第36話 認めよう。もう否定しない
午後。
ベッドから起き上がれないまま、ぼんやりと考えていた。
木曜日の帰り道で、鮎川に冷たくしてしまった。「いい。興味ない」と突き放した。あの瞬間の鮎川の声の曇りが、ずっと耳に残っている。
あれは嫉妬だった。蓮に嫉妬して、鮎川に八つ当たりした。最低だ。
オレは鮎川の「友達」だ。友達なら、鮎川が楽しいことを素直に喜ぶべきだ。好きな音楽を聴きに行けることを、「よかったな」と言うべきだ。
なのにオレは――。
やっとベッドから起き上がって、机に向かった。
スマホを手に取り、鮎川にメッセージを打った。
『木曜日は素っ気なくしてすまなかった。コンサート、楽しんできて』
送信。
数分後、鮎川から音声メッセージが返ってきた。再生すると、鮎川の声が流れた。明るい声。いつもの鮎川の声。
『ありがとう、鈴木くん。気にしてないよ。コンサート楽しんでくるね。帰ったら感想聞かせるから。あ、鈴木くんだったらこの音楽をどんな景色に変換するかなって、聴きながら考えるね』
鈴木くんだったら、この音楽をどんな景色に変換するかな。
コンサートを聴きながら、オレのことを考える。
蓮の隣にいるのに――オレのことを。
その事実が、じわりと胸に染みた。あたたかさと、切なさと、ほんの少しの罪悪感が混ざった、複雑な温度。
……ずるい。
そういうことを言うから、オレは。
スマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
夕方。
鮎川からまた音声メッセージが来た。今度は少し長い。
『コンサート終わったよ。すっごくよかった。田園の第二楽章、小川のほとりの場面、鈴木くんに聴かせたかったなあ。弦楽器の音がね、本当に水が流れてるみたいだったの。鈴木くんなら、きっと川のゆるやかな流れって言うんだろうなって思った』
川のゆるやかな流れ。
ショッピングモールのフードコートで、カツカレーの味を景色に変換したときの表現。鮎川はそれを覚えていて、コンサートの音楽に重ねていた。
蓮の隣にいたのに。蓮と二人で音楽を聴いていたのに。
頭に浮かんだのはオレの言葉だった。
続けてもう一通。
『あとね、コンサートの帰りに御堂くんと少し話したの。御堂くん、わたしのことどう思ってるか聞かれたんだけど、わたし、友達としてって答えたの。御堂くんは笑ってた。優しい人だよ、御堂くんは』
友達として。
鮎川は蓮を――友達として見ている。
それ以上じゃない。
蓮に対する答えが「友達として」だった。
その事実を知った瞬間――体の力が抜けた。
ベッドの上にどさっと倒れ込んで、天井を見上げた。蛍光灯の光が、さっきまでと全然違う色に見えた。あたたかい光。ほっとする光。
安堵だ。
純度一〇〇パーセントの安堵。
鮎川が蓮を「友達」と言ったことに、こんなにもホッとしている自分がいる。
……もう、ごまかせない。
この感情は嫉妬で、安堵で、喜びで――全部、一つの感情から派生している。
翔太が名づけたあの言葉。四〇〇年前のラブコメ作家が描き続けたあの感情。
――好き、だ。
オレは鮎川愛のことが好きだ。
認めた。心の中で、はっきりと。
声には出さなかったけど。まだ誰にも言わないけど。
でも――認めた。
天井が、少しだけ明るく見えた。
翌日。月曜日。
教室に入ると、鮎川がいつもの席にいた。オレの顔を――オレの足音を聞いて、すぐにこちらを向いた。
「おはよう、鈴木くん!」
いつもの声。いつもの明るさ。木曜日の沈んだ声は、もうどこにもない。
メッセージが届いたからだろうか。オレの「コンサート楽しんできて」が、鮎川を安心させたのかもしれない。
そう思うと、メッセージを送って良かったと心から思った。
「おはよ。コンサート、どうだった?」
「すごくよかったよ! 『田園』の第二楽章、本当にきれいだった。弦楽器が小川の流れを表現してて、フルートが小鳥の声を再現してて。あとドビュッシーの『海』は、オーケストラ全体が波みたいにうねるの。すごかった」
鮎川が興奮気味に語る。音楽の話をしているときの鮎川は、シェイクスピアの話をしているときと同じくらい輝いている。
オレは黙って聞いていた。鮎川の声を。鮎川の言葉を。鮎川の笑顔を。
楽しかったんだな。よかった。
素直にそう思えた。木曜日のような嫉妬は――まだある。消えてはいない。でも、鮎川が楽しそうにしているのを見ると、それだけで少し楽になる。
鮎川の笑顔が好きだ。
認めよう。もう否定しない。
鮎川の笑顔が好きだ。鮎川の声が好きだ。鮎川の――。
「ねえ、鈴木くん。昨日のコンサートで聴いた曲、ちょっとだけ歌ってあげる」
鮎川が小声で旋律を口ずさみ始めた。「田園」の第二楽章。弦楽器のメロディーを、正確な音程で再現している。
驚いた。本当に驚いた。一度聴いただけの交響曲のメロディーを、ここまで正確に再現できるのか。
「すげえな。一回聴いただけで覚えられるのか」
「絶対音感があるから、聴いた音はだいたい再現できるの。便利でしょ?」
「便利ってレベルじゃない。才能だ」
「えへへ。でもね、わたしが再現できるのは音だけ。この曲がどんな景色を描いてるのかは、鈴木くんに聞きたい」
「オレに?」
「うん。弦楽器の音が小川の流れだとしたら、そのまわりにはどんな景色が広がってると思う?」
オレは目を閉じた。鮎川がさっき口ずさんだメロディーを思い出す。
穏やかな旋律。ゆったりとしたテンポ。上がって、下がって、また上がる。水が流れるような、風が吹くような。
「……小川のほとりだろ。浅い川で、底が見えるくらい透明な水。石の上を水が流れて、キラキラ光ってる。周りには緑の草が生えてて、木漏れ日が水面に模様を作ってる。風が吹くと草がそよいで、水面に波紋ができる。フルートの部分は……たぶん、木の枝にとまった小鳥。何の鳥かはわからないけど、高い声で鳴いてる。空は青くて、雲がゆっくり流れてる」
鮎川が目を輝かせた。閉じた目なのに、光っている。
「すごい……。すごいよ鈴木くん。今の、わたしが昨日コンサートで感じた景色と、ほとんど同じ。鈴木くんの目には、音楽が景色に見えるんだね」
「見えたわけじゃない。お前が歌ったメロディーから、想像しただけだ」
「それが才能なの。音を景色に変える力。わたしは音を正確に再現できるけど、それを景色に変えることはできない。鈴木くんにしかできないことだよ」
「……」
鮎川にしかできないこと。オレにしかできないこと。
蓮には点字がある。マップがある。タブレットの設定がある。
でもオレには――景色がある。世界を言葉にする力がある。鮎川の耳に届ける色と形がある。
それは蓮にはできないことだ。蓮がどれだけ完璧でも、世界を景色に変えて鮎川に届けることは――オレにしかできない。
ずっと探していた答えが、やっと見つかった気がした。




