第30話 あの子と食事をすることの不思議
ショッピングモールの中を歩く。
人が多い。日曜日のモールは家族連れやカップルでごった返していて、白杖での移動は大変そうだった。
鮎川は慎重に歩いていたが、人波の中では杖が人にぶつかりそうになることがある。前から歩いてきたおばさんが、鮎川の白杖に気づかずにぶつかりそうになった。オレが咄嗟に鮎川の肩を引いて避けさせた。
「ごめんね」と鮎川が小さく言う。ぶつかりそうになったのは相手のほうなのに、鮎川が謝る。白杖を持っているだけで、常に「すみません」と言い続ける生活。
それを見ていたら、申し訳なさそうに「すみません」と言う鮎川を見ていたら、自然に体が動いた。
自分の左腕を鮎川の前に差し出した。
「こっちのほうが歩きやすいだろ。腕、掴め」
言ってから、心臓が跳ねた。何を言っているんだ、オレは。
でも――鮎川は少し驚いた顔をしてから、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて」
鮎川の手がオレの左腕に添えられた。
肘の少し上あたりを、軽く握る。視覚障害者を案内するときの正しい方法だと、ネットで調べた。半歩前を歩いて、段差や障害物を声で伝える。
鮎川の手は小さくて温かかった。制服越しじゃなくて、ブラウスの薄い生地を通して、体温が伝わってくる。
心臓がうるさい。うるさすぎる。鮎川に聞こえていないことを祈る――無理だ。この子の耳は心臓の音も拾うかもしれない。
「鈴木くん、緊張してる?」
「してない」
「嘘。腕の筋肉が硬い」
「もともと硬いんだ」
「ふふ」
バレている。全部バレている。
でも、鮎川はオレの腕から手を離さなかった。むしろ、少しだけ指に力が入った気がした。
二人で並んで歩く。オレが半歩前。鮎川がオレの腕に掴まって、半歩後ろ。
端から見たら――完全にカップルだ。
周囲の視線を感じる。「あの二人、付き合ってるんだろうなあ」と思われているに違いない。否定する気力はもうない。
エスカレーターの手前で立ち止まった。
「エスカレーター。上り。手すり、右側」
「うん」
鮎川がオレの腕から手を離し、右手で手すりを掴む。白杖を左手にまとめて、ステップに乗る。オレは隣のステップに乗った。
二階に着いて、また鮎川の手がオレの腕に戻った。自然に。当たり前みたいに。
――当たり前になっている。
それがうれしいと思ってしまう自分に、もう抵抗するのをやめた。
雑貨屋の前を通るとき、鮎川がふと足を止めた。
「あ、いい匂い。アロマキャンドルだ。ラベンダーと……レモングラス? あと、もう一個、何かの花。ジャスミンかな」
「……よくわかるな。一瞬で三種類」
「匂いは三種類までなら同時に判別できるよ。四種類以上になると混ざっちゃうけど」
雑貨屋に入った。鮎川はアロマキャンドルのコーナーで、一つずつ匂いを嗅いでいる。
「これはカモミール。あったかくて甘い匂い。これはユーカリ。すっきりして冷たい匂い。これは――あ、ジャスミンだ」
「ジャスミン?」
「うん。覚えてる? 帰り道の生け垣に咲いてたジャスミン。あのときの匂いと同じ」
覚えている。帰り道で、鮎川のために一輪摘んだジャスミン。「夜空の星を逆にしたみたい」と描写したら、「素敵だね」と笑った鮎川。
鮎川がジャスミンのキャンドルを手に取って、大事そうに胸の前で抱えた。
「これ、買っていこうかな。あの帰り道を思い出せるから」
「……そうか」
あの帰り道を思い出せるから。
鮎川もあの日のことを覚えている。ジャスミンの匂い、星を逆にした花、ポケットにしまった一輪。
オレだけが覚えているんじゃなかった。鮎川も、同じように覚えていた。
それが――なんだか、すごくうれしかった。
フードコートに着いた。
天井が高い。吹き抜けの下にテーブルが並んでいて、周囲には和食、洋食、中華、エスニック料理の店が取り囲んでいる。
鮎川が足を止めて、周囲の音に耳を澄ませた。
「わあ……すごい音。人の声と、食器の音と、換気扇の音と、BGMが全部混ざってる。でも場所によって音の構成が変わるの。あっちのほうは中華の鍋を振る音がするし、こっちのほうはコーヒーマシンの蒸気の音がする」
「……フードコートを音で楽しむ人間、初めて見た」
「でしょ? わたしにとってフードコートは、音のテーマパークなの」
二人でテーブルについて、食事を注文する。オレはカツカレー、鮎川はオムライス。
鮎川が運ばれてきたオムライスをスプーンですくい、口に運ぶ。
食べる姿が――かわいかった。スプーンを口に入れる前に、少し匂いを嗅ぐ。一口食べて、咀嚼しながら眉が上がる。味を分析するように、表情がくるくる変わる。
「おいしい! 卵がふわふわで、中のチキンライスがちょっとピリ辛。ケチャップじゃなくてデミグラスソースだね。隠し味にバターが入ってる」
「……よくわかるな」
「舌が敏感なの。ねえ、鈴木くんのカツカレーはどんな味?」
「……辛い。でもうまい。ルーがさらっとしてて、カツはサクサク。普通にうまい」
「普通にうまい、か。鈴木くんの食レポって、景色の描写に比べると雑だよね」
「……うるせえ」
「ほら、景色を話すときは『ちぎれた綿みたいな雲』とか『夜空の星を逆にしたみたいなジャスミン』とか、すごく詩的なのに。食べ物になると『うまい。辛い。以上』になる」
「……食べ物と景色は違うだろ」
「同じだよ。五感で感じたものを言葉にするっていう意味では。じゃあ鈴木くん、カツカレーの味を景色みたいに描写してみて」
「え?」
「チャレンジ。ほら」
無茶ぶりだ。でも鮎川が楽しそうにしているから、断れない。
オレはカツカレーを一口食べて、考えた。味を景色に変換する。色を温度で伝えたように、味を景色で伝える。
「……辛さは、夏の日差しみたいだ。じりじりして、最初は痛いくらいだけど、だんだん慣れてくる。カツのサクサクは、枯れ葉を踏んだときの音に似てる。乾いてて、軽くて、気持ちいい。ルーのとろみは……川のゆるやかな流れ。速くはないけど、ちゃんと流れてる」
「……すごい。カツカレーが風景になった」
鮎川が目を輝かせて――閉じてるけど、輝いている。表情でわかる――小さく拍手した。
「鈴木くんの才能だよ、それ。感覚を言葉に変換する力。わたしにはできないことだもん」
「別に才能じゃない。お前に聞かれるから考えるだけだ」
「それが才能なの。聞かれたときに、ちゃんと答えられるのが」
鮎川と食事をすることの不思議。
普段のオレは食事に興味がない。食べ物は栄養補給であって、味を楽しむものじゃない――そう思っていた。
でも鮎川と一緒に食べると、味がはっきりする。カツカレーの辛さも、ルーのコクも、いつもの三倍くらい鮮明に感じる。
これは――デートだろうか。
デートじゃない。友達と遊びに来ただけだ。たまたま二人になっただけだ。
……たまたま、じゃない。仕組まれた。翔太と安藤に。
でも結果として――楽しかった。認めたくないけど、楽しかった。鮎川と二人で食事をして、買い物をして、歩き回る。それが楽しかった。




