第44話 ハッピーエンドで終わらない
翌週の月曜日。六月第二週。体育祭まであと五日。
昼休み、鮎川と一緒にいつもの屋上で弁当を食べた。凛も一緒。翔太は安藤に捕まって教室に残っている。
屋上の風が気持ちいい。六月にしては乾いた風で、梅雨はまだ来そうにない。
鮎川が弁当を食べながら、唐突に話し始めた。
「ねえ、鈴木くん。『恋の骨折り損』って知ってる?」
恋の骨折り損。
シェイクスピアの戯曲だ。タイトルだけは知っている。鮎川のシェイクスピア講座で名前が出たことがある。
でも、内容は知らない。
「タイトルだけ」
「じゃあ、教えてあげる。面白いんだよ、この話」
鮎川のシェイクスピア語りが始まった。目を閉じたまま、身振り手振りを交えて、楽しそうに話す。
「ナヴァールの王様と三人の貴族がね、三年間女性を断って勉強に専念しようって誓いを立てるの」
「三年も?」
「そう。勉強と学問に集中するために、女性との交際を一切禁止する。恋は学問の邪魔だからって」
「極端だな」
「でしょ? でも、そこにフランスの王女と三人の侍女がやって来る。外交のために。そしたらどうなると思う?」
「……全員恋に落ちた」
「正解! 王様も貴族も、一瞬で恋に落ちちゃうの。三年間恋をしないって誓ったのに、会った瞬間にもう無理。面白いでしょ?」
鮎川が笑う。「面白いでしょ?」の声が弾んでいる。シェイクスピアの話をしているときの鮎川は、太陽みたいに輝く。閉じた目の奥に、光源があるんじゃないかと思うくらい。
恋をしないと決めたのに、恋をしてしまう話。
……他人事じゃない。
オレも似たようなものだ。感情が薄くて、何にも興味がなくて、「死んだ魚」として生きてきた。恋なんてするわけがないと思っていた。誰かを好きになる回路が、オレにはないんだと。
なのに――鮎川に会って、恋に落ちた。じわじわと、少しずつ、でも確実に。気づいたときには、もう手遅れだった。
ナヴァールの王と同じだ。どれだけ壁を作っても、恋はその壁を越えてくる。
鮎川が話を続けた。
「それでね、王様たちは恋を隠そうとするの。誓いを破ったことがバレたくないから。一人ずつこっそり恋文を書いて、こっそり好きな人に歌を歌って。でも結局、全員バレちゃう。お互いに」
「……全員バレるのか」
「そう。四人が四人とも、恋を隠してたのに、全員同じことをしてた。隠してたことがバカバカしくなって、最後は開き直るの。『恋は仕方ない!』って」
恋は仕方ない。
そう言い切れたら、どれだけ楽か。
オレはまだ隠している。翔太にだけ打ち明けたけど、鮎川には隠している。バレているかもしれないけど、自分からは言わない。
ナヴァールの王は最後に開き直った。オレはいつ開き直れるのか。
「でもね」
鮎川の声のトーンが少し変わった。楽しそうな声から、少し真剣な声に。
「この話、シェイクスピアの喜劇の中で唯一、ハッピーエンドで終わらないの」
「……ハッピーエンドじゃない?」
「そう。王様たちが恋を告白して、歌や詩を贈って、一生懸命アプローチする。でも王女たちは受け入れない。最後に王女が言うの。『一年待ちなさい。その間にあなたたちが本気かどうか確かめるから』って」
一年待ちなさい。
その言葉が、まっすぐオレの胸を貫いた。
「恋が成就する前に、幕が下りるんだよ。喜劇なのに、恋は実らないまま終わる。不思議でしょ?」
凛が文庫本から目を上げた。
「……シェイクスピアの喜劇は通常、結婚で終わる。でも『恋の骨折り損』だけが、その法則を破っている」
「凛ちゃんも詳しいね!」
「……読んだことがあるだけ」
凛が目を伏せて、再び文庫本に視線を落とした。でも読んでいる様子はない。耳はこちらの会話に向いている。
鮎川が続けた。
「なんでハッピーエンドにしなかったんだと思う?」
鮎川の質問が、オレに向けられている。閉じた目が、オレのほうをまっすぐ向いている。
なぜハッピーエンドにしなかったのか。
恋をしないと誓ったのに恋に落ちて、全力でアプローチして、でも「一年待て」と言われる話。
恋の骨折り損。
骨を折るほど頑張ったのに、報われない。
でも――「報われない」で終わりじゃない。「一年待て」だ。待てば、報われるかもしれない。
「……たぶん、本当の恋には時間がかかるってことじゃないか」
「うん」
「会った瞬間に恋に落ちても、それが本物かどうかはわからない。時間をかけて確かめないと。だから王女は『待て』と言った。……すぐに手に入る恋は、本物じゃないから」
自分で言って、自分で刺さった。
すぐに手に入る恋は本物じゃない。
鮎川が微笑んだ。静かな、深い微笑み。いつもの「えへへ」じゃない。もっと大人びた、何かを悟ったような微笑み。
「わたしもそう思う。恋って、すぐに答えが出るものじゃないんだよね。時間をかけて、相手のことを知って、自分の気持ちを確かめて。それでやっと、本物かどうかがわかる」
鮎川の言葉が、オレの状況と完全に重なっている。
オレは鮎川を好きだ。それは認めた。でも、この気持ちが「本物」なのかどうか、まだわからない。
鮎川のことを全部知っているわけじゃない。何が好きで、何が嫌いで、何を怖がって、何に笑うのか。少しずつ知ってきたけど、まだ足りない。
告白は――まだ早い。
今告白しても、それはナヴァールの王と同じだ。会ってすぐ恋に落ちて、すぐに告白する。衝動と情熱だけの恋。
王女が「一年待て」と言ったのは、正しかったのかもしれない。
「鮎川さん」
「ん?」
「その話の王様は、結局待ったのか?」
「シェイクスピアは書いてないの。幕が下りた後のことは誰にもわからない。でもたぶん、待ったと思う。だって、本気だったから」
本気だったから、待った。
本気だからこそ、急がない。
……なるほど。
点字の入門書が鞄の中にある。昨日の夜、な行まで覚えた。は行からは今日の夜にやる。
点字を覚えるのに、どれくらいかかるかわからない。一週間じゃ無理だ。一か月でも足りないかもしれない。
でも、いい。
オレはナヴァールの王と同じだ。恋の骨折り損。骨を折っても、まだ報われない。
でも、骨を折った分だけ、この気持ちは確かになっていく。
点字の一点一点を覚えるたびに、鮎川の世界に一歩近づく。
急がなくていい。
王女は言った。「待ちなさい」と。
なら、待とう。
「鈴木くん、なんか変」
鮎川が突然言った。
「変?」
「うん。さっきから声のトーンがいつもと違う。……なんていうか、柔らかい。いつもの鈴木くんはもっとフラットなのに、今日は波がある」
「波って……」
「声に感情が乗ってるの。いつもは平坦なのに、今日は上がったり下がったりしてる。何かあった?」
声で全部バレる。
この子の耳は、嘘発見器なんかよりよっぽど精度が高い。
何かあったか。あった。この子に恋をしているということが、日に日に確信に変わっているということがあった。
とは言えない。
「……別に。体育祭が近いから、テンションが上がってるのかも」
「鈴木くんがテンション上がることってあるんだ!」
「ない……いや、たまには」
「珍しいね。体育祭楽しみなの?」
「楽しみとは違う。……まあ、嫌じゃない」
「嫌じゃないんだ。よかった」
鮎川がにこっと笑った。
オレは弁当の卵焼きを口に入れた。今日の卵焼きはいつもより甘い。母さんが砂糖を多めに入れたのかもしれない。
いや、違う。たぶん砂糖の量は同じだ。
甘く感じるのは――オレの問題だ。




