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死んだ魚のような目をしているオレは、盲目なあの子に恋をする。  作者: しましまましま
第3章 恋の骨折り損(Love's Labour's Lost)

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第45話 半月は必ず満月になる

 凛が立ち上がった。文庫本を閉じて、鞄にしまう。


「……そろそろ戻る」

「凛ちゃん、もう?」

「次、英語の小テスト」

「あ、わたしも勉強しなきゃ。鈴木くん、行こう」

「ああ」


 屋上から階段を降りる。いつもの段差を数える。

「あと五段」「踊り場」「あと八段」。

 鮎川がオレの声を頼りに降りていく。一段一段、慎重に、でも迷いなく。

 オレの声が、鮎川の足元を照らす光になる。

 この日常を――もう少しだけ、続けよう。

 恋の骨折り損。

 骨を折っても報われない恋。

 でも――折れた骨は、前より強くくっつく。

 点字を覚える。鮎川の世界を知る。鮎川が好きなものを知る。鮎川が怖いものを知る。

 全部を知ってから、初めて「好きだ」と言おう。

 時間がかかっても、いい。

 ナヴァールの王が待ったように、オレも待つ。

 この気持ちが本物だと、自分自身で確かめるまで。


 帰り道で、鮎川が最後にこう言った。


「ねえ鈴木くん。『恋の骨折り損』の原題、知ってる?」

「Love's Labour's Lost、だろ。ネットで調べた」

「知ってるんだ。英語だと、Labour'sは『努力の』って意味もあるの。恋の努力が失われる。でもね、わたしは思うの。失われてなんかいないって」

「……」

「だって、恋のために頑張ったことは、ちゃんと残るでしょ? 結果がすぐに出なくても、努力は消えない。王様たちが詩を書いて、歌を歌って、踊りを踊って。全部バカみたいだったけど、その気持ちは本物だった。だから王女は『一年待って』って言ったの。本物の気持ちなら、待てるはずだから」


 本物の気持ちなら、待てるはずだから。

 その言葉を、オレは胸の奥に刻んだ。

 鮎川がシェイクスピアの話をしているだけだ。四〇〇年前の戯曲の話をしているだけだ。

 でも――同時に、オレに何かを伝えている気がした。

 気のせいかもしれない。死んだ魚の希望的観測かもしれない。

 でも、鮎川の声には嘘がない。この子が本気で信じていることだけが、あの声のトーンを作る。

 恋の努力は、失われない。

 だったら、点字を覚える時間も、無駄じゃない。

 鮎川のことを知ろうとする毎日も、無駄じゃない。

 全部が、「本物」に近づくための時間だ。

 恋の骨折り損。

 でも――骨を折ることに意味がある。

 折った骨の数だけ、オレの恋は本物に近づく。

 だから今日も点字を練習する。

 今日もは行を覚える。明日はま行。来週にはや行とら行。

 一点一点。六つの点。

 その点の全部に、鮎川への気持ちを込めて。

 まだ伝えない。まだ言わない。

 でも――いつか、必ず。

 死んだ魚の指先から、六つの点を通じて。

 オレの「好き」を、鮎川の指先に届ける。

 その日まで――骨を折り続ける。


 帰り道。

 六月の風が吹いた。乾いた、暑い風。梅雨はまだ来ない。

 空が広い。五月の空とは違う。五月は空が高くて爽やかだったけど、六月の空は高くて重い。太陽が力を増していて、空気が密度を持ち始めている。夏が近づいている。

 鮎川と並んで歩く。白杖の音が、乾いたアスファルトに響く。かつ、かつ、かつ。

 この音を聞くと、安心する。鮎川がここにいるという証拠だから。


 鮎川が「今日はどんな景色?」と聞いた。

 いつもの質問。いつもの日課。

 この質問を聞くだけで、オレの死んだ目が起動する。鮎川のために景色を見る。鮎川に伝えるために世界を観察する。それがオレの日課で、オレの役割で、オレにしかできないことだ。

 オレは周囲を見回した。


「アジサイが先週より色が濃くなった。紫が深い。花びらが全部開いて、堂々としてる。雨が降らなくても、自分のタイミングで咲いてる感じ。あと、電線に鳥が二羽。スズメかな。並んでとまってて、同じ方を見てる」

「二羽並んでるの? 何を見てるんだろう」

「さあ。……夕日、かもしれない」

「スズメも夕日を見るのかな」

「見るかもな。きれいなもんは、生き物関係なく見たいだろ」

「素敵。……ねえ、鈴木くん」

「ん」

「スズメは二羽で夕日を見てるんだよね。……それって、ちょっと羨ましいね」

「……羨ましい?」

「うん。だって、きれいなものを一緒に見られる相手がいるって、すごいことだと思わない?」


 鮎川の声が、少しだけ柔らかくなった。

 きれいなものを一緒に見られる相手。

 オレは今、鮎川の隣を歩いている。景色を伝えている。鮎川には見えないけど、オレの言葉を通じて、同じ景色を共有している。

 一緒に見ている――と、言えるのだろうか。

 言えると、思いたい。


「……オレたちも、同じ景色を見てるよ」

「え?」

「オレが話して、鮎川さんが聞いてる。見方は違うけど、同じ景色だ。……たぶん」


 言ってから、恥ずかしくなった。何を言ってるんだ、オレは。

 鮎川が少し黙った。二、三歩分の沈黙。

 それから――。


「……うん。そうだね。わたしたち、同じ景色を見てるんだよね」


 その声が、少しだけ震えていた。

 泣いているのかと思って横を見た。泣いてない。でも、閉じた目のまつげが少しだけ濡れている気がした。

 汗かもしれない。六月の夕方は暑い。

 でも、もしかしたら――。

 考えすぎるな。妄想するな。死んだ魚の希望的観測を膨らませるな。

 でも。

 汗じゃなくて涙だったらいいな、と。

 嬉しくて泣いてくれたならいいな、と。

 そんなことを、少しだけ思った。

 別れ道で、鮎川が「じゃあね」と手を振った。いつもの笑顔。いつもの声。

 でも――ほんの少しだけ、いつもより長くこちらを向いていた気がした。

 閉じた目が、オレの方をまっすぐ見ていた。

 見えないはずのその目が。


 鮎川の背中が角を曲がって消えた。

 オレは一人、夕暮れの道に立っていた。

 ポケットの中で、指が無意識に動いている。左上、右上、左上、右中、左上。

 う、い、あ。

 逆だ。あ、い、う。

 点字の指の動き。昨日覚えた五十音が、指先に残っている。

 この指で、いつか。

 六つの点で、たった二文字を。

 す、き。

 鮎川の指先に届くように。

 恋の骨折り損。

 まだまだ骨が折れそうだけど。

 不思議と、痛くなかった。

 梅雨が来る前の、乾いた六月の夜。

 窓の外に、月が出ていた。半月。半分だけ光っている。

 半分の月。半分の気持ち。

 オレの恋はまだ半分だ。好きだと認めただけで、伝えてはいない。半月みたいに、半分だけ光っている。

 でも、半月は必ず満月になる。

 オレの恋も――いつか。

 枕元の点字入門書を手に取った。今日の分を復習する。は行。ま行。

 六つの点。一点一点に、鮎川への気持ちを込めて。

 骨折り損でも、いい。

 この骨が折れる音が、いつか鮎川に届くといい。

 恋の骨折り損――まだまだ続く。

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