第49話 恋する男の骨折り損
ぶーぶーぶーぶー。
鮎川のスマホが鳴った。
バイブレーション。ポケットの中で激しく震えている。
鮎川が慌ててスマホを取り出した。音声読み上げ機能が起動して、小さな声で「おかあさん」と読み上げた。
母親からの電話。
「あ、ごめん。お母さんからだ。出てもいい?」
「……ああ」
鮎川が電話に出た。
「もしもし? ……うん。……え、今日? ……わかった。すぐ帰る」
電話を切った鮎川が、申し訳なさそうな顔をした。
「ごめんね鈴木くん。お母さんが急いで帰ってきてって。病院の予約が今日の夕方に変更になったみたいで」
「病院?」
「定期検診なの。目の。三か月に一回やってて。今日は来週の予定だったんだけど、先生の都合で急に今日になったって。ごめんね、話って何だった?」
話って何だった。
また、この質問。
体育祭のときと同じ。オレが口を開こうとした瞬間に、何かが邪魔をする。
でも今回は蓮じゃない。鮎川の母親だ。定期検診だ。鮎川の目の健康に関わることだ。
これは邪魔とは呼べない。鮎川にとって大事な予定だ。
邪魔できるわけがない。
「……また今度でいい」
「ほんとにごめんね。今度ちゃんと聞くから」
「いいよ。検診、行ってこい」
「うん。ありがとう、鈴木くん」
鮎川が急いで屋上を出ていく。階段を降りる足音が遠ざかっていく。かつ、かつ、かつ。白杖の音。いつもよりテンポが速い。急いでいる証拠。
一人残された屋上。
夕日が沈んでいく。茜色がだんだん暗くなっていく。
翔太のノートの切れ端がポケットに入っている。『デッドフィッシュ魂を見せろ』。見せられなかった。デッドフィッシュ魂はスマホの着信音に負けた。
フェンスに寄りかかった。金属の冷たさが背中に伝わる。
さっきまで鮎川がいた場所。鮎川の体温がまだ残っている気がする。ジャスミンの匂いが、まだ微かに漂っている。
オレは空を見上げた。
西の空に、一番星が光り始めていた。まだ薄明るいのに、一つだけ先走って光っている。せっかちな星。
……オレもせっかちだったのかもしれない。
いや、逆だ。遅すぎたのかもしれない。もっと早く言えていたら。体育祭の日に言えていたら。いや、もっと前に。五月に気持ちを認めた瞬間に。
でも、鮎川が言っていた。「すぐに手に入る恋は本物じゃない」と。
急がなくていい。そう思っていたはずだ。なのに、いざチャンスが来ると焦る。焦って、空回りする。
口から、ぽつりと出た。
「……骨折り損だ」
誰もいない屋上に、その呟きが吸い込まれていった。
風が吹いた。六月の風。まだ乾いているけど、どこか湿り気を帯び始めている。梅雨の前触れだ。
告白未遂、二回目。
恋の骨折り損。シェイクスピアは正しかった。骨を折っても折っても、報われない。
一回目は蓮。二回目は母親の電話。
神様がいるなら、オレの告白を邪魔するのが趣味なんだろう。
いや、神様じゃない。たぶんシェイクスピアだ。四〇〇年前のイギリス人が、天国からオレの恋を観察して台本を書いている。「まだ早い。もうちょっと引っ張ろう」とか言いながら。
……勝手にしてくれ。
でも、まだ諦めない。
諦めないぞ。
帰り道は一人だった。
鮎川は病院に行った。いつもの帰り道を一人で歩く。白杖の音が聞こえない帰り道は、やたら静かだ。
アジサイが咲いている。紫が深い。雨がまだ降っていないのに、もう完全に咲ききっている。
このアジサイの色を鮎川に伝えたい。「今日のアジサイは紫が濃い。堂々としてる」って。
でも隣に鮎川はいない。
一人の帰り道がこんなに寂しいとは。
四月の頃は毎日一人で帰っていたはずなのに、たった二か月で「一人」が寂しくなった。鮎川がいない帰り道は、景色に意味がなくなる。アジサイはただのアジサイで、夕日はただの夕日で、空はただの空だ。
鮎川がいるから、景色に言葉が生まれる。鮎川がいるから、オレの目は世界を見る意味を持つ。
……依存しすぎかもしれない。
でも依存じゃない。これは恋だ。翔太がそう言った。シェイクスピアもそう言った。
恋は一種の狂気。
狂っているのかもしれない。でも、この狂気は心地いい。
スマホが震えた。鮎川からの音声メッセージ。
『鈴木くん、さっきはごめんね。検診終わったよ。目は異常なしだった。ねえ、さっきの話って何だった? 気になってるの。鈴木くんの声、すごく真剣だったから』
真剣だった。そりゃそうだ。告白しようとしてたんだから。
返事を打つ。何を書くか、一〇分悩んだ。結局。
『検診異常なしでよかった。話はたいしたことない。今度話す』
「今度話す」。いつの今度だ。自分でも突っ込みたい。
鮎川から返事が来た。音声メッセージ。
『そっか。よかった。あ、鈴木くん。今日の帰り道の景色、教えてくれなかったね。明日は教えてね。楽しみにしてる』
楽しみにしてる。
鮎川はオレの景色の話を、楽しみにしている。
明日も帰り道を一緒に歩いてくれる。景色を聞いてくれる。
この日常は、壊れていない。
告白に失敗しても、日常は続いている。
……もしかしたら、告白しても壊れないのかもしれない。
いや、希望的観測はやめよう。でも、少しだけ希望が持てた。
翌日。木曜日の昼休み。
「……マジかよ。二連続で失敗?」
翔太が信じられないという顔をしていた。
「今度は母親の電話だ」
「タイミング悪すぎるだろ。お前の恋はシェイクスピアに脚本書かれてんのか」
「たぶん書かれてる」
「自覚あるんだ」
翔太が腕を組んだ。
「直接告白が二連敗。正面突破は無理ってことだ。作戦変更だな」
「作戦変更?」
「手紙にしろ。前に言っただろ、点字の手紙。直接言えないなら、書いて渡せ。手紙なら邪魔が入らない。渡すだけだから、タイミングに左右されにくい」
「……手紙か」
点字の手紙。
鮎川の言語で、気持ちを伝える。
直接言う勇気はまだ足りない。二回やって二回とも失敗した。タイミングの問題もあるけど、たぶん、オレ自身がまだ言葉を持っていないのだ。
「好き」と言うだけなら二文字で済む。でも、ただ「好き」と言うだけでは足りない。なぜ好きなのか。どう好きなのか。鮎川の何に惹かれたのか。
それを言葉にしなきゃいけない。声で伝えるには、まだその言葉を見つけられていない。
でも、手紙なら。
時間をかけて、何度も書き直して、一番いい言葉を選べる。点字なら、一点一点に気持ちを込められる。
何より――鮎川の指先に届く。鮎川が自分のペースで、何度でも読み返せる。声は消えるけど、点字は残る。
やろう。
「翔太」
「おう」
「点字の手紙、書く」
「おっ、やるか! 期限は?」
「……来週中には」
「よし。期限決めたな。逃げるなよ」
「逃げない」
「約束だぞ。指切り」
「……小学生か」
でも指切りした。翔太の小指とオレの小指が絡まる。男子高校生の指切りは、かなり間抜けな絵面だ。
その週、学校ではいつもの日常が続いていた。
授業を受けて、昼休みに鮎川と弁当を食べて、帰り道に景色を話す。何も変わらない。何も変えていない。
でもオレの中では、小さな嵐が吹き荒れている。




