第28話 傷つかないよ
蓮の「もったいない」。鮎川の「傷つかないよ」。
本当に傷ついていないのか。鮎川のメンタルは確かに鋼だけど、鋼だって限度を超えれば折れる。
帰り道の景色を描写しながら――「アジサイの蕾が紫に色づき始めてる」「電柱の上にカラスが二羽、にらみ合ってる」「公園の砂場に小さい子が三人、山を作ってる」――オレはずっと、鮎川の声のトーンを聞いていた。
いつもと変わらない、明るい声。
でも――ほんの少しだけ、いつもより饒舌な気がした。いつもよりたくさん喋って、いつもより笑って、いつもよりテンションが高い。
それは「元気」なんじゃなくて、「元気なふり」なんじゃないか。
オレの耳は鮎川ほど鋭くない。声のトーンを〇・三ヘルツ単位で聞き分けることなんてできない。
でも――この一か月半、毎日鮎川の声を聞いてきた。毎日。一日も欠かさず。
その蓄積が、今日の鮎川の声に微かな違和感を感じ取っている。
聞いていいものかどうか迷った。でも、迷っている間に口が勝手に動いた。
「鮎川……さん」
「ん?」
「……一つ聞いていいか」
「いいよ」
「鮎川さんは、自分の目が見えないこと、かわいそうだと思う?」
我ながら唐突な質問だった。
でも聞かずにはいられなかった。「もったいない」と言われた鮎川が、本当はどう感じているのか。知りたかった。
鮎川は少しだけ歩みを遅くした。白杖のリズムが、かつ……かつ……と間延びする。
「かわいそう、か。うーん……」
「あ、答えたくなかったら」
「ううん、考えてるだけ。……わたしね、自分のことかわいそうだって思ったことない。一度も」
「一度もか」
「うん。だって、目が見えないのがわたしの普通だから。生まれてからずっと、この世界がわたしの全部だから。見えないことは不便だけど、不幸じゃない。このへんは前にも言ったよね」
「ああ。生まれつき仲間の話」
鮎川がくすりと笑った。「覚えてるんだ」と嬉しそうに言う。
最初の日。弁当を食べながら、「生まれつき仲間だ」と鮎川が笑った日。あの日からもう一か月半以上が経った。
「でもね」
「ん?」
「ときどき思うの。目が見える人たちは、わたしのことをどう思ってるんだろうって。かわいそうだと思ってるのかな、もったいないと思ってるのかなって」
もったいない。
蓮と同じ言葉が、鮎川の口から出た。今日の昼休みのことが、やはり心に残っていたのだ。傷つかないと言いながら、意識はしている。当然だ。人間だから。
「知ってる人にそう言われると、ちょっとだけ複雑な気持ちにはなるの。悪気がないのはわかってる。優しさから出た言葉だって。でもね、『もったいない』って言われると、わたしの目が見えないことが、わたしという人間のマイナスポイントだって言われてるみたいに聞こえちゃう。わたしにとっては、見えないことを含めてわたしなのに」
鮎川の声が、少しだけ小さくなった。
いつもの明るいトーンが、半音下がった。
……やっぱり。傷ついていないわけがない。傷つかないと言ったのは――鮎川なりの強さであり、同時に、鎧だったのだ。
「鈴木くんは、わたしの目が見えないこと、かわいそうだと思う?」
鮎川がこちらに顔を向けた。
閉じた目。でも、まっすぐオレを見ている。声のトーンは穏やかだけど、質問の芯は真剣だった。
この問いに、適当な答えは返せない。
オレは考えた。五秒。一〇秒。鮎川は急かさない。いつもそうだ。オレが言葉を探しているとき、この子は黙って待ってくれる。
考えた結果――正直に答えることにした。
「別に。かわいそうだとは思わない」
「……」
「目が見えないのは鮎川さんの一部分であって、かわいそうとかそういうのは違う気がする。だって、オレの目が死んでるのと同じだろ。オレの死んだ目は、かわいそうか?」
「ううん。面白いよ」
「だろ。同じだ。鮎川さんの目が見えないのも、オレの目が死んでるのも、そいつの一部分であって、全部じゃない。かわいそうとか、もったいないとか、そういう言葉で片づけるのは違う」
もったいないという言葉を使ったのは、意識的だった。
蓮の発言を知らないふりで、でも鮎川が聞きたかった答えを返したつもりだった。
「……もったいないとも、思わないんだ」
「思わない。もったいないって言うのは、『本来あるべきものがない』って意味だろ。でも鮎川さんにとっては、見えないのが最初からの状態なんだから、『あるべきもの』なんて最初からない。もったいなくも何ともない」
凛と同じことを言っている、と自分でも思った。でも自然に出てきた言葉だった。考えて作った台詞じゃない。
鮎川が足を止めた。
完全に。白杖も体も、すべてが止まった。
そして――少し驚いた表情を見せた後、ゆっくりと微笑んだ。
あの笑顔だ。虹の日に見た、満面の笑顔。閉じた目の奥から光があふれるみたいな、あの笑顔。
「鈴木くんらしい答えだね」
「らしいって何だよ」
「鈴木くんらしいの。余計な飾りがなくて、まっすぐで、正直。わたし、その答え好きだよ」
好き。
また。
でも今回は――その「好き」が、前とは少し違うトーンで聞こえた。
声が少しだけ低かった。いつもの軽やかな「好き」じゃなくて、もっと深い場所から出てきたような「好き」。
気のせいかもしれない。オレの耳は鮎川の耳とは比べ物にならないほど鈍い。声の温度の違いなんて、わかるはずがない。
でも――わかった気がした。今の「好き」は、いつもの「好き」とは違う。
何が違うのかは、言葉にできない。でも、確かに違った。
鮎川はまた歩き始めた。白杖のリズムが戻る。かつ、かつ、かつ。
少しだけ、そのリズムが軽やかになった――ように感じたのは、きっと気のせいじゃない。
家に帰って、部屋でベッドに転がった。
天井。蛍光灯。いつもの景色。
でも頭の中は、今日一日のことでいっぱいだった。
蓮の「もったいない」。凛の怒り。鮎川の「傷つかないよ」。そして、帰り道でのオレの答え。
かわいそうだとは思わない。もったいないとも思わない。目が見えないのは鮎川の一部分であって、マイナスポイントじゃない。
――本当にそう思っている。嘘じゃない。
でも、蓮はどうなんだろう。蓮は「もったいない」と言った。つまり蓮にとっては、鮎川の目が見えないことは「あるべきものがない」状態なのだ。
蓮は善意で鮎川を助けている。マップを作り、点字を打ち、タブレットを設定する。それは全部、「鮎川の不足を補う」行為だ。足りないものを補ってあげる。それが蓮の愛情表現。
オレは違う。
オレは鮎川の不足を補おうとはしていない。景色を伝えるのは、鮎川に足りないものを与えるためじゃない。鮎川と世界を共有するためだ。
補うのと、共有するのは、違う。
蓮は鮎川の「目」になろうとしている。オレは鮎川と「隣に並ぼう」としている。
どっちが正しいのかは、わからない。でも――オレにできるのは後者だけだ。蓮みたいに器用じゃないし、行動力もないし、点字も打てない。
オレにできるのは、隣にいることだけだ。死んだ目で世界を見て、それを言葉にして、鮎川に届けること。
それだけしかできないけど――それだけは、誰にも負けたくない。
蓮にも。他の誰にも。
……この「負けたくない」という感情が何なのか、もうわかっている。
わかっているけど、まだ名前は呼ばない。
もう少しだけ、このままでいさせてほしい。




