第37話 嘘の中に、本当があった
そして――もう一つ、大事なことがある。
鮎川は蓮を「友達」と答えた。コンサートの帰りに、はっきりと。
蓮は鮎川のために何でもした。マップを作り、点字を打ち、ノートを起こし、コンサートに誘った。完璧な行動。完璧な善意。
でも、鮎川の答えは「友達」だった。
蓮の行動が足りなかったわけじゃない。蓮は十分すぎるほどやった。
ただ――鮎川の中で、蓮は「してくれる人」だったのかもしれない。してくれる。助けてくれる。支えてくれる。
オレは――「一緒にいる人」だ。してあげるんじゃなくて、並んで歩く。助けるんじゃなくて、隣にいる。
「してくれる」と「一緒にいる」の違い。
それがどれだけ大きな差なのか、オレは今やっとわかった。
蓮は鮎川の「目」になろうとした。でもオレは、鮎川の隣を歩いただけだ。
そして鮎川が選んだのは――「目」じゃなくて、「隣」だった。
……まだ「選んだ」と言うのは早い。鮎川はオレのことを友達だと思っている。それは変わらない。
でも――蓮を「友達」と答えた鮎川が、オレのことはなんと呼ぶのか。
それを聞くのは、もう少し先のことだ。
廊下で蓮とすれ違った。蓮はオレを見て、穏やかに笑った。
「おはよう、鈴木くん」
「……おはよう」
「昨日のコンサート、鮎川さん楽しんでたよ。ずっと笑顔だった」
「そうか」
「うん。……ただ、演奏の合間にときどき、鈴木くんの名前を出してたよ。『鈴木くんだったらどう言うかな』って」
蓮の顔に、一瞬だけ複雑な表情が浮かんだ。苦笑いとも、諦めともつかない、微妙な笑み。
すぐに消えて、いつもの穏やかな笑顔に戻った。
「鈴木くん、鮎川さんのこと、大事にしてあげてね」
「……」
「オレは諦めてないけどね。でも、今のところは鈴木くんのリードだ」
蓮はそう言って、教室に入っていった。
リード。
オレがリードしている? 何を? どこを?
蓮は――知っている。鮎川の中でオレが特別な位置にいることを。コンサート中の鮎川の態度で、それに気づいたのだ。
完璧な男は、状況判断も完璧だった。
でも、諦めないと言った。蓮は諦めない。
これは――終わりじゃなくて、始まりなのかもしれない。
教室に入ると、蓮は自分の席で何事もなかったかのように友人と談笑していた。鮎川に断られたはずなのに、表情に翳りがない。
強い男だ、と思った。
嫌いになれたら楽なのに。蓮はどこまでも好感が持てる人間で、だからこそ厄介だった。
鮎川のことを本気で想っている男がもう一人いる。その事実を、オレはこれから先ずっと意識し続けなければならない。
でも――今は、それでいい。
蓮が諦めないのなら、オレも諦めない。
何を諦めないのかは――まだ、はっきりとは言えないけど。
昼休み。屋上。二人きり。
五月の終わり。空は高くて青い。屋上の風は透明だ。
鮎川が弁当を食べながら、唐突に話し始めた。
「ねえ、鈴木くん。『空騒ぎ』のラストシーン、話してあげる」
「ラスト?」
「うん。ベネディックとベアトリスの最後のシーン」
鮎川がいつもの「シェイクスピア語りモード」に入った。
「物語のクライマックスで、いろんなすれ違いと騒動が片付いて、みんながハッピーエンドに向かうの。で、最後にベネディックとベアトリスが対面するんだけど――」
「ん」
「ベアトリスが言うの。『あなたのことなんか好きじゃないわ。ただ、理性的な範囲で好きなだけ』って」
「……意味がわからん」
「好きだけど好きじゃないって言ってるの。素直じゃないの、この二人。で、ベネディックも返すの。『オレもお前のことなんか好きじゃない。ただ、友達として、それ以上じゃない程度に、ちょっとだけ好きなだけだ』って」
「それ、好きじゃん」
「そう! 好きなの! お互い好きなの! でも最後まで認めないの! そのまま二人ともニヤニヤしながら……キスするの」
鮎川が楽しそうに笑った。
あの笑い声。シェイクスピアの話をしているときの、キラキラした声。
「可愛いよね、あの二人。最後の最後まで素直じゃなくて。でも周りのみんなは全部わかってて、二人だけが気づいてないの。いや、気づいてるのに認めないの。否定すればするほど、好きが溢れるの」
否定すればするほど、好きが溢れる。
その言葉が――今のオレに、あまりにもぴったり当てはまりすぎた。
「鈴木くん」
「ん」
「ベネディックとベアトリスって、面白い二人だよね。否定しあうのに、お互いのことを一番よくわかってる。ベネディックはベアトリスの強さと賢さを認めてるし、ベアトリスはベネディックの優しさと誠実さを見抜いてる。口では嫌いだって言うのに、本当は誰よりもお互いを理解してるの」
誰よりもお互いを理解している。
鮎川はオレの声のトーンで嘘を見抜く。オレは鮎川の表情の微細な変化を見逃さない。
オレたちは――ベネディックとベアトリスみたいだ、と思った。
口では否定している。友達だと言い張っている。
でも、お互いのことを誰よりも知っている。
「ねえ、鈴木くん。否定すればするほど本心が見えるって、面白い話だよね」
鮎川が笑った。
風が吹いて、髪が揺れた。閉じた目の奥に、何かが光った――ように見えた。
「わたしね、ベネディックとベアトリスが好きなのは、二人が最後まで嘘をつくところなの」
「嘘?」
「好きじゃないっていう嘘。最後までついてる。でもね、シェイクスピアはその嘘をすごく優しく描いてるの。嘘をつくのは、勇気がないからじゃない。本当のことを言ったら壊れてしまうかもしれない何かを、守りたいから。二人にとってそれは、長年の友情であり、お互いの距離感であり、自分自身のプライドだったの」
壊れてしまうかもしれない何かを、守りたいから。
――わかる。
痛いほど、わかる。
オレが「友達だ」と言い続けるのは、今の関係を壊したくないからだ。友達という安全な距離感を失いたくない。「好きだ」と言って、鮎川に拒絶されたら――もう隣にはいられない。
だから嘘をつく。友達だと。何でもないと。空騒ぎだと。
「でもね、シェイクスピアは最後に二人を結ばせたの。嘘をつき続けた二人を、周りの友達が背中を押して、結ばせた。嘘は嘘のまま、でも二人は一緒になった。だってね……」
鮎川が、少しだけ声のトーンを変えた。
低く。あたたかく。まるで――オレに向けて語りかけるように。
「嘘の中に、本当があったから。否定の中に、肯定があったから。『好きじゃない』の中に、『好き』があったから」
オレは――何も言えなかった。
言葉が出なかった。




