第33話 恋は一種の狂気
月曜日の朝。
教室に入った瞬間、翔太と安藤が同時にこちらを向いた。二人とも満面の笑み。ニヤニヤ、というレベルを超えて、もうニッカニカだ。
嫌な予感しかない。
「おはよう、ベネディック!」
「おはよう、鈴木くん! 昨日はどうだった?」
翔太と安藤の声がハモった。打ち合わせしたのか。たぶんした。こいつらは共犯だ。
オレは無言で席についた。反応しない。死んだ魚は餌に食いつかない。
でも、鮎川が教室に入ってきた瞬間、安藤が弾丸のように駆け寄った。
「鮎川さん! 昨日のデートどうだった?」
デート。
その単語が教室に響いた途端、周囲の空気が一気にざわついた。何人かの頭がこっちを向く。男子が目配せし合い、女子が小声で囁き合う。
鮎川が立ち止まった。そして――。
「デートじゃないよ」
「デートじゃない」
同時に、オレも口を開いてしまった。
声が重なった。
鮎川の「デートじゃないよ」と、オレの「デートじゃない」が、完璧なユニゾンで教室に響いた。
一瞬の沈黙。
そして――教室が爆発した。
「息ぴったりじゃん!」
「同時否定! 逆に怪しい!」
「付き合ってないカップルの典型!」
翔太が腹を抱えて笑っている。安藤がスマホを取り出して「今の動画撮りたかった!」と悔しがっている。凛だけが席で文庫本を読みながら、小さくため息をついた。
鮎川が苦笑している。オレは死んだ目のまま固まっている。
息ぴったりの同時否定。最悪のタイミングで最悪のシンクロ。否定すればするほど本心があらわになるというシェイクスピアの法則が、これ以上ないほど完璧に証明されてしまった。
一時間目が始まるまでの間、教室は「鈴木×鮎川」の話題で持ちきりだった。オレは机に突っ伏して死んだふりをした。物理的にも精神的にも死んでいた。
鮎川は隣の席で、いつも通り点字タブレットをいじっている。動じていないように見えるが、耳が少し赤い。
耳は嘘がつけない。鮎川も、無傷ではないのだ。
授業中も、ちらちら視線を感じた。クラスメイトの何人かが、オレと鮎川を交互に盗み見している。日曜日のショッピングモールの件は、翔太と安藤のネットワーク経由で瞬く間にクラス中に広まったらしい。
「二人っきりでショッピングモール」「腕に掴まって歩いてた」「お揃いでキャンドル買った」――お揃いじゃない。鮎川が一個買っただけだ。情報は伝言ゲームで盛られている。
二時間目の数学の授業中、鮎川が小声で聞いてきた。
「鈴木くん、今、黒板に何て書いてある?」
「……えっと、連立方程式の解き方。x=3,y=-2」
「ありがとう」
いつものやりとり。何も変わらない。
でも――鮎川の声がほんの少しだけ高かった。いつもより、ほんの少しだけ。
安藤に「鈴木くんが意識してるみたい」と吹き込まれてから、鮎川の声がわずかに変わっている。オレの耳では正確に測れないけど、「何かが違う」というのは感じ取れる。
鮎川のほうも、オレを意識し始めているのか。
いや――それは希望的観測だ。死んだ魚の妄想だ。
でも。
でも、もしそうだったら――。
考えるな。授業に集中しろ。連立方程式を解け。xとyを求めろ。
求めたいのはxでもyでもなく、鮎川の気持ちだったけど。
昼休み。
凛が鮎川を昼食に誘い、二人で教室の隅に移動した。オレはいつもの席で一人、弁当を食べる。
翔太が向かいに座った。
「なあ湊。正直に言え」
「何を」
「鮎川さんのこと、好きだろ」
何度目だ、この質問。
翔太の目はふざけていない。冗談の顔じゃない。真剣に、まっすぐに、オレの目を見ている。
死んだ目と、生きた目が交差する。
いつもなら「違う」と即答する。でも今日は――昨日のショッピングモールの記憶がまだ鮮明すぎて、嘘をつく気力がなかった。
鮎川の手の温度。腕に添えられた指。電車で赤くなった耳。「また行こうね」の笑顔。
全部が、胸の奥に沈殿している。
「好きとか嫌いとか、そういうのがよくわからない」
「わからない?」
「……ただ、あの子の隣にいると、オレの目が少しだけ死んでない気がする。それだけだ」
正直に言った。精一杯の正直。
好きかどうかはわからない。でも、鮎川の隣にいるとき、世界の色が少しだけ鮮やかになる。景色が意味を持つ。空気の匂いがわかる。食べ物の味が濃くなる。五感の全部が、少しだけ生き返る。
それが「好き」なのかどうか、オレには判断がつかない。恋をしたことがないから、比較対象がない。
翔太がため息をついた。大きな、深い、呆れたようなため息。
「お前、それ好きって言うんだよ」
「……そうなのか」
「そうだよ。誰かの隣にいるだけで世界が変わるなんて、それ以外にないだろ。お前、もう完全に恋の症状出てるんだよ。死んだ魚が一匹の魚のためだけに生き返るとか、もう末期だぞ」
「末期って……病気みたいに言うな」
「恋は病気みたいなもんだろ。シェイクスピアも言ってたじゃん、恋は一種の狂気だって」
「……お前までシェイクスピア引用するのか」
「鮎川さんに鍛えられた」
恋は一種の狂気。
それはたしか『お気に召すまま』の台詞だ。鮎川が前に教えてくれた。
シェイクスピアの知識が増えてきているのは、完全に鮎川のせいだ。クラス全体が鮎川の影響を受けている。
「なあ湊。オレはお前の味方だ。だから言うけど……好きなら好きで、ちゃんと向き合えよ。死んだ目のままでいいから。死んだ目のまま好きでいいんだよ。完璧じゃなくていい。御堂みたいに何でもできなくていい。お前はお前のやり方で鮎川さんのこと好きでいればいいんだ」
「……翔太」
「なんだ」
「……お前、意外といいこと言うな」
「意外って何だよ。オレはいつもいいこと言ってるだろ」
「いつもは馬鹿なこと言ってる」
「馬鹿なことと良いことは両立するんだよ。シェイクスピアの登場人物がそうだろ。馬鹿やりながら真理をつく。道化こそが一番賢いんだ」
「……それもシェイクスピアか?」
「たぶん。鮎川さんが言ってた気がする」
翔太が笑った。オレも、少しだけ笑った。
死んだ魚が笑う。レアイベントだ。翔太が「おい、今笑っただろ」と指さしたが、「笑ってない」と否定した。否定すればするほど、本心はあらわになる――翔太はもうそれを知っている。
一方、教室の隅では凛と鮎川が話していた。
オレの耳では全部は聞き取れなかったが、断片的に聞こえた。
「で、実際どうなの。鈴木くんのこと」
「友達だよ。大事な友達」
「大事な友達、ね」
「鈴木くんは……わたしに色を教えてくれる人だから」
色を教えてくれる人。
夕焼けのオレンジを手のひらの温度で。紫を風の冷たさで。虹の形を指先の軌跡で。
色を教えてくれる人。それがオレの、鮎川にとっての存在定義。
凛が何か言った。はっきりとは聞こえなかったが、「それってもう友達以上じゃない?」というニュアンスの言葉だった気がする。
鮎川が少しだけ黙った。
五秒くらいの沈黙。教室の喧噪の中に、鮎川の沈黙だけが浮き上がっている――ように、オレには感じられた。
鮎川が何か答えた。声が小さすぎて聞こえなかった。
凛が「ふーん」と呟いたのだけが聞こえた。意味深な「ふーん」だった。
何を言われたのか。何を答えたのか。
聞きたかったけど、聞けなかった。




