第32話 死んだ魚が初めて泳いだ日
駅で鮎川を改札まで送った。
鮎川の母親が車で迎えに来るらしい。改札の外で待ち合わせだという。
「じゃあ、ここで」
「うん。今日はありがとう、鈴木くん。腕、つかまらせてくれて助かった」
「……別に大したことじゃない」
「大したことだよ。わたし、白杖で知らない場所を歩くの、本当は結構怖いの。でも、鈴木くんの腕に掴まってたら全然怖くなかった。安心した」
安心。
オレの腕に掴まって、安心した。
その言葉が、胸の奥のいちばん柔らかい場所に、そっと落ちた。石でも棘でもない、羽毛みたいに軽く、でも確かな重みで。
「また行こうね。今度は、みんなも一緒に。……でも、二人でもいいかな」
「……ああ」
鮎川が笑って手を振った。改札の向こうに消えていく。白杖のリズム。かつ、かつ、かつ。
オレはしばらくその場に立っていた。
右の腕に、まだ鮎川の手の温度が残っている。ブラウス越しの、小さくてあたたかい手。
翔太にメッセージを打った。
『お前の作戦、バレバレだからな』
『お、どうだった? 楽しかった?』
『まあまあ』
『まあまあってことは最高だったんだな。お前の「まあまあ」は最上級の賛辞だからな。おめでとうベネディック!』
『うるせえ。あと安藤にも言っとけ、嘘の体調不良はバレてるぞ』
『あいつなら今頃ゲラゲラ笑いながらアイス食ってるよ。体調不良どこ行ったって感じだけどな笑』
空騒ぎ。
仕組まれた日曜日。ドタキャンされた五人の予定。残された二人のショッピングモール。
全部、翔太と安藤の筋書き通りだ。オレたちは舞台の上で踊らされたわけだ。シェイクスピアの喜劇の登場人物みたいに。
でも――踊らされたことを、怒る気にはなれなかった。
だって、楽しかったから。
鮎川と二人で過ごした日曜日は、一六年間の人生の中で、たぶん一番楽しい休日だった。
フードコートでカツカレーを景色に変換したこと。雑貨屋でジャスミンのキャンドルを見つけたこと。音楽ショップでモーツァルトのテンポを分析したこと。
そして――オレの腕に鮎川が掴まって歩いた感触。電車で肩がぶつかったときの、赤くなった耳。改札で「また行こうね」と笑った顔。
全部、鮮明に覚えている。死んだ目なのに、今日の記憶だけはハイビジョン画質で脳裏に刻まれている。
死んだ魚が初めて泳いだ日。
もう――空騒ぎだなんて、嘘をつけそうにない。
窓の外で、日曜日の夕暮れがゆっくりと沈んでいく。
明日は月曜日。学校。教室。隣の席。
鮎川に会える。
そう思っただけで、心臓がほんの少しだけ速くなる。
翔太、安藤、凛――あいつらの「空騒ぎ」は、確実にオレの心を揺さぶった。
シェイクスピアが四〇〇年前に書いた通りだ。
友達が仕組めば、意地っ張りな二人でも気づくことがある。
自分の中にある、名前をつけたくなかった感情の正体に。
空騒ぎの果てに残るのは――きっと、「何もない」じゃない。
「すべてがある」のほうだ。




