第55話 死んだ魚は、水の中でしか生きられない
鮎川の家の前に着いた。
小さな一軒家。生け垣にアジサイが咲いている。雨に濡れた紫のアジサイ。さっき話した通り、晴れの日よりずっときれいだ。花びらに水滴が乗っていて、一つ一つがキラキラ光っている。宝石みたいだ、とさっき言ったのは嘘じゃなかった。
玄関のポーチの下に入った。ここは屋根があるから、雨が当たらない。傘を閉じた。
鮎川がオレの腕から手を離した。
その瞬間、腕が急にスカスカになった。鮎川の体温が消えた場所が、冷たい。雨で冷えていたのは右半身だったのに、鮎川の手が離れた左腕の方が寒く感じた。
横断歩道で手を繋いだ記憶が、まだ手のひらに残っている。小さくて温かい手。握り返してくれた力。
鮎川がオレの方を向いた。閉じた目。雨で少し濡れた髪。頬にも水滴がついている。さっきまでの赤みはだいぶ引いていたが、まだほんの少しだけ残っている。
「鈴木くん、右半身びしょびしょでしょ」
「……まあ」
「ごめんね。わたしのせいで」
「鮎川さんのせいじゃない。雨のせいだ」
「でも……」
「いいって。死んだ魚は水に濡れても平気だ。元から水の中にいるようなもんだから」
「また変なこと言ってる」
鮎川が笑った。
雨に濡れた顔で、笑った。
目を閉じたまま、口角を上げて、ふわっと。頬についた水滴が、笑うと少しだけ流れた。まるで、笑顔が水滴を押し流したみたいに。
眩しかった。
雨の日の薄暗い空の下で、鮎川の笑顔だけが光っていた。
「鈴木くん」
「ん」
「今日は本当にありがとう。鈴木くんがいてくれてよかった」
よかった。
二度目だ。一度目は歩いている途中に。二度目は今。
その言葉を聞くと、雨に濡れた全身が芯から温まる。物理的には冷たいはずなのに、体の内側が熱い。
鮎川が玄関のドアに手をかけた。鍵を出して、鍵穴を探す。指先で鍵穴の位置を確認して、差し込む。慣れた動作。
ドアが開いた。温かい空気が漏れてきた。家の中の匂い。柔軟剤と、かすかにカレーの匂い。夕食の準備がしてあるのだろう。
鮎川が半分だけ中に入って、振り返った。
「鈴木くん」
「ん」
「あのね。わたし、雨の日って嫌いだったの」
鮎川の声が、少しだけ小さくなった。
「音が全部消えて、方向がわからなくなって。白杖だけじゃ怖くて。小さい頃から、雨の日はいつも家で点字の本を読んでた。外に出たくなかった」
鮎川が雨を怖がっていることは、さっき見てわかっていた。でも、こうやって自分の口から言うのは、珍しい。鮎川はいつも強い。弱さを見せない。
それを今、見せてくれている。
「でも今日は、楽しかった」
「……楽しかった?」
「うん。鈴木くんが景色を教えてくれたから。水たまりの波紋とか、濡れた葉っぱの色とか。雨の日にも景色があるんだって知ったら、雨がちょっとだけ好きになった」
「……」
「雨の音は怖い。でも、鈴木くんの声は雨の中でも聞こえるの。不思議だね。他の音は全部かき消されるのに、鈴木くんの声だけはちゃんと聞こえる」
オレの声だけは聞こえる。
雨が全ての音を飲み込んでも、オレの声だけは鮎川に届く。
それは――耳の問題なのか。絶対音感のおかげなのか。
それとも――。
考えすぎるな。希望的観測はやめろ。
でも。
「また雨の日に送ってくれる?」
鮎川が聞いた。小さな声で。いつもの明るい鮎川じゃなくて、少しだけ弱い鮎川の声。
お願いしている声。
「……ああ。いつでも」
「約束だよ」
「約束だ」
鮎川がぱっと笑った。弱い鮎川が、一瞬でいつもの鮎川に戻った。
切り替えが早すぎる。さっきまで弱い顔をしていたのに、もう笑っている。鮎川はメンタルが鋼だ。弱さを見せても、すぐに立て直す。
でも、一瞬でも弱さを見せてくれたことが、嬉しかった。
オレを信頼してくれている証拠だから。
「じゃあね、鈴木くん。気をつけて帰ってね。風邪引かないでね」
「引かない。死んだ魚は風邪引かない」
「もう、それ信じないからね」
鮎川がドアの中に消えた。
ドアが閉まった。
――いや、閉まりかけて、もう一度開いた。
鮎川が顔を出した。
「鈴木くん」
「まだ何かあるのか」
「あのね。横断歩道で、手を繋いでくれたでしょ」
「……滑りやすかったから」
「うん。滑りやすかったからだよね。うん。わかってる」
鮎川が微笑んだ。その微笑みが、何かを含んでいる。「わかってる」の意味が、言葉通りじゃないことくらい、オレにもわかる。
「でもね、嬉しかった。手を繋いでくれて」
「……」
「じゃあ、本当にバイバイ。おやすみなさい」
ドアが閉まった。今度こそ、本当に。
カチャリと鍵がかかる音が聞こえた。
オレはポーチの下で、しばらく動けなかった。
嬉しかった。手を繋いでくれて。
鮎川がそう言った。わざわざドアを開け直して、言いに来た。
……反則だ。反則すぎる。
心臓が暴れている。肋骨を内側から叩いている。外に出ようとしている。
深呼吸した。一回。二回。三回。
落ち着け。落ち着け。死んだ魚に戻れ。
無理だった。
今日のオレは、完全に生きている。生存率一〇〇パーセント。翔太が見たら驚くだろう。死んだ魚が完全復活している。
……でもこれは一時的なものだ。明日にはまた七割くらい死に戻っている。
傘を開いて、雨の中に踏み出した。
鮎川の家から自分の家までは、三〇分くらい。一人で歩く。傘を差しても右半身はもう濡れている。いまさら傘を差す意味もないような気がするけど、一応差す。
歩きながら、左腕を見た。
鮎川が掴まっていた場所。まだ温かい気がする。鮎川の指の形が、服の上に残っている気がする。
気のせいだ。雨に濡れた服なんか、とっくに冷たくなっている。
でも、気のせいだとしても、温かく感じるのは本当だ。
鮎川の手。小さくて、温かくて、でもしっかりした手。オレの腕を握る力は、思ったより強かった。
あの手が怖がっていた。雨の音が怖くて、オレの腕にしがみついていた。
守りたい、と思った。
蓮みたいに完璧に守ることはできない。マップも作れないし、点字も上手く打てない。
でも、雨の日に傘を差すことはできる。水たまりを教えて、段差を数えて、信号を見てやることはできる。
そして、景色を伝えることができる。雨の日にしか見えない景色を。
それがオレのやり方だ。不器用で、地味で、ヒーローとはほど遠いけど。
死んだ魚は、水の中でしか生きられない。
でも、水の中でなら――誰よりもうまく泳げるかもしれない。




