第45話 半月は必ず満月になる
凛が立ち上がった。文庫本を閉じて、鞄にしまう。
「……そろそろ戻る」
「凛ちゃん、もう?」
「次、英語の小テスト」
「あ、わたしも勉強しなきゃ。鈴木くん、行こう」
「ああ」
屋上から階段を降りる。いつもの段差を数える。
「あと五段」「踊り場」「あと八段」。
鮎川がオレの声を頼りに降りていく。一段一段、慎重に、でも迷いなく。
オレの声が、鮎川の足元を照らす光になる。
この日常を――もう少しだけ、続けよう。
恋の骨折り損。
骨を折っても報われない恋。
でも――折れた骨は、前より強くくっつく。
点字を覚える。鮎川の世界を知る。鮎川が好きなものを知る。鮎川が怖いものを知る。
全部を知ってから、初めて「好きだ」と言おう。
時間がかかっても、いい。
ナヴァールの王が待ったように、オレも待つ。
この気持ちが本物だと、自分自身で確かめるまで。
帰り道で、鮎川が最後にこう言った。
「ねえ鈴木くん。『恋の骨折り損』の原題、知ってる?」
「Love's Labour's Lost、だろ。ネットで調べた」
「知ってるんだ。英語だと、Labour'sは『努力の』って意味もあるの。恋の努力が失われる。でもね、わたしは思うの。失われてなんかいないって」
「……」
「だって、恋のために頑張ったことは、ちゃんと残るでしょ? 結果がすぐに出なくても、努力は消えない。王様たちが詩を書いて、歌を歌って、踊りを踊って。全部バカみたいだったけど、その気持ちは本物だった。だから王女は『一年待って』って言ったの。本物の気持ちなら、待てるはずだから」
本物の気持ちなら、待てるはずだから。
その言葉を、オレは胸の奥に刻んだ。
鮎川がシェイクスピアの話をしているだけだ。四〇〇年前の戯曲の話をしているだけだ。
でも――同時に、オレに何かを伝えている気がした。
気のせいかもしれない。死んだ魚の希望的観測かもしれない。
でも、鮎川の声には嘘がない。この子が本気で信じていることだけが、あの声のトーンを作る。
恋の努力は、失われない。
だったら、点字を覚える時間も、無駄じゃない。
鮎川のことを知ろうとする毎日も、無駄じゃない。
全部が、「本物」に近づくための時間だ。
恋の骨折り損。
でも――骨を折ることに意味がある。
折った骨の数だけ、オレの恋は本物に近づく。
だから今日も点字を練習する。
今日もは行を覚える。明日はま行。来週にはや行とら行。
一点一点。六つの点。
その点の全部に、鮎川への気持ちを込めて。
まだ伝えない。まだ言わない。
でも――いつか、必ず。
死んだ魚の指先から、六つの点を通じて。
オレの「好き」を、鮎川の指先に届ける。
その日まで――骨を折り続ける。
帰り道。
六月の風が吹いた。乾いた、暑い風。梅雨はまだ来ない。
空が広い。五月の空とは違う。五月は空が高くて爽やかだったけど、六月の空は高くて重い。太陽が力を増していて、空気が密度を持ち始めている。夏が近づいている。
鮎川と並んで歩く。白杖の音が、乾いたアスファルトに響く。かつ、かつ、かつ。
この音を聞くと、安心する。鮎川がここにいるという証拠だから。
鮎川が「今日はどんな景色?」と聞いた。
いつもの質問。いつもの日課。
この質問を聞くだけで、オレの死んだ目が起動する。鮎川のために景色を見る。鮎川に伝えるために世界を観察する。それがオレの日課で、オレの役割で、オレにしかできないことだ。
オレは周囲を見回した。
「アジサイが先週より色が濃くなった。紫が深い。花びらが全部開いて、堂々としてる。雨が降らなくても、自分のタイミングで咲いてる感じ。あと、電線に鳥が二羽。スズメかな。並んでとまってて、同じ方を見てる」
「二羽並んでるの? 何を見てるんだろう」
「さあ。……夕日、かもしれない」
「スズメも夕日を見るのかな」
「見るかもな。きれいなもんは、生き物関係なく見たいだろ」
「素敵。……ねえ、鈴木くん」
「ん」
「スズメは二羽で夕日を見てるんだよね。……それって、ちょっと羨ましいね」
「……羨ましい?」
「うん。だって、きれいなものを一緒に見られる相手がいるって、すごいことだと思わない?」
鮎川の声が、少しだけ柔らかくなった。
きれいなものを一緒に見られる相手。
オレは今、鮎川の隣を歩いている。景色を伝えている。鮎川には見えないけど、オレの言葉を通じて、同じ景色を共有している。
一緒に見ている――と、言えるのだろうか。
言えると、思いたい。
「……オレたちも、同じ景色を見てるよ」
「え?」
「オレが話して、鮎川さんが聞いてる。見方は違うけど、同じ景色だ。……たぶん」
言ってから、恥ずかしくなった。何を言ってるんだ、オレは。
鮎川が少し黙った。二、三歩分の沈黙。
それから――。
「……うん。そうだね。わたしたち、同じ景色を見てるんだよね」
その声が、少しだけ震えていた。
泣いているのかと思って横を見た。泣いてない。でも、閉じた目のまつげが少しだけ濡れている気がした。
汗かもしれない。六月の夕方は暑い。
でも、もしかしたら――。
考えすぎるな。妄想するな。死んだ魚の希望的観測を膨らませるな。
でも。
汗じゃなくて涙だったらいいな、と。
嬉しくて泣いてくれたならいいな、と。
そんなことを、少しだけ思った。
別れ道で、鮎川が「じゃあね」と手を振った。いつもの笑顔。いつもの声。
でも――ほんの少しだけ、いつもより長くこちらを向いていた気がした。
閉じた目が、オレの方をまっすぐ見ていた。
見えないはずのその目が。
鮎川の背中が角を曲がって消えた。
オレは一人、夕暮れの道に立っていた。
ポケットの中で、指が無意識に動いている。左上、右上、左上、右中、左上。
う、い、あ。
逆だ。あ、い、う。
点字の指の動き。昨日覚えた五十音が、指先に残っている。
この指で、いつか。
六つの点で、たった二文字を。
す、き。
鮎川の指先に届くように。
恋の骨折り損。
まだまだ骨が折れそうだけど。
不思議と、痛くなかった。
梅雨が来る前の、乾いた六月の夜。
窓の外に、月が出ていた。半月。半分だけ光っている。
半分の月。半分の気持ち。
オレの恋はまだ半分だ。好きだと認めただけで、伝えてはいない。半月みたいに、半分だけ光っている。
でも、半月は必ず満月になる。
オレの恋も――いつか。
枕元の点字入門書を手に取った。今日の分を復習する。は行。ま行。
六つの点。一点一点に、鮎川への気持ちを込めて。
骨折り損でも、いい。
この骨が折れる音が、いつか鮎川に届くといい。
恋の骨折り損――まだまだ続く。




