第52話 この骨は、まだ折れ続ける
金曜日。翔太にバレた。
「お前、手紙渡してないだろ」
「……」
「渡してないな。顔に書いてある。『まだ渡してません』って点字で」
「うるさい」
「うるさくない。約束しただろ、来週中って。今日が期限だ」
「……もう少し時間が欲しい」
「何のための時間だ。点字の精度か? 文面の推敲か?」
「……」
「本当の理由はそんなんじゃないだろ」
翔太がオレの目をまっすぐ見た。死んだ目と、翔太の真剣な目。
「怖いんだろ。渡したら変わっちまうのが」
図星。
翔太は馬鹿じゃない。いつもふざけてるけど、大事なところは見えている。
「……ああ。怖い」
「何が怖い」
「鮎川との関係が壊れるのが。今の日常が変わるのが。帰り道で景色を話す時間がなくなるのが」
「……」
翔太が黙った。珍しく、何も言わない。
五秒。一〇秒。一五秒。長い沈黙。
「……わかった」
翔太が言った。意外にも穏やかな声で。
「無理にとは言わない。お前のペースでいい。でもな、湊」
「ん」
「いつか渡せよ。引き出しに入れっぱなしにすんな。あの手紙は、指が赤くなるまで打ったんだろ。その気持ちは本物だ。本物をしまい込んだまま腐らせるな」
「……」
「あとさ、お前が心配してる『日常が壊れる』ってやつ。たぶん大丈夫だよ」
「何でわかるんだ」
「鮎川さんだからだよ。あの子はそんなに弱くない。お前が何を言っても、鮎川さんは鮎川さんのままだ。あの子を信じろ」
鮎川さんは鮎川さんのままだ。
翔太の言葉が、胸に落ちた。
鮎川はメンタルが鋼だ。何を言われても折れない。どんな状況でも笑顔を失わない。目が見えないということを、一度も嘆いたことがない。
蓮に「友達として」と答えたときも、蓮との関係は壊れなかった。蓮は今でも鮎川の友達だ。鮎川はそういう子だ。誰かの気持ちを受け止めて、それでも関係を壊さない。
オレが「好きだ」と言ったところで、鮎川は壊れない。関係も壊れない。
……そう信じたい。
オレが怖がっているのは、鮎川が壊れることじゃなくて、オレが壊れることなのかもしれない。断られたときに、オレの心が耐えられるかどうか。
でも――翔太の言う通り、鮎川を信じよう。
今すぐ渡す勇気はない。でも、引き出しに入れっぱなしにもしない。
いつか。必ず。
「翔太」
「おう」
「……ありがとう」
「気持ち悪いこと言うな。おう、でいいだろ、おう、で」
「おう」
「それでいい。死んだ魚はシンプルでいい」
翔太が笑った。オレも、少しだけ笑った。
三割の生存率。翔太が前に言った数字。今は何割だろう。四割くらいにはなっただろうか。
体育祭で全力で走った。応援合戦で声を出した。鮎川に「ありがとう」と素直に言えた。唐揚げを「あーん」で食べた。……最後のは違うか。
でも、少しずつ変わっている。死んだ魚が、少しずつ泳ぎ方を覚えている。
引き出しの中の手紙。約四二〇点の告白。
まだ渡さない。でも、捨てない。
恋の骨折り損。告白未遂二連敗。手紙は引き出し。
全部が骨折り損だ。全部が空回りだ。
でも、骨を折った回数だけは、誰にも負けていない。
鮎川に言われた言葉を思い出す。
「恋のために頑張ったことは、ちゃんと残るでしょ?」
残っている。確かに残っている。
引き出しの中に。指先の痛みの記憶に。約四二〇点の凸点に。
全部、残っている。
恋の骨折り損。
でも――この骨は、まだ折れ続ける。
次はもっとうまく折る。
翔太が帰り際に振り返って言った。
「そういえば、来週から梅雨入りらしいぞ」
「マジか」
「雨だ。傘だ。チャンスだ」
「何がチャンスなんだよ」
「相合い傘だろ。ベタだけど強い」
翔太がニヤリと笑って去っていった。
相合い傘。
……まあ、鮎川は雨の日に困る。豪雨だと音が全部かき消されて、方向がわからなくなる。白杖だけじゃ足りない。傘を差しながら白杖を使うのは大変だ。両手が塞がる。
そのとき、オレが傘を差してやれたら。
それは告白じゃない。サポートでもない。ただの、隣にいたいという気持ちだ。
蓮みたいに完璧なサポートはできない。点字のマップも作れないし、タブレットの設定もできない。
でも、雨の日に傘を差すことはできる。鮎川の隣を歩いて、段差を教えて、水たまりを避けて。
それだけなら、死んだ魚にもできる。
梅雨入り。
雨の季節が来る。
引き出しの中の手紙は、まだ眠っている。でも、手紙が目を覚ますのを待っている間にも、季節は進んでいく。
梅雨の後には夏が来る。夏が来たら夏休みだ。夏休みに入ったら、毎日は会えなくなる。この帰り道の日常が途切れる。それまでに、何かを変えられるだろうか。
……考えすぎだ。今は、目の前の雨に備えよう。
点字の練習を続けよう。手紙はまだ渡さないけど、点字の腕は磨いておく。いつ渡すことになっても、いいように。
恋の骨折り損は、まだ続く。
でも、骨が折れるたびに――死んだ魚の目は、少しずつ生き返っていく。
三割だった生存率が、四割になり、いつか五割になり。
半分以上生き返ったとき、きっとオレは手紙を引き出しから出す。
その日まで――骨を折り続ける。
六つの点に、気持ちを込めて。




