第27話 もったいない
水曜日の昼休み。事件は唐突に起きた。
その前に、今週の蓮の動きを整理しておく。
月曜日に教科書の点字プリント。火曜日にタブレットの設定サポート。そして水曜日の朝、蓮は鮎川にまた何かを渡していた。今度は小さな袋だった。中身は――イヤホン。
ノイズキャンセリング機能付きの、それなりに高価そうなワイヤレスイヤホンだった。
「これ、鮎川さんに使ってほしくて。授業中の音声教材、今のイヤホンだと周りの音が混ざるでしょ? これならノイズキャンセリングで集中できると思う」
「え……こんなの受け取れないよ。高いでしょ?」
「バイト代で買ったから大丈夫。それに、鮎川さんが勉強しやすくなるなら安い投資だよ」
バイト代。高校生のバイト代を、鮎川のために使っている。
オレは隣の席で、死んだ目のまま聞いていた。
蓮のアプローチは、日を追うごとにエスカレートしている。マップ、プリント、タブレット設定、イヤホン。全部、鮎川の生活を具体的に改善するものだ。
鮎川は困った顔をしていた。嬉しさと申し訳なさが半々の表情。結局、凛に相談して「気持ちだけもらって、イヤホンは返しなさい」と言われて、丁重に返した。蓮は少し残念そうだったが、「そうだよね、ごめん。押しつけがましかった」と素直に引き下がった。
素直に引き下がるところまで完璧だ。
この男には隙がない。
……いや、一つだけあった。
昼休みに、その隙が露わになった。
鮎川と凛が教室の隅で昼食を食べているとき――オレはいつもの席で一人で弁当を開けていた。今日は翔太も一緒に教室にいて、オレの向かいに座っている。
教室の反対側では、蓮が友人の岡田と話をしていた。二人は窓際の席で、声を落として会話している。普通の生徒なら聞こえない距離だ。
でも、この教室には「普通」じゃない耳を持った人間がいる。
蓮が岡田に言った。
「鮎川さんって本当にきれいだよね。あの顔立ちで、性格もいいし、頭もいい。目が見えないのがもったいないよね」
悪意はなかった。蓮の声には本当に悪意がなかった。心の底から鮎川を褒めていて、その延長として「目が見えないのがもったいない」と口にした。
世間一般の感覚で言えば、それは「残念だね」くらいのニュアンスだ。美人で頭がいいのに目が見えないなんて、もったいない。多くの人がそう思うだろうし、蓮もそのつもりで言ったのだろう。
でも――。
鮎川の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
弁当の蓋を持ったまま、空中で静止した。〇・五秒くらい。すぐに動き出して、何事もなかったように食事を続けた。
オレはそれを見逃さなかった。教室の端と端。距離にして七、八メートル。でもオレの目は――死んでいるくせに――鮎川の動きだけは見逃さない。
鮎川は蓮の言葉を聞き取った。絶対音感を持ち、教室のどんな小声も拾えるあの耳で。「目が見えないのがもったいない」という言葉を、はっきりと。
凛も聞いていた――のではなく、鮎川の反応を見て何かを察したらしい。凛の表情がすっと冷たくなった。
「鮎川さん」
凛が低い声で言った。
「今の、聞こえた?」
鮎川は一秒だけ黙ってから、微笑んだ。
「うん。聞こえた」
「……御堂くんのこと、わたしから言ってこようか」
「ううん、いいよ。悪気はないと思うから。みんなそう思うのは自然なことだよ」
「自然なことじゃないでしょ」
凛の声が、低く鋭くなった。
「『もったいない』って何。あんたの目が見えないことは欠点じゃないでしょ。もったいないっていうのは、『本来あるべきものがない』って意味でしょ。あんたの目は『本来あるべきもの』なの? 生まれつき見えないんだから、それがあんたの『あるべき姿』でしょ」
凛にしては長い台詞だった。ふだん三語以上続けて喋ることが珍しい凛が、感情を込めて言葉を連ねている。
鮎川が凛に向かって手を伸ばし、凛の手をぎゅっと握った。
「ありがとう、凛ちゃん。わたしのために怒ってくれて。でも大丈夫。御堂くんに悪気がないのはわかってるから。それに――」
鮎川が少し言葉を探すように間を置いた。
「みんなそう思うのは自然なことなの。目が見える人たちにとっては、見えることが当たり前だから。その当たり前がない人を見ると、もったいないって思う。それは優しさの裏返しだよ。悪意じゃない」
「悪意じゃなくても、傷つくでしょ」
「傷つかないよ。わたし、目が見えないことで傷ついたこと、一度もないから」
「……強がり」
「強がりじゃないよ。本当に。だって、わたしは目が見えない代わりに、世界をいっぱい聴いて、嗅いで、触って、感じてるから。何も失ってないの。最初からないものは、失いようがないでしょ?」
凛が黙った。
反論できなかったのだ。鮎川の言葉は、いつも正面からまっすぐで、嘘がない。凛にはそれがわかるから、怒りの矛先を収めるしかなかった。
オレはその一部始終を見ていた――いや、聞いていた。鮎川と凛の声は小さかったが、教室が比較的静かだったこともあり、断片的に聞こえていた。
全部は聞き取れなかった。でも、「もったいない」という言葉と、凛の怒りと、鮎川の「傷つかないよ」は聞こえた。
翔太がオレの顔を覗き込んだ。
「なんかあったのか? 箸止まってるぞ」
「……何でもない」
「何でもないって顔じゃないけど。目が死んでるから表情は読めないけど、箸が止まるのはお前にとっては大事件だ」
放課後。
いつものように鮎川と帰る道。翔太は部活。二人きり。
鮎川はいつも通りだった。いつも通り明るくて、いつも通り景色を聞いてきて、いつも通り笑っている。
でもオレは、昼休みのことが引っかかっていた。




