第35話 恋の病
金曜日。
昨日の気まずさを引きずったまま、朝を迎えた。
教室に入ると、鮎川はいつも通り席にいた。オレが座ると、いつも通り「おはよう」と言ってくれた。声のトーンは普通。昨日の沈んだ感じは消えていて、いつもの明るい鮎川に戻っている。
でも――ほんの少しだけ、距離がある気がした。
物理的な距離じゃない。席は隣同士のまま。でも、声の向け方とか、体の角度とか、そういう微細なところで、鮎川がわずかに引いている。
オレの「いい。興味ない」が、傷つけたのだ。
鮎川はメンタルが鋼だ。ちょっとやそっとのことでは折れない。でも、鋼だって傷はつく。目には見えない傷が。
謝りたかった。でも、どう謝ればいいかわからなかった。「興味ないって言ってごめん」と言えば、「なんで興味ないって言ったの?」と聞かれる。そしてその答えは――。
「蓮と二人で行くのが嫌だったから」。
それを口にしたら、全部がバレる。
だから謝れない。謝れないから、ぎこちない空気が続く。
帰り道は一緒に歩いた。でも昨日みたいに沈黙が続くのは嫌だったから、オレから景色の話を切り出した。意識して、いつもより丁寧に。
「今日は空が低い。雲が厚くて灰色で、いつもより近くに感じる。風が湿ってて、雨の匂いがする。アジサイの蕾がもう少しで開きそうだ。あと、二、三日で咲くと思う」
鮎川が少し驚いた顔をした。オレから先に景色を話し始めるのは珍しいからだ。いつもは鮎川に聞かれてから話す。
「……ありがとう、鈴木くん。自分から教えてくれるの、珍しいね」
「……まあ。今日の空は、ちょっと面白かったから」
「面白い空? どんなふうに?」
「灰色なんだけど、雲と雲の隙間からときどき光が漏れて、地面にスポットライトみたいな光の柱ができてる。天使のはしご、っていうらしい」
「天使のはしご! きれいな名前。見えてるの?」
「ああ。遠くのビルの上に、三本くらい。光が斜めに地面に降りてる。雲が暗いから、光の部分だけがやたら明るくて、コントラストがすごい」
「すごいね。雨の前の空って、そういう景色があるんだ。わたしにとって雨の前は、匂いが変わるだけだから」
鮎川が笑った。いつもの笑顔。
空気が――少しだけ、柔らかくなった。
天使のはしごが、オレたちの間の壁に風穴を開けてくれたみたいだった。
昨日の「いい。興味ない」の傷は、まだ完全には癒えてないかもしれない。でも、景色を言葉にすることで――オレにできる唯一のことで――少しだけ修復できた気がした。
言葉は消えるけど、その温度は残る。蓮のマップは物として残るけど、オレの言葉は鮎川の記憶に残る。
形のある物と、形のない言葉。
どっちが大事かは、鮎川が決める。
「鈴木くん」
「ん」
「日曜日のコンサート、帰ってきたら感想話すね。鈴木くんなら、わたしの話を景色に変換してくれるでしょ?」
「……まあ」
「楽しみにしてて」
楽しみにしてて。
コンサートは蓮と行く。でも、感想を話すのはオレに。
それが何を意味するのか――考えすぎないことにした。
でも、嬉しかった。正直に、嬉しかった。
別れ道で、鮎川が「じゃあね」と手を振った。いつもより小さい声で。いつもより控えめな笑顔で。
オレは「ああ」とだけ答えた。
鮎川の背中が遠ざかっていく。
その背中を見ながら、オレはようやく自覚した。
怒りじゃない。
悲しみでもない。
これは――嫉妬だ。
純度一〇〇パーセントの嫉妬。
蓮が鮎川と出かけることへの、醜い、みっともない、どうしようもない嫉妬。
そしてその嫉妬を鮎川にぶつけてしまった自分への、深い後悔。
翔太が言った。「お前、それ好きって言うんだよ」。
……ああ、たぶん、そうだろう。
好きじゃなかったら、こんなに苦しくない。
日曜日。
コンサートの日。
オレは家でゴロゴロしていた。やることがない。いや、やることはあるけど、何も手につかない。
テスト勉強をしようと教科書を開いたが、一ページも進まない。ゲームを起動したが、五分で閉じた。テレビをつけたが、何も頭に入ってこない。漫画を読もうとしたが、同じコマを三回読んでも内容が入ってこない。
天井を見つめる。いつもの蛍光灯。いつもの白い光。
時計を見る。一一時。今頃、鮎川はコンサートホールに着いた頃だろう。蓮が待ち合わせ場所で待っていて、鮎川が白杖を突きながら歩いてきて、蓮が「こっちだよ」と案内して。
蓮の腕に、鮎川が掴まっているかもしれない。先週、オレの腕に掴まっていたのと同じように。あの小さくて温かい手が、蓮の腕に――。
想像するな。想像するとろくなことにならない。
一一時半。開演前のロビーで、蓮がプログラムの内容を説明しているかもしれない。「最初の曲はベートーヴェンの『田園』で、自然の風景を音楽にした作品だよ」とか。蓮はそういうことを丁寧にやる男だ。
一二時。演奏が始まった頃。鮎川は目を閉じて――いつも閉じてるけど――音楽に身を委ねているだろう。イヤホンの音声ガイドで場面の解説を聞きながら、オーケストラの響きに包まれている。
その横顔を、蓮が見ている。
オレじゃなくて、蓮が。
……想像するだけで、胸が痛い。
スマホが震えた。翔太からだ。
『お前、今日何してんの?』
『何もしてない』
『鮎川さん、今日御堂とデートだぞ』
『知ってる』
『なんで止めないんだよ』
『止める理由がない』
『あるだろ! お前が好きなんだから!』
『好きだとは言ってない』
『言ってないけど好きだろ。もう全世界にバレてるからな。お前の死んだ目以外のパーツが「鮎川さんが好きです」って叫んでるぞ』
『うるせえ』
スマホを伏せた。
止める理由なんてない。オレと鮎川は友達だ。友達が誰と出かけようと、オレには口を出す権利がない。
それに――鮎川はコンサートを楽しみにしていた。好きな音楽を、音声ガイド付きで聴ける貴重な機会。それを邪魔する権利は、オレにはない。
好きだから止めたかった。好きだから嫉妬している。好きだから、蓮と二人で出かけることが耐えられない。
でも、好きだからこそ止められない。鮎川の楽しみを奪いたくない。
恋って、こんなに面倒くさいのか。シェイクスピアが「恋は一種の狂気」と言ったのは、これのことか。
ベッドに転がって、また天井を見る。蛍光灯。白い光。何も映っていない。鮎川がいると世界が色づく。鮎川がいないと世界が色あせる。今日は――色あせた日曜日だ。
母さんが部屋の前を通りかかって、「あんた、今日はずっと部屋にいるの? たまには外出なさいよ」と声をかけてきた。「出る気分じゃない」と答えたら、「風邪?」と聞かれた。「風邪じゃない」。恋の病だ、とは言えなかった。




