第34話 景色を聞かれない帰り道
その週の木曜日。
放課後の教室で、蓮が鮎川に話しかけているのが見えた。
最近はもう見慣れた光景だ。蓮が鮎川に何かを渡す、鮎川が笑顔でお礼を言う、蓮が嬉しそうに笑う。
でも、今日は少し様子が違った。
蓮の表情がいつもより緊張していた。笑顔の下に、覚悟みたいなものが見えた。
オレは帰り支度をしながら、死んだ目で――でも隅々まではっきりと――その光景を見ていた。隣の席だから、蓮と鮎川の会話が全部聞こえる。
「鮎川さん、一つお願いがあるんだけど」
「うん、何?」
「今度の日曜日、音声ガイド付きのクラシックコンサートがあるんだ。チケットを二枚もらったんだけど……鮎川さん、一緒に行かない?」
コンサート。二枚のチケット。日曜日。
つまり――デートの誘い。
蓮の声は穏やかだったが、わずかに震えていた。普段の完璧な紳士の仮面が、ほんの少しだけ揺らいでいる。
蓮にとって、これは大きな一歩なのだろう。今までのマップやプリントは「サポート」という名目があったが、コンサートの誘いは違う。純粋に、二人で出かけたいという意思表示だ。
「音声ガイド付き?」
鮎川の声が弾んだ。
「プログラムは何?」
「ベートーヴェンの交響曲第六番『田園』と、ドビュッシーの『海』。自然をテーマにした二曲で」
「『田園』と『海』! 両方とも大好きな曲!」
鮎川の目が――閉じているのに――キラキラし始めた。好きな音楽の話をしているときの、あの輝き。
「行きたい! ありがとう、御堂くん!」
行きたい。ありがとう。笑顔。
鮎川は純粋に音楽が好きで、音声ガイド付きの公演に行ける機会を喜んでいる。蓮の誘いを「デート」として受け取っているのか、「友達とのお出かけ」として受け取っているのかは、わからない。
でもオレの胸は――ざわついた。
大きく。深く。今までで一番。
蓮と鮎川が、日曜日に二人で出かける。コンサート。音楽。蓮の隣で、鮎川が音楽を聴く。蓮が鮎川をエスコートする。蓮の腕に、鮎川が掴まる。
先週、オレの腕に掴まっていた鮎川が、今度は蓮の腕に――。
やめろ。やめろやめろやめろ。
なんでこんなにざわつくんだ。友達が友達とコンサートに行くだけだろう。オレに関係ない。関係ないはずだ。
……関係ないはずなのに、心臓がうるさい。
蓮が嬉しそうに笑った。完璧な笑顔。まっすぐな目。
「じゃあ日曜日、一一時にホールの前で。楽しみにしてるよ」
「うん! わたしも楽しみ!」
蓮が自分の席に戻っていく。その後ろ姿を、オレは死んだ目で見送った。
完璧だ。蓮は完璧だ。鮎川が好きな音楽を調べて、音声ガイド付きの公演を見つけて、チケットを入手して、タイミングを見計らって誘った。計画性、行動力、配慮。すべてが揃っている。
オレには――何もない。
コンサートのチケットなんて持っていないし、クラシック音楽の知識もない。鮎川を誘うという発想すらなかった。
蓮は「鮎川のために何でもする」と言った。そしてそれを実行している。
オレは――何をしている?
帰り道で景色を話しているだけだ。
……それだけしかできない自分が、情けなかった。
放課後。帰り道。二人きり。
鮎川がいつもの調子で話し始めた。
「ねえ、鈴木くん。今度の日曜日、御堂くんとコンサートに行くんだ」
「……そうか」
「音声ガイド付きのクラシックコンサートなの。プログラムはベートーヴェンの交響曲第六番『田園』と、ドビュッシーの『海』。両方とも自然を描いた曲で、わたし大好きなの」
「へえ」
声が平たい。自分でもわかるくらい、感情を消している。
嘘つくとき、鈴木くんの声はわざと感情を消す――鮎川が前に言ったことだ。今、まさにそれをやっている。バレている。絶対にバレている。
鮎川は――当然、それに気づいた。
「鈴木くん、声が低い。いつもより〇・五ヘルツくらい」
「気のせいだ」
「気のせいじゃないよ。鈴木くん、怒ってる?」
「怒ってない」
「怒ってないなら、なんでそんなに声が硬いの」
「硬くない」
「硬いよ。いつもの鈴木くんの声じゃない」
鮎川の声が、少し不安そうになった。
オレの様子がおかしいことに、完全に気づいている。声で、呼吸で、足音のテンポで。全部伝わっている。
黙れ、心臓。落ち着け、呼吸。いつもの死んだ目に戻れ。
でも無理だった。蓮と鮎川がコンサートに行く。その事実が、胸の奥で暴れている。
鮎川がこちらに顔を向けた。閉じた目が、オレの方向をまっすぐ向いている。
「鈴木くんも音楽好き? よかったら一緒に行く? 御堂くんに聞いてみるよ」
「いい。興味ない」
即答。冷たい声。
自分でも驚くくらい素っ気ない返事だった。
鮎川の表情がわずかに曇った。閉じた目の周りに、かすかな影が落ちる。
「……そっか」
小さな声。
いつもの明るいトーンが消えて、しぼんだ風船みたいな声。
その声を聞いた瞬間、後悔した。
しまった。八つ当たりだ。鮎川は何も悪くない。コンサートに誘われて、好きな音楽を聴きに行く。それだけのことだ。オレがざわつくのはオレの問題であって、鮎川にぶつけていい感情じゃない。
謝ろうとした。でも、言葉が出てこなかった。「ごめん」の一言が、喉の奥で詰まっている。
プライドじゃない。ただ、ごめんと言ったら、その理由を聞かれる。なんで素っ気なくしたのかを。そしてその理由は――。
「蓮と二人で出かけるのが嫌だったから」。
そんなこと、口が裂けても言えない。言ったら最後、全部がバレる。
二人の間に、微妙な沈黙が流れた。
白杖の音だけが、住宅街に響いている。かつ、かつ、かつ。
いつもより、そのリズムが重い。
オレのせいだ。
いつもなら「今日はどんな景色?」と聞いてくれる鮎川が、今日はそれを聞かなかった。
景色を聞かれない帰り道。
それがこんなにも寂しいとは、思わなかった。




