの誘いのような大きなイベントではなく、小さな日常の中で鮎川を気にかけている。
教科書の音声データを共有する。授業で使うプリントを点字に起こす。雨の日に予備の傘を貸す。
今日は何を話しているのかは聞こえなかったが、鮎川が笑っていた。蓮も穏やかに笑っていた。
胸がちくりとした。
でも、前みたいに嫉妬で暴走することはなかった。蓮は蓮の方法で鮎川を大切にしている。オレはオレの方法で。
蓮が帰り際にオレの横を通りかかった。
「鈴木くん」
「……ああ」
「雨の日、いつも鮎川さんを送ってるんだね」
知っていたのか。
蓮の目は穏やかだった。怒りはない。嫉妬もない。ただ、事実を確認しているだけの目。
「……まあ」
「ありがとう。鮎川さんのこと、よろしく頼んだよ」
よろしく頼んだよ。
蓮はそう言って、穏やかに去っていった。
ライバルにお礼を言われる。不思議な感覚だ。蓮はオレを「敵」だと思っていない。鮎川を大切にしてくれる人間として、認めてくれている。
蓮の強さは、こういうところだ。嫉妬に飲まれない。相手を敵にしない。鮎川の幸せを、自分の気持ちより上に置ける。
オレにはまだ、そこまでの強さはない。でも、蓮の姿を見て、少しだけ近づきたいと思った。
鮎川を幸せにできるのが蓮であっても、それはそれでいい――とまでは、まだ思えない。
でも、いつかそう思えるくらいには、大人になりたい。
……いや、やっぱり鮎川の隣にいたいのはオレだ。蓮に譲る気はない。
矛盾している。でも、恋ってそういうものなんだろう。
六月最終週。金曜日の昼休み。
翔太と二人で弁当を食べていた。教室。鮎川と凛は屋上にいる。
「なあ湊。いい加減告白しろよ」
何回目だ、この台詞。
「……まだ早い気がする」
「何が早いんだよ。もう六月終わるぞ。夏休み入ったらどうすんだ」
「……」
「夏休みは毎日会えないんだぞ。告白のチャンスが減る。しかもあいつがまたアプローチしてくるかもしれない」
あいつ。蓮のことだ。
蓮は最近、表立った行動は控えている。でも、消えたわけじゃない。鮎川の隣の席で、さりげなくノートを見せたり、教科書の音声データを共有したり。地道なアプローチを続けている。
蓮は「諦めない」と言っていた。その言葉通りだ。
「翔太」
「おう」
「オレはまだ、鮎川のことを十分に知らない」
「十分って何だよ。一〇〇パーセント知ってる人間なんていないだろ」
「……鮎川が何を好きで、何が嫌いで、何を怖がって、何に笑うのか。全部知ってからじゃないと、好きって言葉が軽くなる」
翔太が黙った。
五秒。一〇秒。
「……お前って不器用すぎるけど、そういうとこは嫌いじゃないよ」
「……」
「でもな、全部知ってからなんて言ってたら、一生告白できないぞ。人間なんて、一緒にいる時間が長くなるほど新しい面が見えてくるもんだ。知り尽くすなんてことは、ない」
「……わかってる」
「わかってるなら……」
「でも、もう少しだけ時間が欲しい。この気持ちが本物かどうか、もう少しだけ確かめたい」
翔太がため息をついた。深い、長いため息。
「……本物かどうか、まだわかんないのか」
「わかんないんじゃない。本物だと思う。たぶん本物だ。でも……自信がない。オレみたいな人間が人を好きになっていいのか、みたいな……」
「は? 何だそりゃ」
「死んだ魚みたいな目で、感情が薄くて、何にも興味なさそうな人間が。鮎川みたいな子を好きになっていいのかって」
言ってしまった。ずっと胸の底に沈んでいた不安を。




