第53話 雨の帰り道
梅雨が来た。
六月の第三週。天気予報がようやく「梅雨入りしました」と宣言した。長い長い前フリだった。ここ数週間ずっと「今週にも梅雨入り」と言い続けて、やっと本当になった。天気予報も恋と同じで、予定通りにはいかないらしい。
月曜日の朝から雨だった。灰色の空。低い雲。窓を叩く雨粒の音。教室の中は蛍光灯がいつもより明るく感じる。外が暗いからだ。
鮎川が教室に入ってきた。折りたたみ傘を片手に、もう片方に白杖。傘を閉じて水滴を払う仕草が、少し危なっかしい。
凛がすぐに駆け寄って、「傘、持つよ」と言った。鮎川が「ありがとう、凛ちゃん」と笑う。
雨の日の鮎川は、少し大変そうだ。普段は音と白杖で周囲を把握しているけど、雨の日は雨音がノイズになる。足音が聞こえにくくなる。水たまりの位置がわからない。傘を差しながら白杖を使うと、片手が塞がる。
オレはそれを見ながら、心の中でメモを取った。
鮎川が困ること。雨の日。
鮎川が怖いこと。豪雨で音がかき消されること。
鮎川が嬉しいこと。誰かが手を貸してくれること。
オレは自分に言い聞かせている。全部を知ってから告白する、と。鮎川が何を好きで、何が嫌いで、何を怖がって、何に笑うのか。
少しずつ、知っている。少しずつだけど、確実に。
梅雨に入ってから、毎日雨が続いた。
火曜日、小雨。水曜日、曇りのち雨。木曜日、本降り。金曜日、豪雨。
週の後半に向かうにつれて、雨足が強くなっていく。
金曜日の放課後。
六限目が終わった瞬間、窓の外を見て息を呑んだ。
滝のような雨。空が灰色を通り越して、ほとんど黒に近い。雷はまだ鳴っていないが、風が強くて窓がガタガタ震えている。
帰りの会が終わった。教室のあちこちで「傘あるけど、この雨じゃ意味ないな」「親に迎え頼もう」「図書室で雨宿りする?」と声が上がっている。
鮎川の顔を見た。
鮎川は席に座ったまま、じっと動かなかった。白杖を握る手に、少し力が入っている。表情が――いつもの笑顔じゃない。眉間にかすかな皺が寄っている。
雨音が聞こえているのだ。この豪雨の音が。
鮎川にとって、音は目の代わりだ。音で世界を把握している。でも、この雨の音は、全てを塗りつぶす。足音も、車の音も、信号の音も、全部が雨にかき消される。
それは鮎川にとって、視覚障害に加えて聴覚まで奪われるのと同じだ。
怖いだろう。
凛が鮎川の隣に立った。
「……雨、強いね。迎え呼ぶ?」
「お母さん、今日は仕事で遅いの。……大丈夫。少し待てば弱くなるかも」
鮎川が笑った。でもその笑顔がいつもより硬い。
凛がオレの方をちらりと見た。鋭い目。何かを訴えている目。
……わかってる。
翔太が後ろから肩を叩いた。
「行けよ」
「……」
「告白じゃなくていい。傘差してやれ。それだけでいいだろ」
翔太の声が、珍しく優しかった。
オレは自分の傘を確認した。折りたたみじゃなくて、ビニール傘。コンビニで買った安物だけど、大きめのやつだ。二人で入れるサイズではないが、ないよりマシだ。
鮎川のところに行った。
「鮎川さん」
「あ、鈴木くん。今日の雨、すごいね。音が……全部飲み込まれてる感じがする」
「……送るよ。家まで」
「え?」
「この雨じゃ一人は危ない。オレの傘、一本しかないけど」
鮎川が少し黙った。
二秒。三秒
それから、ふわっと表情が柔らかくなった。硬かった笑顔が、いつもの笑顔に戻った。
「……ありがとう。お願いしてもいい?」
「いいよ」
凛が小さく頷いた。「気をつけてね」と一言だけ。凛は自分の傘があるし、家の方向が違う。ここはオレに任せるということだろう。
翔太が遠くで親指を立てていた。安藤がその隣でニヤニヤしている。見守る会はいつでも活動中だ。
昇降口。
靴を履き替えて、外に出た。
雨。
想像以上だった。傘を差した瞬間、風に煽られてバランスを崩しそうになった。傘の布地を叩く雨音が、マシンガンみたいにバラバラバラと鳴り響く。
鮎川が隣に立った。白杖を右手に、左手でオレの腕を掴んだ。
……掴んだ。
鮎川の左手が、オレの右腕を掴んでいる。前にショッピングモールで掴まれたときと同じ。でも今日は、握る力が少し強い。
怖いんだ。この雨が。
普段は気丈な鮎川が、オレの腕にしがみついている。
「鈴木くん、ごめんね。ちょっと、掴まらせて」
「いい。しっかり掴まってろ」
歩き出した。
傘は一本。オレが左手で差して、鮎川に被せる。オレの右半身は傘からはみ出している。雨がジャケットの右肩に直撃する。すぐに濡れた。
でも構わない。鮎川が濡れなければいい。
「鈴木くん、傘、自分の方に寄せてよ。わたしばっかりかぶってる」
「いい。オレは濡れても平気だ」
「平気じゃないよ。風邪引くよ」
「死んだ魚は風邪引かない」
「何それ」
鮎川が笑った。雨の中で、笑った。
その笑い声が、雨音に溶けていく。でも聞こえた。ちゃんと聞こえた。鮎川の笑い声だけは、どんな雨にも消されない。
歩道を歩く。水たまりがあちこちにできている。
鮎川の白杖が水たまりを叩くと、ぱしゃっと跳ねる。足元が見えない鮎川には、水たまりの深さがわからない。
「右に水たまり。左に寄って」
「うん」
「あと三歩で段差。五センチくらい」
「ありがとう」
「電柱。左側に。鮎川さんの肩幅分くらい隙間がある」
「うん。……鈴木くん、案内上手だね」
「慣れてきた」
「えへへ。わたし専属のナビゲーターだね」
ナビゲーター。カーナビみたいなものか。死んだ魚ナビ。精度は微妙だが、愛情だけは純正品だ。
信号に差し掛かった。
「信号。まだ赤。……青になった。渡るぞ」
「うん」
横断歩道を渡る。雨で白線が滑りやすくなっている。鮎川の足元が一瞬ぐらついた。
反射的に、左手で鮎川の手を掴んだ。
――掴んだ。
傘を持っている左手じゃない。傘を右手に持ち替えて、空いた左手で鮎川の手を。
鮎川の手。小さい。でも指が長い。冷たくない。雨の中なのに、温かい。
鮎川がぴくっとした。
一瞬だけ、手が硬くなった。
でもすぐに、力が抜けた。オレの手を握り返してきた。
握り返してきた。
鮎川の指がオレの指に絡まった。
これは――手を繋いでいる。掴まっているんじゃなくて、繋いでいる。
頭が真っ白になった。
雨の音も、風の音も、車の音も、全部消えた。世界がオレと鮎川の手のひらの接点だけになった。
小さくて温かい手。オレの手より二回りくらい小さい。でも握る力はしっかりしている。




