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死んだ魚のような目をしているオレは、盲目なあの子に恋をする。  作者: しましまましま
第2章 空騒ぎ(Much Ado About Nothing)

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第38話 空騒ぎの果てに

 鮎川の言葉が、まっすぐオレを貫いている。

 これはシェイクスピアの話だ。四〇〇年前の戯曲の話だ。鮎川はベネディックとベアトリスの話をしている。

 でも――同時に、オレたちの話をしている。

 オレと鮎川。毎日一緒にいて、「友達だ」と言い張る二人。否定し続けて、でも離れられない二人。

 鮎川は気づいているのか。自分の言葉がオレの心にどれだけ刺さっているか。

 ……たぶん、気づいている。この子は鈍感じゃない。声で嘘を見抜く子だ。オレの心臓の音すら聞き取る子だ。

 気づいていて、この話をしている。

 それは――何を意味するのか。

 考えるのが怖い。でも、考えずにはいられない。

 そのとき――鮎川の言葉が、オレ自身の状況と完全に重なっていることに、はっきりと気づいた。

 否定すればするほど。

 好きじゃないと言えば言うほど。

 友達だと繰り返すほど。

 本心は――あらわになる。

 まだ、名前は呼ばない。

 まだ、言葉にはしない。

 でも――もう知っている。

 否定してきた全部の裏側に、一つの感情が横たわっていることを。

 「空騒ぎ」。大騒ぎしたけど結局なんでもなかった――という意味のタイトル。

 でも、シェイクスピアの「空騒ぎ」は違った。

 なんでもなかったふりをして、実はすべてだった。

 オレと鮎川の関係も――「空騒ぎ」なのか?

 それとも――。


 答えは出ない。まだ出せない。

 でも翔太が言った通り、「肯定も否定もしない」ことが一番の答えなのかもしれない。

 否定するのをやめた。

 かといって肯定もしない。

 ただ、鮎川の隣にいる。それだけを続ける。

 景色を言葉にして、音楽を風景に変えて、鮎川に届ける。

 それがオレにできる唯一のことで、誰にも負けないことだから。


 屋上の風が吹いた。五月の最後の風。

 もうすぐ梅雨が来る。雨の季節。

 雨が降ったら、鮎川は傘と白杖を同時に持たなきゃいけない。大変だろうな。

 ――じゃあ、オレが傘を差してやればいい。

 そう思った瞬間、自分の中で何かがかちりと嵌まった気がした。

 鮎川のためにできること。蓮みたいに点字は打てない。マップも作れない。タブレットの設定も教えられない。

 でも――傘を差すことはできる。

 雨の日に隣を歩いて、傘を差してやることはできる。

 それは「サポート」なんかじゃない。

 ただの――隣にいたい、という気持ちだ。


 鮎川が「そろそろ戻ろうか」と言った。

 オレは「ああ」と答えて、立ち上がった。

 屋上から教室に戻る階段で、いつものように段差を数える。「あと五段」「踊り場」「また下り。あと八段」。


 鮎川がオレの声を頼りに、一段一段降りていく。

 この日常が――なんでもないこの日常が――実はすべてなのかもしれない。

 空騒ぎの果てに残ったもの。

 それは「何もない」じゃなかった。

 「すべてがある」だった。

 まだ名前はつけない。

 でも――もうすぐだ。

 もうすぐ、その名前を呼ぶ日が来る。

 死んだ魚が、初めて海を目指して泳ぎ出す日が。


 帰り道。

 いつもの道。いつもの二人。

 鮎川が「今日はどんな景色?」と聞いた。いつもの質問。いつもの日課。

 オレは周囲を見回した。

 五月の終わり。空は高くて、雲がゆっくり流れている。街路樹の葉がさわさわ揺れて、木漏れ日が歩道に模様を作っている。生け垣のアジサイが、ついに色づき始めていた。薄い紫色。鮎川が「寂しい色」と呼んだ色。

 でも今日のアジサイは、寂しく見えなかった。

 蕾がふくらんで、小さな花びらが開きかけている。雨を待っている姿。これから咲くんだという、静かな力強さがある。

 寂しい色だけど――それは始まりの色だ。

 梅雨が来て、雨が降って、アジサイは鮮やかに咲く。寂しさの先に、美しさがある。


「……アジサイが咲き始めてる。薄い紫。鮎川さんが寂しいって言った色だ。でも今日は、寂しくは見えない。これから咲くぞ、っていう顔をしてる」

「花に顔があるの?」

「ある。蕾が開きかけてるんだ。口を開けて笑ってるみたいに」

「アジサイが笑ってるんだ。かわいいね」

「ああ。……きれいだよ、今日のアジサイ」


 鮎川が微笑んだ。

 閉じた目。長いまつげ。頬に落ちる影。

 きれいだ。

 アジサイよりも、夕焼けよりも、虹よりも。

 オレの死んだ目に映る世界で、一番きれいなもの。

 いつか――いつか、この子に伝えたい。

 景色じゃなくて、気持ちを。

 色じゃなくて、言葉を。

 「好き」という、たった二文字を。

 でもそれは――まだ、もう少し先のこと。

 今日はただ、隣を歩く。景色を伝える。笑顔を見る。

 それだけでいい。

 それだけで――死んだ魚の目に、世界が色づく。


「空騒ぎ」。


 大騒ぎしたけど、結局なんでもなかった――なんてことは、ない。

 この二か月は「空騒ぎ」なんかじゃなかった。

 噂も、嫉妬も、ショッピングモールも、コンサートも、全部意味があった。全部が、オレをここまで連れてきた。

 「自分の気持ちに気づく」というゴールまで。

 利口じゃなくていい。死んだ目でいい。不器用でいい。

 恋をせずにはいられない。

 それが、オレの出した答えだ。

第2章「空騒ぎ(Much Ado About Nothing)」 了

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