第51話 臆病な死んだ魚
さっきの三か所に気をつけて、慎重に打つ。一点一点、力加減を意識しながら。
「り」。ぽち。しっかり打てた。「は」。ぽち、ぽち。大丈夫。スペース。間隔を広めにとった。
集中力を途切れさせないように、呼吸を整えながら打ち続ける。一文字、また一文字。点筆を握る指に力が入る。でも入りすぎないように。軽く、でも確実に。
「すずき」の「す」。四点。ぽち、ぽち、ぽち、ぽち。
「みなと」の「と」。四点。ぽち、ぽち、ぽち、ぽち。
最後の一文字。
……打てた。
午前二時。
六枚目。最終稿。
裏返して触った。さっきより凸点がはっきりしている。力加減のコツが少しだけ掴めたのかもしれない。五枚失敗して、六枚目でようやく。失敗の数だけ上手くなるというのは本当だ。
入門書と照合する。一文字ずつ。丁寧に。
全文、一致。
たぶん、合っている。
たぶん。
「たぶん」が消えないのが、もどかしい。もし鮎川が読んでくれる人なら――いや、鮎川に読んでもらうために書いたんだ。鮎川の指先がこの凸点に触れる。一文字ずつ、左から右へ。指の腹で凸凹を感じ取って、文字を認識して、意味を理解する。
鮎川が「あゆかわさんへ」を読む。「おれわ」を読む。「あゆかわさんのことが すきです」を読む。
想像しただけで、心臓が壊れそうだ。
……渡せるのか。本当に渡せるのか。
渡したら、もう戻れない。友達の関係が変わる。良い方にも、悪い方にも。
友達でいられなくなるかもしれない。帰り道で景色を話す日常が、壊れるかもしれない。
「今日はどんな景色?」と聞いてくれる鮎川が、「今日はどんな景色?」と聞いてくれなくなるかもしれない。
それは。
それだけは。
……怖い。
手紙を持つ手が震えた。
怖い。好きだと伝えることより、嫌われることより、何より――日常が壊れることが怖い。
シェイクスピアの戯曲なら、ここで主人公は勇気を出して手紙を渡すんだろう。ナヴァールの王も恋文を書いた。
でもオレは王様じゃない。死んだ魚だ。王冠の代わりに死んだ目をかぶっている。
鮎川が言った。「恋の努力は失われない」。
その言葉を信じたい。たとえ今渡せなくても、この手紙を書いた時間は消えない。指先の痛みは消えない。
でも、渡さなきゃ意味がない。書いただけの手紙は、ただの紙だ。
……今日は、無理だ。
手紙を引き出しにしまった。
机の一番奥の、一番深いところに。
まだ、賭けられない。
まだ、準備ができていない。
点字が上手く打てているか自信がない。文面ももっと推敲すべきかもしれない。渡すタイミングも場所も決まっていない。
理由はいくらでもある。でも、本当の理由は一つだ。
怖い。
日常を失うのが、怖い。
引き出しを閉めた。
午前二時半。
ベッドに倒れ込んだ。
天井を見た。蛍光灯は消えている。暗い天井。何も見えない。
鮎川はいつも、こうやって暗闇の中にいるのだろうか。何も見えない世界。
でも鮎川は暗闇を怖がらない。見えないことを嘆かない。見えない世界の中で、音と声と触感で、自分の宇宙を作っている。
オレは――何を怖がっているんだ。
見えている。全部見えている。鮎川の笑顔も、夕日も、アジサイも、二羽のスズメも、全部見えている。
なのに、一番大事なことが見えていない。
目を閉じた。
暗闇。
この暗闇の中で、鮎川は世界を聴いている。
オレは暗闇の中で、自分の心臓の音を聴いた。
どくん。どくん。どくん。
規則正しく、でも少し速い。
鮎川のことを考えると、いつも少し速くなる。
引き出しの中の手紙。六枚目の最終稿。約四二〇点の凸点。
いつか渡す。きっと渡す。
でも今日じゃない。
明日でもない。
もう少しだけ。もう少しだけ、この日常を。
鮎川の隣を歩く時間を。景色を言葉にする時間を。
もう少しだけ。
……翔太には「期限は来週中」と言った。
約束を破ることになる。
翔太、ごめん。
でもオレは、まだ臆病な死んだ魚だ。
海を目指して泳ぎ出したはずなのに、岸から離れるのが怖い。
波が怖い。潮の流れが怖い。水の冷たさが怖い。
でも、一番怖いのは――海に出て、もう岸に戻れなくなること。
鮎川に「好き」と伝えて、もう「友達」に戻れなくなること。
引き出しの中で、点字の手紙が眠っている。
約四二〇点の、小さな告白が。
いつか目を覚ます日を、待ちながら。




