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死んだ魚のような目をしているオレは、盲目なあの子に恋をする。  作者: しましまましま
第3章 恋の骨折り損(Love's Labour's Lost)

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第56話 あの子色の雪が積もっている

 帰り道。

 雨が少し弱まった。さっきまでの豪雨が嘘みたいに、しとしとと静かな雨に変わっていた。

 空を見上げた。灰色の雲の隙間から、わずかに光が漏れている。天使のはしご。前に鮎川に教えたやつだ。雨の切れ間に現れる、光の柱。

 今日のことを振り返る。

 鮎川の腕に掴まる手。横断歩道で繋いだ手。「鈴木くんの手、あったかい」。雨の中の景色の話。「鈴木くんの声は雨の中でも聞こえる」。玄関先の笑顔。「鈴木くんがいてくれてよかった」。

 全部が、胸の中に積もっていく。雪みたいに。一つ一つ小さいけど、積もると風景が変わる。死んだ灰色の風景が、少しずつ白くなっていく。いや、白じゃない。鮎川色だ。オレの中に、鮎川色の雪が積もっている。

 ……何を言ってるんだ、オレは。鮎川色って何だ。

 でも、そういう言葉しか見つからない。

 恋って、語彙力を奪う病気でもあるらしい。


 帰宅。玄関を開けたら、母さんが「何その格好!」と叫んだ。右半身びしょ濡れのオレを見て、呆れた顔。


「傘差してたのに何でそんなに濡れてるの」

「……片方だけ差してた」

「片方だけ? 何で?」

「もう一人いたから」

「もう一人?」


 母さんの目がきらりと光った。


「女の子?」

「……」

「女の子でしょ。あんたがそんな顔するの、女の子がいたときだけだし」

「どんな顔してるんだよ」

「死んだ魚がちょっとだけ生き返ったような顔。最近ちょくちょく見るわよ、その顔」


 母さんにまでバレている。死んだ魚の生存率は、周囲にどんどん観測されている。プライバシーという概念はこの家にはない。


「いいから着替えなさい。風邪引くわよ」

「死んだ魚は風邪引かない」

「引くわよ馬鹿。タオル持ってきなさい」


 母さんにまで「死んだ魚」が通じている。家族公認のニックネームだ。

 自室に戻って、濡れた服を脱いだ。タオルで髪を拭く。

 右腕を見た。鮎川が掴まっていた場所。

 ……やっぱり、温かい気がする。


 翌週。

 梅雨は続いている。でも金曜日みたいな豪雨はなく、小雨か曇りが続いた。

 鮎川との日常は、雨の日以降も何も変わっていない。いつもの席で隣同士。いつもの昼休みに弁当。いつもの帰り道で景色を話す。

 変わったのは、雨の日だけだ。雨が降ると、オレが傘を差す。鮎川がオレの腕に掴まる。それが新しい「日常」になりつつあった。

 火曜日。小雨。傘を差して一緒に帰った。鮎川の手がオレの腕に。この日は雨が弱かったから、景色の話もできた。「雨上がりの空に虹が出てる」と言ったら、鮎川が「前に指で弧を描いてくれたやつだね」と笑った。覚えていてくれた。あの日のことを。

 水曜日。午後から雨。傘を差して一緒に帰った。鮎川がオレの腕に掴まりながら、シェイクスピアの『テンペスト』の話をしてくれた。嵐の話。「嵐の中で出会う二人の恋の話なの」と。雨の日にする話としては完璧な選曲だ。

 雨のたびに、鮎川の手の感触を覚えていく。指の長さ。握る力。体温。

 翔太が「お前、雨の日だけ顔が生き返ってるぞ」と指摘してきた。黙れ。

 木曜日の放課後。雨は降っていなかったが、蓮が鮎川に話しかけているのが見えた。

 最近の蓮は派手なアプローチをしなくなった。コンサートの誘いのような大きなイベントではなく、小さな日常の中で鮎川を気にかけている。

 教科書の音声データを共有する。授業で使うプリントを点字に起こす。雨の日に予備の傘を貸す。

 今日は何を話しているのかは聞こえなかったが、鮎川が笑っていた。蓮も穏やかに笑っていた。

 胸がちくりとした。

 でも、前みたいに嫉妬で暴走することはなかった。蓮は蓮の方法で鮎川を大切にしている。オレはオレの方法で。

 蓮が帰り際にオレの横を通りかかった。


「鈴木くん」

「……ああ」

「雨の日、いつも鮎川さんを送ってるんだね」


 知っていたのか。

 蓮の目は穏やかだった。怒りはない。嫉妬もない。ただ、事実を確認しているだけの目。


「……まあ」

「ありがとう。鮎川さんのこと、よろしく頼んだよ」


 よろしく頼んだよ。

 蓮はそう言って、穏やかに去っていった。

 ライバルにお礼を言われる。不思議な感覚だ。蓮はオレを「敵」だと思っていない。鮎川を大切にしてくれる人間として、認めてくれている。

 蓮の強さは、こういうところだ。嫉妬に飲まれない。相手を敵にしない。鮎川の幸せを、自分の気持ちより上に置ける。

 オレにはまだ、そこまでの強さはない。でも、蓮の姿を見て、少しだけ近づきたいと思った。

 鮎川を幸せにできるのが蓮であっても、それはそれでいい――とまでは、まだ思えない。

 でも、いつかそう思えるくらいには、大人になりたい。

 ……いや、やっぱり鮎川の隣にいたいのはオレだ。蓮に譲る気はない。

 矛盾している。でも、恋ってそういうものなんだろう。


 六月最終週。金曜日の昼休み。

 翔太と二人で弁当を食べていた。教室。鮎川と凛は屋上にいる。


「なあ湊。いい加減告白しろよ」


 何回目だ、この台詞。


「……まだ早い気がする」

「何が早いんだよ。もう六月終わるぞ。夏休み入ったらどうすんだ」

「……」

「夏休みは毎日会えないんだぞ。告白のチャンスが減る。しかもあいつがまたアプローチしてくるかもしれない」


 あいつ。蓮のことだ。

 蓮は最近、表立った行動は控えている。でも、消えたわけじゃない。鮎川の隣の席で、さりげなくノートを見せたり、教科書の音声データを共有したり。地道なアプローチを続けている。

 蓮は「諦めない」と言っていた。その言葉通りだ。


「翔太」

「おう」

「オレはまだ、鮎川のことを十分に知らない」

「十分って何だよ。一〇〇パーセント知ってる人間なんていないだろ」

「……鮎川が何を好きで、何が嫌いで、何を怖がって、何に笑うのか。全部知ってからじゃないと、好きって言葉が軽くなる」


 翔太が黙った。

 五秒。一〇秒。


「……お前って不器用すぎるけど、そういうとこは嫌いじゃないよ」

「……」

「でもな、全部知ってからなんて言ってたら、一生告白できないぞ。人間なんて、一緒にいる時間が長くなるほど新しい面が見えてくるもんだ。知り尽くすなんてことは、ない」

「……わかってる」

「わかってるなら……」

「でも、もう少しだけ時間が欲しい。この気持ちが本物かどうか、もう少しだけ確かめたい」


 翔太がため息をついた。深い、長いため息。


「……本物かどうか、まだわかんないのか」

「わかんないんじゃない。本物だと思う。たぶん本物だ。でも……自信がない。オレみたいな人間が人を好きになっていいのか、みたいな……」

「は? 何だそりゃ」

「死んだ魚みたいな目で、感情が薄くて、何にも興味なさそうな人間が。鮎川みたいな子を好きになっていいのかって」


 言ってしまった。ずっと胸の底に沈んでいた不安を。

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