第48話 死んだ魚に勇気はあるのか
「鮎川さん、片付けで重いもの運ぶの手伝おうか」
蓮の声が、すぐ後ろから聞こえた。
振り返った。蓮が立っていた。折りたたみ椅子を両手に抱えて、穏やかな笑顔で。
タイミング。最悪のタイミング。
蓮は何も知らない。オレが告白しようとしていたことなんて、知るわけがない。ただ片付けの手伝いを申し出ただけだ。善意。純粋な善意。
でもオレにとっては、致命的な介入だった。
「あ、御堂くん。ありがとう。でもわたし、今は座って休んでるだけだから大丈夫だよ」
「そう? 無理しないでね。何かあったら言って」
「うん、ありがとう」
蓮がにこやかに去っていく。
雰囲気は――完全に壊れた。
さっきまでの緊張感が、霧みたいに消えた。心臓のバクバクが、しぼんだ風船みたいに萎んでいく。
鮎川がオレに向き直った。
「鈴木くん、話って何だった?」
「……いや、なんでもない」
「なんでもなくないよ。声が震えてたもん」
バレている。声で、全部バレている。
でも、言えない。もう言えない。あの瞬間の勢いは、蓮の出現と一緒に消えた。
「……体育祭、お疲れって言おうとしただけだ」
「そっか。鈴木くんもお疲れさま」
鮎川がにこっと笑った。
疑っていない。オレの嘘を――いや、半分だけの嘘を。「お疲れ」と言おうとしたのは嘘じゃない。でもその先に「好きだ」がくっつくはずだった。
……いや、鮎川は声で嘘を見抜く。「なんでもない」が嘘だということは、たぶんわかっている。
わかっていて、追及しなかった。
それが優しさなのか、鈍さなのか、それとも――。
考えるのをやめた。
告白未遂、一回目。
骨折り損。
翔太が遠くからオレを見て、両手を広げた。「どうだった?」のジェスチャー。
オレは首を横に振った。
翔太が天を仰いだ。「マジかよ」と口が動いていた。
月曜日。
教室。朝のホームルームが始まる前。
「お前、タイミング逃しすぎだろ」
翔太の第一声がこれだった。席に座る前に、開口一番。
「うるさい」
「うるさくないわ。あれだけお膳立てしてやったのに。オレが三組の佐藤たちを引きつけるのにどれだけ苦労したか知ってるか? いきなり『あっちの倉庫の片付け手伝ってくれ!』って誘って、不審がられたぞ」
「……すまん」
「すまんじゃねえよ。で、具体的に何があった」
「御堂が来た」
「……御堂?」
「タイミング最悪で。鮎川に『重いもの運ぶの手伝おうか』って」
「あいつ……善意の塊すぎて逆に邪魔だな」
翔太が机に突っ伏した。
「で、どうすんだ。次のチャンスは」
「……わかんない」
「じゃあ作るしかないだろ。放課後、屋上に鮎川さんを呼び出せ」
「呼び出す?」
「『鮎川さん、放課後ちょっと屋上来てくれない? 話がある』って。シンプルでいいだろ」
「シンプルすぎないか」
「シンプルが一番だよ。変に凝ると失敗するのはお前が体育祭で証明しただろ」
翔太の言葉が正論すぎて反論できない。
呼び出す。屋上に。二人きりで。そこで告白する。
プランとしてはシンプル。でも実行するには、途方もない勇気がいる。
死んだ魚に勇気はあるのか。……あるかもしれない。鮎川のためなら。
水曜日の放課後。
決行日。
昼休みから胃が痛い。弁当がほとんど喉を通らなかった。翔太が「顔色やばいぞ。死んだ魚を通り越して干物になってる」と心配してきた。
鮎川が「鈴木くん、大丈夫? 声に元気がないよ」と心配してきた。元気がないのはお前に告白しようとしているからだ、とは言えない。「大丈夫。ちょっと寝不足」とごまかした。点字の練習で寝不足なのは本当だ。
五限目の授業中、ずっとシミュレーションしていた。
屋上。夕日。二人きり。
「鮎川さん」「ん?」「オレは……鮎川さんのことが好きだ」。
ここまでは言える。たぶん言える。問題はその後だ。
鮎川が何て答えるか。五通りのパターンを想定した。
一。「わたしも好きだよ」――理想。でも確率は低い。
二。「えっ……」――沈黙パターン。これが一番ありえる。
三。「ありがとう。でもわたしは……」――お断りパターン。覚悟はしてる。
四。「友達としてだよね?」――ズレパターン。これは困る。
五。「知ってた」――鮎川の耳なら、ありえなくもない。
どのパターンでも、言うことに意味がある。言わないと、何も始まらない。
翔太がノートの切れ端を渡してきた。何か書いてある。読んだ。
『告白の心得 by 桐谷翔太
一、目を見て言え(鮎川さんは目閉じてるけど、方向は合わせろ)
二、声はハッキリ。死んだ声禁止
三、言い終わるまで黙れ。途中で言い訳するな
四、返事がどうであれ「ありがとう」で締めろ
五、走って逃げるな
健闘を祈る。お前ならできる。デッドフィッシュ魂を見せろ』
……何だこれ。恋愛マニュアルか。しかも五番、走って逃げるなって何だ。逃げないだろ普通。
でも、ちょっとだけ心が軽くなった。翔太なりの応援が、このノートの切れ端に詰まっている。
六限目が終わった。心臓が早い。
帰りの会が終わる。鮎川が鞄をまとめている。
今だ。
席を立った。鮎川のところへ行く。足が重い。
鮎川の隣の席。この距離を何百回歩いたかわからない。でも今日は、その一歩一歩が鉄の靴を履いているみたいに重い。
「鮎川さん」
「あ、鈴木くん。一緒に帰ろ」
「その前に……ちょっと話がある。屋上、来てくれないか」
声が低い。いつもより低い。緊張で声帯が締まっている。
鮎川がオレの声を聞いて、少しだけ首を傾げた。
「屋上? うん、いいよ」
あっさり了承。鮎川は疑っていない。
凛がこちらを見た。文庫本の上から、鋭い目。
凛にはバレている。点字の本を借りていたオレを見た凛には、オレの気持ちなんてとっくにバレている。
凛が小さく頷いた。行け、と言うように。
凛なりの応援、二回目。
屋上。
六月の夕方。風が気持ちいい。西の空が染まり始めている。茜色。オレンジと赤の中間。鮎川に伝えるなら、「手のひらで温めたミカンの色」とでも言うか。
オレと鮎川の、二人きり。
フェンスの前に立った。フェンス越しに町が見える。屋根が夕日に照らされて、キラキラ光っている。遠くに電車が走っているのが見えた。小さな銀色の箱が、線路の上を滑っていく。
鮎川が隣に立った。風が鮎川の髪を揺らしている。スカートの裾がはためいている。
夕日が鮎川の横顔を照らしている。閉じた目。長いまつげ。頬のライン。首筋に、小さなほくろがある。今まで気づかなかった。こんなに近くで見たのは、初めてかもしれない。
きれいだ。
いつ見てもきれいだ。でも今日は特別にきれいだ。夕日のせいか、シチュエーションのせいか、オレの心臓のせいか。全部だ。全部がきれいに見せている。
風が鮎川の髪を一房持ち上げて、また下ろした。ジャスミンの匂いがした。鮎川の髪から、ジャスミン。あの帰り道で嗅いだのと同じ匂い。シャンプーか何かだろう。
匂いまで記憶しているオレは、もう完全に末期だ。
「鈴木くん、話って何?」
鮎川が穏やかに聞いた。
今だ。今しかない。
深呼吸。肺が膨らむ。空気が入る。吐く。もう一回。
口を開いた。
「鮎川さん、オレは……」




