第42話 見える世界と見えない世界
その日の放課後。
オレは図書室にいた。
目的は一つ。点字の本を探すこと。
図書室のカウンターで司書の先生に「点字の入門書はありますか」と聞いたら、怪訝な顔をされた。死んだ目の男子高校生が点字に興味を持つのは、たしかに不思議だろう。
案内されたのは、棚の隅の方。『点字を学んでみよう』『点字習得テキスト』『点字のレッスン』。何冊かあった。
最初に目に入った『点字を学んでみよう』を手に取った。
ページを開く。
点字の仕組み。六つの点が縦三段、横二列に配置されている。この六つの点の組み合わせで、すべてのひらがな、カタカナ、数字、アルファベットを表現する。
……思ったより複雑だ。
五十音のそれぞれに対応する点の配置がある。「あ」は左上の一点だけ。「い」は左上と左中の二点。「う」は左上と右上の二点。規則性はあるが、覚えるべき量が多い。
さらに、点字には「分かち書き」というルールがある。単語と単語の間にスペースを入れるのだが、どこで区切るかの判断が難しい。漢字は使わないから、すべてひらがな表記になる。同音異義語の判別が――。
頭がくらくらしてきた。
一文字打つだけでも大変なのに、「好きです」を点字で伝えるには何百もの点を正確に打たなきゃいけない。
点字器という道具がある。金属またはプラスチックの板に下敷きを挟んで、専用の針で点を打つ。しかも点字は「裏から打つ」。読むときは表からだけど、書くときは裏返しで、左右が反転する。つまり頭の中で鏡像変換しながら打たなきゃいけない。
……無理じゃないか、これ。
いや。無理じゃない。
鮎川はこの点字を、物心ついた頃から使っている。指先で読み、指先で書き、この六つの点で世界とつながっている。
オレが鮎川の世界に踏み込むなら、この六つの点を覚えなきゃいけない。
本を借りた。図書カードに名前を書くとき、手が少し震えた。
点字の入門書を借りる高校二年生の男子。司書の先生が「視覚障害に興味があるの?」と聞いてきた。
違う。視覚障害に興味があるんじゃない。視覚障害を持つ一人の女の子に、恋をしているだけだ。
もちろんそんなことは言えないので、「授業の調べ物です」とだけ答えた。
「ふーん。もし必要なら、点字器の貸し出しもできるわよ。学校に備品があるから」
マジか。
学校に点字器がある。たぶん鮎川の転校に合わせて用意されたものだろう。インクルーシブ教育の推進で、視覚障害に関する備品が揃えられたに違いない。
借りた。点字器と点筆。それと点字用紙を五枚。
机の上に道具を広げた。点字器の金属のひんやりした感触。点筆は鉛筆より短くて、先端に突起がある。
本を見ながら、まず「あ」を打ってみた。
左上に点がでる位置に点筆を当てて、ぐっと押す。
ぽち。
紙に、小さな凸点が一つ。
裏返してみる。……うん、たぶんこれが「あ」だ。
次に「い」。左上と左中。
ぽち。ぽち。
……合ってるのか? 正直、自信がない。
「う」「え」「お」と続ける。か行に進む。か行は母音の点に、右下の点を加える。「か」は「あ」+右下で二点。「き」は「い」+右下で三点。
規則がわかると少し楽になる。でも、さ行、た行、な行と進むにつれて、点の配置がどんどん複雑になる。
一時間かけて、五十音の半分くらいを練習した。
紙がぼこぼこになった。何度も打ち間違えて、何度もやり直した。
鮎川はこの点字を指先で読み取る。六つの点のわずかな凸凹から、文字を、単語を、文章を、物語を読み取る。
途方もない能力だ。
オレの目は一・五以上見える。でも、指先で「読む」ことはできない。鮎川はオレが見えるものが見えない。オレは鮎川が読めるものが読めない。
見える世界と見えない世界。それぞれに、できることとできないことがある。
オレは鮎川に景色を伝えてきた。言葉で。声で。
今度は、鮎川の言語で何かを伝えたい。
それが「好き」の二文字になるかどうかは――まだわからないけど。
ふと思いついて、「す」「き」を打ってみた。
「す」は左上、右上、右中、右下の四点。「き」は左上、左中、右下の三点。
合わせて七つの点。七つの点で「すき」が書ける。
……書けているのか?
紙を裏返して指先で触った。凸点が七つある。
これが「すき」と読めるのかどうか、オレにはわからない。鮎川なら一瞬で読めるだろう。でもオレの指先には、ただのぼこぼこにしか感じられない。
鮎川はこのぼこぼこから、物語を読む。シェイクスピアの戯曲を読む。世界を知る。
六つの点の宇宙。その広さが、少しだけ見えた気がした。
同時に、自分がまだその宇宙の入り口にも立てていないことも。
「す」「き」の七つの点を、何度も打ち直した。一〇回、二〇回。紙がぼこぼこになるまで。
打つたびに、鮎川の顔が浮かぶ。
この点を、いつか鮎川の指先が触れる。そのとき、ちゃんと「すき」と読めるように。
一点のずれもなく。一点の曖昧さもなく。
完璧な「すき」を打てるようになるまで、練習する。何回でも。何百回でも。
図書室を出るとき、もう一八時を過ぎていた。六月の日はまだ長くて、窓の外はようやくオレンジ色に染まり始めている。
廊下で、ばったり凛と出くわした。
凛は文庫本を片手に、図書室に向かうところだった。
「……あんた、こんな時間まで図書室にいたの」
「まあ」
「何してたの」
「……調べ物」
凛の目が、オレの手元の点字入門書に落ちた。
一秒。二秒。三秒。
凛がオレの顔を見た。死んだ目と、凛の冷たい目が交差する。
「……ふーん」
またその「ふーん」だ。意味深な、何もかも見透かしたような「ふーん」。
凛はそれ以上何も言わず、図書室に入っていった。
……バレた。たぶんバレた。凛は鮎川の親友だ。点字の本を借りているオレを見て、何を考えたかなんて聞くまでもない。
まあいい。バレたところで、凛が鮎川に言いふらすような性格じゃない。凛は口が堅い。文庫本みたいに閉じている。
でも、あの「ふーん」にはたぶん、「頑張れ」くらいの意味が含まれていた。
凛なりの応援。




