第43話 死んだ魚の器は、金魚鉢より小さい
その夜。自室の机の上に点字器を広げた。
今日は「は行」。「は」左上、左下、右下の三点。「ひ」は左上、左中、左下、右下の四点。点が増えてきた。
一文字ずつ、丁寧に打つ。ぽち。ぽち。ぽち。針が紙を突く小さな音が、静かな部屋に響く。
母さんが「何の音?」とドア越しに聞いてきた。「勉強」とだけ答えた。嘘じゃない。点字の勉強だ。ただし試験には出ない。
「は」「ひ」「ふ」「へ」「ほ」。五回ずつ打つ。裏返して確認する。指で触る。
合っているのかどうか、やっぱりわからない。
スマホで点字のアプリを探した。点字を入力すると正しいかどうか判定してくれるアプリがある。インストールして、今日打った文字を照合した。
「は」――正解。「ひ」――左上の点がずれている。不正解。「ふ」――正解。「へ」――左下の点が弱い。微妙。「ほ」――正解。
五分の三。合格率六〇パーセント。低い。
鮎川の指先は、こんな曖昧な点字を許さないだろう。一点でもずれていたら、違う文字に読めてしまう。「ひ」と「へ」の違いは点一つ。点一つの差で意味が変わる世界。
厳密さが求められる。適当は許されない。
……恋も、そうなのかもしれない。
曖昧な気持ちのまま伝えても、違う意味に伝わる。ちゃんと形にしないと。一点のずれもなく。
不正解だった「ひ」をもう一〇回打ち直した。コツがつかめてきた。点は、少し力を入れすぎると位置がずれる。軽く、でも確実に。
一一時。目が疲れてきた。
点字器を片付けて、ベッドに倒れ込む。
指先がじんじんしている。点筆を握り続けたせいで、右手の親指と人差し指の間が赤くなっていた。
指先が痛い。
でも不思議と、嫌じゃなかった。この痛みの先に鮎川がいる。そう思うと、痛みが誇らしく感じられた。
翌日、金曜日の昼休み。
教室の隅で、鮎川と凛が弁当を食べながら話していた。
オレは翔太と別の場所で食べていたが、教室が狭いから声が断片的に聞こえる。聞くつもりはなかったけど、耳が勝手に鮎川の声を拾う。最近、オレの耳は鮎川の声に対してだけ感度が上がっている。
「ねえ凛ちゃん、最近鈴木くんの様子がおかしいの」
「……おかしい?」
「うん。声が変わった。前はもっとフラットだったのに、最近は波がある。感情の起伏が増えたっていうか……声が高くなるタイミングが増えた」
「……それは」
「特にわたしと話してるとき。心拍数も上がってる気がする。息がいつもより浅いの。風邪かな?」
風邪。
鮎川は、オレの声の変化を「風邪」だと思っている。
凛の声が聞こえた。小さくて聞き取りにくいけど、苦笑の気配が混じっている。
「……それ、風邪じゃないと思う」
「えっ、じゃあ何?」
「……自分で考えて」
「えー、凛ちゃんわかるなら教えてよ」
「……これだけは、本人の口から聞くべき」
「本人? 鈴木くんに聞けばいいの?」
「……好きにしなさい」
凛がため息をついた。あの深いため息。何もかも見透かしているのに口に出さない、凛らしいため息。
翔太がオレの顔をのぞき込んだ。
「お前、耳赤くなってるぞ」
「なってない」
「なってる。顔も赤い」
「暑いからだ」
「六月で教室にエアコン入ってるのに?」
翔太の指摘が的確すぎる。
オレは弁当の蓋を閉じて、残りの昼休みを死んだふりで過ごした。
金曜日。
体育祭の予行練習。全校生徒がグラウンドに集合して、入場行進やら開会式やらの段取りを確認する。
鮎川は凛と一緒に、応援席の位置を確認していた。白杖でグラウンドの端を測り、ベンチの位置を体で覚えている。
「ここが応援席で、ここからグラウンドの中央まで何歩」と凛が説明し、鮎川が頷く。
鮎川は応援合戦の指揮を任されていた。絶対音感を活かして、クラスの声を一つにまとめる役割。藤原先生が「鮎川さんなら完璧にできる」と太鼓判を押していた。
予行練習で、応援合戦のリハーサルがあった。
鮎川が応援席の前に立つ。白杖をたたんで鞄にしまい、両手を広げる。指揮者のポーズ。
目は閉じている。でも、クラス全員の方を向いている。音で、気配で、位置を把握している。
「せーの!」
鮎川の声を合図に、クラスが声を揃える。校歌のフレーズ。声がバラバラだったのが、鮎川の指揮で徐々に揃っていく。
「もう少し高く」「テンポ落として」「男子、もうちょっと声出して」。
的確な指示が飛ぶ。鮎川の耳が、三〇人の声のそれぞれを聞き分けている。
「鈴木くん、声小さい!」
名指しされた。
三〇人の中からオレの声だけを聞き分けて、ピンポイントで指摘してきた。耳がよすぎる。恐ろしい。
隣の翔太がニヤニヤしている。「名前呼ばれてるぞ」と肘でつつかれた。うるさい。
声を少し大きくした。鮎川が満足そうに頷いた。
「うん、いい感じ。鈴木くん、声が低くていいから、もっと自信持って出して。低い声はベース音になるの。土台がしっかりしてると全体が安定するから」
「……オレの声がベース音」
「そう。支えてくれる音。大事だよ」
支えてくれる音。
鮎川にとって、オレの声は「支えてくれる音」らしい。
大事だよ。
その一言が、胸の奥に染みた。
死んだ魚の低い声が、誰かを支える音になれるなんて、思ったこともなかった。
翔太が「鮎川さん、完全にお前のこと特別扱いじゃん」と囁いてきた。
特別扱いじゃない。鮎川は全員の声を聞き分けているだけだ。
でも――名指しされたのは、オレだけだった。
汗を拭きながらベンチに戻ると、蓮がグラウンドの反対側で騎馬戦の練習メンバーをまとめていた。リレー組と騎馬戦組で練習時間が分かれているのだ。蓮は騎馬戦のリーダーを任されていて、メガホンを持ってフォーメーションの指示を出している。
完璧だ。いつも通り。声も大きいし、姿勢もいいし、リーダーシップがある。リレーのオレと、騎馬戦の蓮。同じクラスなのに、立ち位置が違いすぎる。
ちらっと鮎川を見た。鮎川は蓮の方を見ていない。そもそも見えない。でも、蓮の声は聞こえているはずだ。蓮の声は大きくて通る。
鮎川が何も反応していないことに、少しだけ安心する。
安心している自分に、すぐ嫌気が差す。
器が小さい。小さい小さい。
死んだ魚の器は、金魚鉢より小さい。
蓮がこちらに気づいて、軽く頭を下げた。紳士的な会釈。オレも死んだ目のまま、小さく頷いた。
敵じゃない。蓮は敵じゃない。ただ、同じ人を好きになった――それだけだ。
蓮はコンサートの後、鮎川に「友達として」と言われても、笑顔だった。折れなかった。
あの強さを、少しだけ尊敬する。




