第54話 雨の日にしか見えないものがある
横断歩道を渡り切った。歩道に上がった。
手を離すべきだ。もう危険は過ぎた。滑りやすい白線は終わった。
でも、離せなかった。
鮎川も、離さなかった。
二人とも、何も言わずに手を繋いだまま歩いている。
沈黙。雨の音だけが響いている。
鮎川の頬が赤い。雨で冷えているはずなのに、頬だけが赤い。
オレの顔も、たぶん赤い。死んだ魚が赤くなっている。鮮度がいい魚みたいだ。
何か言わなきゃ。この沈黙がいつまでも続いたら、心臓が本当に壊れる。
「……滑りやすかったから」
「え?」
「手。滑りやすかったから、掴んだ」
「……うん。ありがとう」
鮎川の声が小さい。いつもより、ずっと小さい。
理由をつけた。滑りやすかったから。嘘じゃない。でも、本当の理由はそれだけじゃない。
鮎川にはバレているだろう。声のトーンで。心拍数で。
でも鮎川は追及しなかった。小さな声で「ありがとう」とだけ言って、オレの手を握ったまま歩き続けている。
一〇秒。二〇秒。三〇秒。
手を繋いだまま、無言で歩く。雨の音だけが二人を包んでいる。
鮎川がぽつりと呟いた。
「鈴木くんの手、あったかい」
その声が、雨に溶けた。
あったかい。
オレの手は冷たいほうだ。体温が低い。死んだ魚だから。
でも鮎川には「あったかい」と感じられるらしい。
鮎川の手の方が温かいのに。
住宅街に入った。信号のない細い道。車もほとんど通らない。
ここでようやく、鮎川の手がオレの手からそっと離れた。代わりに、腕に掴まる形に戻った。
手が離れた瞬間、左手がすかすかになった。さっきまで鮎川の体温があった場所が、急に冷たくなった。
雨が手のひらに落ちた。鮎川の温もりを、雨が洗い流していく。
でも記憶は消えない。鮎川の指の感触。握り返してくれた力。「あったかい」の声。
全部、残っている。
普段の帰り道とは違う。普段は景色を言葉にして伝えている。夕焼けの色とか、アジサイの花びらとか。
でも今日は、「景色」を伝えている余裕はない。伝えるのは「危険」だ。水たまり、段差、信号、車の音。鮎川が安全に歩けるように、目の前の情報をリアルタイムで伝え続ける。
これがオレにできること。見えるオレが、見えない鮎川の代わりに世界を見ること。
景色を伝えるのと、同じだ。根っこは同じ。
オレの目が、鮎川のために動いている。
風が強くなった。傘が裏返りそうになる。片手で必死に持ち直す。鮎川がオレの腕を握る手に、さらに力が入った。
「大丈夫か」
「うん。鈴木くんがいるから、大丈夫」
鈴木くんがいるから、大丈夫。
その一言を聞いた瞬間、右肩がずぶ濡れなことも、靴の中に水が入ってきたことも、全部どうでもよくなった。
横断歩道を渡る。車が水しぶきを上げて通り過ぎた。鮎川をかばうように、車道側に体を寄せた。
鮎川がオレの腕を引いた。
「鈴木くん、車道側に寄りすぎ。危ないよ」
「……」
「わたしを守ろうとしてるの、わかるよ。体の傾きが変わったから。でも、鈴木くんが危ない目に遭ったら意味ないでしょ」
体の傾きでバレた。この子はすごい。雨で音がほとんど聞こえない状況でも、触覚で周囲を把握している。オレの腕の角度から、体の傾きを読み取っている。
「……わかった。気をつける」
「うん。二人で無事に帰ろうね」
二人で。
オレだけじゃなく、二人。鮎川はいつも「二人」で考える。自分だけが助けられる側じゃない。助ける側のオレのことも、ちゃんと見ている。見えないのに。
住宅街に入った。建物が風を遮って、少しだけ雨が弱まった。でもまだ本降りだ。傘を叩く雨音は止まない。
鮎川の家までの道を歩く。普段の帰り道よりも一〇分ほど長い。鮎川の家はオレの家よりも駅から遠い。
歩きながら、鮎川が黙っていた。いつもの帰り道なら、鮎川は「今日はどんな景色?」と聞いてくる。でも今日は聞かない。雨の日の景色は灰色一色で、伝えるものがないと思っているのかもしれない。
でも、そうじゃない。
「……鮎川さん」
「ん?」
「今日の景色、聞かないのか」
「え。……だって、雨でしょ。灰色で、何も見えないんじゃ」
「見えるよ。雨の日にしか見えないものがある」
鮎川がこちらを向いた。閉じた目が、少し見開かれたように見えた。
「雨の日にしか見えないもの?」
「ああ。まず、道路が光ってる。アスファルトに水が膜を作って、街灯の光を反射してる。濡れた道路は鏡みたいになるんだ。空の灰色がそのまま地面に映って、上と下が同じ色になる」
「上と下が同じ色……」
「あと、水たまりに波紋ができてる。雨粒が落ちるたびに、丸い波紋が広がって、隣の波紋とぶつかって消える。ずっと見てると催眠術みたいになる」
「催眠術」
「それから、雨に濡れた葉っぱ。普段は薄い緑なのに、雨に濡れると濃い緑になる。色が深くなる。アジサイもそうだ。雨の日のアジサイは、晴れの日の三倍きれいだ」
鮎川の表情が変わった。さっきまでの不安が、少しずつ消えていく。代わりに、いつもの好奇心が戻ってきた。
「三倍……雨の日の方がきれいなんだ」
「ああ。アジサイって、雨のために咲くんだと思う。晴れの日に見てもきれいだけど、雨の日に見ると本気を出す感じ。紫がもっと深くなって、花びらに水滴が乗って、キラキラ光ってる」
「キラキラ。……水滴が光るんだ」
「光ってる。街灯の光を反射して。一個一個の水滴が小さな宝石みたいだ」
鮎川が微笑んだ。雨の中で、穏やかに。
「鈴木くんの景色の話、好き」
好き。
……好き?
好き。
鮎川が「好き」と言った。景色の話が好きと言っただけだ。オレのことが好きと言ったわけじゃない。
わかっている。わかっているけど。
「好き」という単語が鮎川の口から出るだけで、心臓がおかしくなる。不整脈を起こしそうだ。鮎川の耳にはきっとバレている。心拍数が急上昇したことが。
でも鮎川は何も言わなかった。黙って、オレの腕に掴まって歩いている。
「雨の日は何も見えないと思ってた。でも、鈴木くんの目を通すと、雨の日も景色があるんだね」
「……どんな日にも景色はある。見る目があれば」
「死んだ目でも?」
「死んだ目でも。……いや、最近ちょっと生き返ってきたかもしれない」
「えへへ。生き返ってきてるんだ。よかった」
よかった。
鮎川が嬉しそうに言う。オレの目が生き返ってきたことを、本気で喜んでいる。
鮎川のおかげなのに。お前のおかげで生き返ってるのに。
それを言えないのが、もどかしい。




