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死んだ魚のような目をしているオレは、盲目なあの子に恋をする。  作者: しましまましま
第3章 恋の骨折り損(Love's Labour's Lost)

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第42話 見える世界と見えない世界

 その日の放課後。

 オレは図書室にいた。

 目的は一つ。点字の本を探すこと。

 図書室のカウンターで司書の先生に「点字の入門書はありますか」と聞いたら、怪訝な顔をされた。死んだ目の男子高校生が点字に興味を持つのは、たしかに不思議だろう。

 案内されたのは、棚の隅の方。『点字を学んでみよう』『点字習得テキスト』『点字のレッスン』。何冊かあった。

 最初に目に入った『点字を学んでみよう』を手に取った。

 ページを開く。

 点字の仕組み。六つの点が縦三段、横二列に配置されている。この六つの点の組み合わせで、すべてのひらがな、カタカナ、数字、アルファベットを表現する。

 ……思ったより複雑だ。

 五十音のそれぞれに対応する点の配置がある。「あ」は左上の一点だけ。「い」は左上と左中の二点。「う」は左上と右上の二点。規則性はあるが、覚えるべき量が多い。

 さらに、点字には「分かち書き」というルールがある。単語と単語の間にスペースを入れるのだが、どこで区切るかの判断が難しい。漢字は使わないから、すべてひらがな表記になる。同音異義語の判別が――。

 頭がくらくらしてきた。

 一文字打つだけでも大変なのに、「好きです」を点字で伝えるには何百もの点を正確に打たなきゃいけない。

 点字器という道具がある。金属またはプラスチックの板に下敷きを挟んで、専用の針で点を打つ。しかも点字は「裏から打つ」。読むときは表からだけど、書くときは裏返しで、左右が反転する。つまり頭の中で鏡像変換しながら打たなきゃいけない。

 ……無理じゃないか、これ。

 いや。無理じゃない。

 鮎川はこの点字を、物心ついた頃から使っている。指先で読み、指先で書き、この六つの点で世界とつながっている。

 オレが鮎川の世界に踏み込むなら、この六つの点を覚えなきゃいけない。

 本を借りた。図書カードに名前を書くとき、手が少し震えた。

 点字の入門書を借りる高校二年生の男子。司書の先生が「視覚障害に興味があるの?」と聞いてきた。

 違う。視覚障害に興味があるんじゃない。視覚障害を持つ一人の女の子に、恋をしているだけだ。

 もちろんそんなことは言えないので、「授業の調べ物です」とだけ答えた。


「ふーん。もし必要なら、点字器の貸し出しもできるわよ。学校に備品があるから」


 マジか。

 学校に点字器がある。たぶん鮎川の転校に合わせて用意されたものだろう。インクルーシブ教育の推進で、視覚障害に関する備品が揃えられたに違いない。

 借りた。点字器と点筆。それと点字用紙を五枚。

 机の上に道具を広げた。点字器の金属のひんやりした感触。点筆は鉛筆より短くて、先端に突起がある。

 本を見ながら、まず「あ」を打ってみた。

 左上に点がでる位置に点筆を当てて、ぐっと押す。

 ぽち。

 紙に、小さな凸点が一つ。

 裏返してみる。……うん、たぶんこれが「あ」だ。

 次に「い」。左上と左中。

 ぽち。ぽち。

 ……合ってるのか? 正直、自信がない。

 「う」「え」「お」と続ける。か行に進む。か行は母音の点に、右下の点を加える。「か」は「あ」+右下で二点。「き」は「い」+右下で三点。

 規則がわかると少し楽になる。でも、さ行、た行、な行と進むにつれて、点の配置がどんどん複雑になる。

 一時間かけて、五十音の半分くらいを練習した。

 紙がぼこぼこになった。何度も打ち間違えて、何度もやり直した。

 鮎川はこの点字を指先で読み取る。六つの点のわずかな凸凹から、文字を、単語を、文章を、物語を読み取る。

 途方もない能力だ。

 オレの目は一・五以上見える。でも、指先で「読む」ことはできない。鮎川はオレが見えるものが見えない。オレは鮎川が読めるものが読めない。

 見える世界と見えない世界。それぞれに、できることとできないことがある。

 オレは鮎川に景色を伝えてきた。言葉で。声で。

 今度は、鮎川の言語で何かを伝えたい。

 それが「好き」の二文字になるかどうかは――まだわからないけど。

 ふと思いついて、「す」「き」を打ってみた。

 「す」は左上、右上、右中、右下の四点。「き」は左上、左中、右下の三点。

 合わせて七つの点。七つの点で「すき」が書ける。

 ……書けているのか?

 紙を裏返して指先で触った。凸点が七つある。

 これが「すき」と読めるのかどうか、オレにはわからない。鮎川なら一瞬で読めるだろう。でもオレの指先には、ただのぼこぼこにしか感じられない。

 鮎川はこのぼこぼこから、物語を読む。シェイクスピアの戯曲を読む。世界を知る。

 六つの点の宇宙。その広さが、少しだけ見えた気がした。

 同時に、自分がまだその宇宙の入り口にも立てていないことも。

 「す」「き」の七つの点を、何度も打ち直した。一〇回、二〇回。紙がぼこぼこになるまで。

 打つたびに、鮎川の顔が浮かぶ。

 この点を、いつか鮎川の指先が触れる。そのとき、ちゃんと「すき」と読めるように。

 一点のずれもなく。一点の曖昧さもなく。

 完璧な「すき」を打てるようになるまで、練習する。何回でも。何百回でも。


 図書室を出るとき、もう一八時を過ぎていた。六月の日はまだ長くて、窓の外はようやくオレンジ色に染まり始めている。

 廊下で、ばったり凛と出くわした。

 凛は文庫本を片手に、図書室に向かうところだった。


「……あんた、こんな時間まで図書室にいたの」

「まあ」

「何してたの」

「……調べ物」


 凛の目が、オレの手元の点字入門書に落ちた。

 一秒。二秒。三秒。

 凛がオレの顔を見た。死んだ目と、凛の冷たい目が交差する。


「……ふーん」


 またその「ふーん」だ。意味深な、何もかも見透かしたような「ふーん」。

 凛はそれ以上何も言わず、図書室に入っていった。

 ……バレた。たぶんバレた。凛は鮎川の親友だ。点字の本を借りているオレを見て、何を考えたかなんて聞くまでもない。

 まあいい。バレたところで、凛が鮎川に言いふらすような性格じゃない。凛は口が堅い。文庫本みたいに閉じている。

 でも、あの「ふーん」にはたぶん、「頑張れ」くらいの意味が含まれていた。

 凛なりの応援。

 

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