第31話 耳は、嘘がつけない
食後、音楽ショップに入った。
鮎川が店内に入った瞬間、足を止めた。
「あ。この曲」
「何の曲?」
「モーツァルトのピアノソナタ第一六番。K.545。ハ長調。……でも、ちょっとテンポが速いね」
「速い?」
「うん。普通は四分音符イコール一二〇くらいだけど、これは一三〇近い。演奏者が急いでるのか、アレンジなのか」
店内のBGMの曲名を一瞬で当て、テンポのズレまで指摘する。
店員が目を丸くしてこっちを見ていた。無理もない。
「鈴木くん、この曲知ってる?」
「知らない」
「モーツァルトの中で一番有名なピアノ曲の一つだよ。明るくて軽やかで、春の日差しみたいな曲。ピアノを習い始めた人が最初に弾く曲でもあるの」
「へえ」
「でもね、簡単そうに聴こえるけど、本当にきれいに弾くのはすごく難しいんだよ。シンプルな曲ほど、ごまかしがきかないから」
シンプルな曲ほど、ごまかしがきかない。
何かに似ている、と思った。
オレと鮎川の関係も、シンプルだ。友達。毎日一緒に帰る。景色を伝える。それだけ。
でもそのシンプルさの中に、ごまかしきれない何かが混ざり始めている。
音楽ショップを出て、モールの中を歩く。鮎川は再びオレの腕に手を添えた。
屋上庭園があるというので、エレベーターで最上階に上がった。
屋上に出ると、午後の風が吹き抜けた。鮎川が「あ」と声を上げる。
「外だ。風の匂いが変わった。さっきまでのモールの中の空気と全然違う。……雲、ある?」
「少しだけ。白い雲が三つ、四つ。青い空に浮かんでる。太陽は西に傾きかけてて、光が少しオレンジがかってきた」
「夕方に近づいてるんだね」
「ああ。あと、ここからは街が見渡せる。ビルが並んでて、その向こうに山が見える。手前には住宅街がびっしりで、屋根の色がバラバラだ。赤、灰色、茶色、青。洗濯物がはためいてるのも見える」
鮎川が嬉しそうに耳を傾けている。屋上庭園には他に人がほとんどいなくて、静かだった。
「鈴木くん」
「ん」
「鈴木くん、景色を話すのが上手になったよね。最初の頃は『普通の住宅街』で終わってたのに、今はすごく細かいところまで教えてくれる」
「……お前に聞かれ続けた結果だ。鍛えられたんだよ」
「わたしがコーチだ」
「コーチ料は払わないぞ」
「いいよ。景色を聞かせてもらってるから。それがコーチ料」
屋上庭園のベンチに並んで座った。風が気持ちいい。五月の午後の、まだ夏には早い、でも春は過ぎた、ちょうどいい温度の風。
鮎川が目を閉じて――いつも閉じてるけど――風を受けている。風に揺れる髪。ブラウスの襟元。星のヘアピンがきらりと光る。
この光景を、鮎川は見ることができない。
でも、風の温度と匂いと音で、この場所の「景色」を感じ取っている。
オレが見ている景色と、鮎川が感じている景色。
同じ場所にいるのに、受け取っている世界が違う。でも、二人の世界を合わせると――もしかしたら、一人では決して見えない、もっと大きな景色が完成するのかもしれない。
見えすぎる目と、見えない目。
二つを合わせたら、世界はどう見えるんだろう。
……そんな詩的なことを考えている自分に驚いた。死んだ魚が詩人になっている。鮎川効果の副作用だ。
「そろそろ帰るか」
「うん。お母さんに迎えの連絡しなきゃ」
鮎川がスマホの音声操作で母親にメッセージを送った。「今から帰るね。駅まで迎えに来て」。
帰りの電車の中――ショッピングモールは電車で二駅の場所にあった――鮎川はジャスミンのキャンドルを入れた紙袋を大事そうに膝の上に乗せていた。
電車は混んでいたから、二人で並んでつり革に掴まっている。鮎川は左手でつり革、右手で紙袋。白杖は折りたたんで鞄にしまっている。
電車が揺れるたびに、鮎川の体が少し傾く。オレのほうに。
肩が触れそうになって、オレが半歩ずれる。また揺れて、また肩が近づく。
……やめろ。ただの電車の揺れだ。物理現象だ。
「鈴木くん」
「ん」
「今日、楽しかったね」
「……ああ」
「みんなには悪いけど、二人のほうが静かでよかったかも」
「そうか」
「うん。五人だとみんなの声が重なって、ちょっと大変なの。二人だと、鈴木くんの声だけに集中できるから楽」
「オレの声に集中されても困るんだけど」
「困らないでよ。わたし、鈴木くんの声を聴くのが好きなんだから」
好き。
もう何度目だろう、この単語。
でも、今日の鮎川の「好き」は――全部、前とは少しだけ違うトーンで聞こえる。
気のせいかもしれない。翔太と安藤の仕掛けに影響されて、何もかもを特別に感じているだけかもしれない。
でも――もしかしたら、鮎川も同じなのかもしれない。安藤に「鈴木くんが意識してるみたい」と吹き込まれて、鮎川も何もかもを少しだけ特別に感じ始めているのかもしれない。
『空騒ぎ』のベアトリスのように。
電車がカーブに差しかかって、大きく揺れた。
鮎川の体がオレのほうに傾く。今度は半歩ずれる余裕がなかった。鮎川の肩が、オレの腕にぶつかった。
「あ、ごめん」
「いや……」
鮎川はすぐに体勢を戻した。でも、ぶつかった瞬間――ほんの一瞬――鮎川の頬が赤くなった。
気のせいか。電車の中は暑いから、のぼせたのかもしれない。
でも、鮎川の耳まで赤くなっていた。
耳は――嘘がつけない。翔太にそう言われたばかりだ。
「鮎川さん」
「な、なに?」
「顔、赤い」
「え? 暑いから……」
「……そうか」
そうか、としか言えなかった。
それ以上聞いたら、何かが決定的に変わってしまう気がしたから。




