第47話 あの子にはわかる
昼休み。弁当。
テントの下で、クラスメイトと一緒に食べた。体育祭の日は教室じゃなくてグラウンドのテントで食べるのが恒例だ。
鮎川が隣にいた。凛がその隣。翔太が向かい。安藤がその向かい。蓮は少し離れた場所で別のグループと食べていた。
弁当を広げながら、午前中の競技の話で盛り上がっている。
「大縄六八回はすごくない?」
「鮎川さんのリズムが神がかってた」
「桐谷くんが三回引っかかったけどね」
「うるさいわ! あれは靴紐がほどけたんだよ!」
翔太が弁解するが、誰も信じていない。教室中の笑い声がテントの下に反響する。
鮎川がオレの方を向いた。
「鈴木くん、お弁当何?」
「卵焼き。ウインナー。ブロッコリー。普通」
「普通って言いながら、全部好きなものでしょ」
「……なんでわかる」
「声のトーンでわかるよ。好きなもの食べてるとき、鈴木くんの声はほんの少しだけ上がるの」
声のトーンで弁当の中身への好意がバレる。プライバシーが存在しない。
鮎川が自分の弁当から唐揚げを一つ、箸で摘み上げた。
「はい、鈴木くん。お母さんの唐揚げ、おいしいから食べて」
「え」
「はい。あーん」
あーん。
鮎川が箸でオレに唐揚げを差し出している。あーん。何の躊躇もなく。目が見えないから、周囲の視線に気づいていない。
でもオレには見える。翔太の口がぽかんと開いているのが。安藤が目を見開いているのが。周囲のクラスメイトの何人かが、ニヤニヤしながらこちらを見ているのが。
「あーんじゃなくて、自分の弁当に入れてもらえば」
「え? ダメ?」
鮎川が首を傾げている。純粋な疑問の顔。
「……ダメじゃないけど」
仕方なく、鮎川の箸から唐揚げを受け取って口に入れた。
旨い。鮎川の母さんの唐揚げは旨い。でもそれ以上に、鮎川の箸から食べたという事実が、心臓に悪い。
翔太がスマホを構えていた。「撮った」と口パクしている。後で殺す。
午後の後半。応援合戦。
鮎川が応援席の前に立った。白杖をたたんで、両手を広げる。指揮者のポーズ。
練習のときと同じ。でも、今日の鮎川は少し違った。
顔が上がっている。いつもより少しだけ、上を向いている。見えない目が、空を向いている。
まるで、空に向かって歌うように。
「せーの!」
鮎川の声を合図に、クラス三〇人の声が一つになった。
校歌のアレンジ。鮎川が編曲した特別バージョン。低音パートと高音パートに分かれて、ハーモニーを作る。
練習では何度も崩れた箇所が、本番では完璧に決まった。鮎川の指揮が的確で、声のバランスがぴたりと揃っている。
オレは低音パート。ベース音。鮎川が「支えてくれる音」と呼んだパート。
声を出しながら、鮎川の指揮する姿を見ていた。
目を閉じたまま、音だけで三〇人をまとめ上げる少女。風に髪がなびいて、頬が上気している。声を張るたびに、体が小さく揺れる。
音楽に身を委ねているのがわかった。鮎川にとって、音は光だ。音楽は景色だ。三〇人の声のハーモニーが、鮎川の世界では虹色に輝いているのかもしれない。
見惚れた。
文字通り、見惚れた。
声を出すのを忘れそうになって、慌てて戻した。ベース音が欠けたら鮎川にバレる。あの耳は、一人でも声が抜けたら即座に聞き分ける。
応援合戦の結果――クラス対抗で一位。
鮎川のもとにクラスメイトが駆け寄る。「鮎川さんすごい!」「一位だよ!」「最高!」。鮎川が笑っている。泣きそうな笑顔。嬉しくて、嬉しくて、たまらないという顔。
蓮も鮎川に近づいて、「すごかったよ、鮎川さん」と穏やかに言った。鮎川が「ありがとう、御堂くん」と笑顔で返す。
……蓮に対しても、同じ笑顔。
胸がちくりとした。でも今日は、嫉妬に負けない。鮎川の笑顔を、素直に見ていたい。
オレも近づいた。人の輪の外側から、小さな声で。
「……一位、おめでとう」
声が小さすぎて、届かなかったかもしれない。周りがうるさいし。
でも、鮎川の耳は違う。
「鈴木くん?」
人の輪をすり抜けて、鮎川がオレのほうを向いた。
「今の、鈴木くんの声?」
「……ああ」
「ありがとう。一位取れたの、鈴木くんのベース音があったからだよ」
「オレは別に何も……」
「あるよ。低い声がしっかり支えてくれたから、みんな安心して歌えたの。わたしにはわかる」
わたしにはわかる。
その一言が、重い。
鮎川には音がわかる。声がわかる。感情がわかる。オレの声の中に含まれている感情が、全部わかる。
……今のオレの声にも、「好き」が滲んでいるんだろうか。
鮎川がにっこり笑って、人の輪に戻っていった。
残されたオレは、死んだ目のまま空を見上げた。
六月の空。青い。高い。眩しい。
鮎川の笑顔より眩しいものは、この空にはない。
体育祭が終わり、後片付けの時間になった。
午後四時。テントの撤収、万国旗の取り外し、ゴミ拾い。生徒たちがグラウンドに散らばって作業をしている。
夕暮れが近づいてきた。西の空がオレンジ色に染まり始めている。体育祭の熱気が少しずつ冷めていく。汗が引いて、風が肌に心地いい。
グラウンドのスプリンクラーが水を撒いている。土の匂い。夕方の匂い。体育祭が終わった匂い。
何か一つのことが終わって、次の何かが始まる。そういう境目の空気が、グラウンドに漂っている。
翔太がオレの背中をどんと叩いた。
「行けよ」
「どこに」
「鮎川さんのとこ。今がチャンスだろ」
翔太が目で合図した。グラウンドの端、倉庫のそば。鮎川が一人で、運動用具の箱の上に座っていた。凛は別の場所でテントの片付けをしている。安藤も離れた場所にいる。蓮は騎馬戦で使ったマットを運搬中で、グラウンドの反対側にいる。
二人きりになれるタイミング。
翔太が「オレが他のやつらをこっちに引きつけとく」と囁いた。どうやるのかは知らないが、翔太には翔太なりの人たらし術がある。
安藤が遠くから翔太にアイコンタクトを送っていた。翔太が親指を立てて返した。二人は完全に共犯だ。秘密結社「見守る会」が暗躍している。
……行くか。
足が震えた。体育祭で走り回った疲労のせいじゃない。緊張だ。純度一〇〇パーセントの緊張。
一歩、二歩。鮎川に近づく。
鮎川が白杖で地面をとんとんと叩いている。疲れたのか、少しだけ俯いている。体育祭で一日中立ったり歩いたりして、さすがに疲れているのだろう。でも疲れた顔すら、きれいだと思ってしまう。重症だ。
足音で気づいたらしく、顔を上げた。
「鈴木くん?」
「……ああ。オレ」
「足音でわかった。鈴木くんの歩き方、独特なんだよね。左足の方がちょっとだけ着地が重い」
「そんな細かいとこまで……」
鮎川の隣に座った。運動用具の箱は硬くて冷たい。でもそんなことは気にならない。
夕日がグラウンドをオレンジに染めている。後片付けの声が遠くに聞こえる。風が少し冷たくなってきた。
二人きり。
心臓がうるさい。絶対バレてる。鮎川の耳には、オレの心拍数の上昇がモロに聞こえているはずだ。
言え。今言え。
ここで言わなかったら、次はいつチャンスが来るかわからない。
深呼吸した。一回。二回。三回。
「鮎川さん」
「ん?」
「少し……話がある」
声が震えた。自分でもわかるくらい。
鮎川がオレのほうを向いた。閉じた目が、まっすぐオレを見ている。
「うん。何?」
柔らかい声。待ってくれている声。
言え。言え。言え。
口を開いた。
オレは――。




