第26話 見えすぎる目で、何も見ていない
噂が広まった翌日から、オレと鮎川の周辺はにわかに賑やかになった。
良く言えば「注目されている」。悪く言えば「見世物」。教室のどこにいても、誰かの視線を感じる。男子からは「やるな鈴木」「死んだ目のくせに」という冷やかしが飛んでくるし、女子からは「鮎川さんの気持ちはどうなの?」「鈴木くんって意外とアリかも」というひそひそ話が聞こえてくる。
オレの死んだ目は、こういうとき便利だ。何を言われても表情が変わらない。心の中では一〇種類くらいの感情が渦を巻いているのに、顔面は徹底的に死んでいる。鉄壁のポーカーフェイス――ではなく、デッドフィッシュフェイス。
鮎川はというと、相変わらずだった。噂なんてまるで気にしていない様子で、いつも通りオレに話しかけ、いつも通り景色を聞き、いつも通り笑っている。
あの子のメンタルは鋼でできているのかもしれない。
ただ一つ、気になることがあった。
昼休みのあの日――安藤に耳打ちされた後の、ほんの一瞬の変化。箸の動きが止まって、口元がきゅっと引き締まった、あの瞬間。
安藤は鮎川に何を吹き込んだのか。
「鈴木くんが鮎川さんのこと意識してるみたい」――翔太とのやりとりから推測すると、そんな内容だったはずだ。
それを聞いた鮎川は、どう思ったんだろう。
「そんなわけないよ」と一笑に付したのか。それとも――。
わからない。鮎川の心の中は、オレには見えない。見えすぎるこの目でも、人の心だけは見えない。
そんな微妙な空気の中、御堂蓮の動きが加速していた。
蓮は前からバリアフリーマップや点字メッセージで鮎川をサポートしていたけど、ここ数日でそのアプローチが明らかに積極的になった。
月曜日。蓮が鮎川の机に新しい資料を置いていた。今度は教科書の一部を点字に変換したプリントだ。
「鮎川さん、来週の英語のテスト範囲、点字に起こしてみた。よかったら使って」
鮎川が指先でプリントをなぞり、驚いた声を上げた。
「えっ、これ全部? 御堂くん、いつの間にこんなに……」
「昨日の夜、ちょっとがんばった。間違いがあるかもしれないから、確認してもらえると助かる」
「すごい……ありがとう、御堂くん。本当に助かる!」
鮎川の声が弾んでいる。嬉しそうだ。本当に嬉しそうだ。
オレは隣の席から、その光景を死んだ目で見ていた。
蓮は完璧だ。頭が良いから、テスト範囲の英文を正確に点字に変換できる。手先が器用だから、きれいに打てる。そして何より、行動力がある。「やろう」と思ったことを、すぐに形にできる。
オレにはそれができない。点字なんて読めもしないし、書けもしない。鮎川のために何か具体的なものを作ったことは一度もない。オレがやっているのは、帰り道で景色を話すこと。ただの言葉だ。形に残らない。消えていく。
蓮が作ったマップやプリントは、ずっと残る。鮎川の手元に置かれて、毎日使ってもらえる。
言葉は消えるけど、物は残る。
そんなことを考えている自分が嫌になった。蓮は善意でやっている。悪い奴じゃない。むしろ、いい奴だ。それなのにオレは――。
翔太がオレの背後から小声でささやいた。
「嫉妬してるだろ」
「してない」
「即答。怪しい」
「してないから即答なんだ」
「してないなら即答する必要がない。三秒くらい考えてから答えるのが自然だろ」
「……お前、いつからそんな分析力身につけた」
「鮎川さんの影響。声のトーンで嘘がわかるっての、オレも鍛えてみた」
「鍛えるな」
「遅い。もう鍛えちまった。お前、今、眉間に三ミリくらいしわが寄ってる。死んだ魚がしかめっ面してる。レア度高いぞ」
「寄ってない」
「寄ってる。御堂が鮎川さんと話し始めてから寄った。時系列が完全に一致してる」
翔太のやつ、本当に観察力が上がっている。鮎川効果が周りにまで伝染しているのか。
しかめっ面なんてしていない。オレの顔はいつも通り死んでいる。死んだ魚にしかめっ面はない。
……ないはずだ。
火曜日。
鮎川と蓮が放課後の教室で話しているのが見えた。
蓮は椅子を鮎川の机の横に持ってきて、何かの資料を広げている。点字タブレットの使い方について相談しているらしい。蓮はタブレットの機能に詳しいようで、鮎川の操作をサポートしている。
二人の距離が近い。蓮が鮎川のタブレットを指さしながら――いや、鮎川には「指さし」が見えないから、蓮は鮎川の手を取って、タブレットの画面上の位置を教えている。
蓮の手が、鮎川の手に触れている。
ほんの数秒。操作を教えるための、必要最低限の接触。何も不自然なことはない。
なのに――オレの胸の奥で、何かがぎゅっと締まった。
手。蓮が鮎川の手に触れた。小さくて白い、あの手に。虹の日にオレが握った、あの手に。
あの手は――。
やめろ。あの手はオレのものじゃない。鮎川の手は鮎川のものだ。誰が触れようとオレに口を出す権利はない。
わかっている。頭では完璧にわかっている。
なのに体が勝手に反応する。心臓が速くなり、呼吸が浅くなり、胸の奥がじわじわと熱くなる。
教室を出ようとしたとき、蓮の声が聞こえた。
「鮎川さん、ここの設定を変えると、読み上げ速度が調整できるよ。もう少し遅くしたほうが聞き取りやすいかも」
「ほんとだ、すごい。御堂くん、こういうの詳しいね」
「うん、ちょっと調べたんだ。アクセシビリティ機能って、ちゃんと設定すれば結構便利なんだよ。あとね……」
蓮が鞄から一冊のノートを取り出した。
「これ、鮎川さんが授業で使えるように、主要な科目のノートを点字に起こしてみた。まだ途中だけど」
「え……全教科分?」
「いや、まだ数学と英語だけ。他の科目は来週までに」
「御堂くん……いつそんなの作ったの?」
「夜、ちょっとずつ。点字打つの、最初は遅かったけどだいぶ慣れてきた」
鮎川が本当に驚いた顔をしていた。閉じた目の奥で感情が動いているのが、表情のすべてに出ている。口元がわずかに震えて、それから大きな笑顔に変わった。
「ありがとう……。本当にありがとう、御堂くん。わたし、こんなにしてもらったの初めてだよ」
「大したことじゃないよ。鮎川さんのためなら何でもする」
鮎川さんのためなら何でもする。
蓮はその言葉を、真顔で、まっすぐに言った。
その声には嘘がなかった。本気で言っている。鮎川のために何でもする。それが蓮という人間だ。
翔太が言った。「お前、嫉妬してるだろ」。
嫉妬。
この感情には、もう名前がついている。
オレは教室の入り口から踵を返して、廊下に出た。
見ていられなかった。
廊下の窓から見える夕焼けがきれいだった。でも今日は、その夕焼けを言葉にする相手がいない。鮎川は蓮と一緒だ。
帰り道を一人で歩いた。
街路樹の緑。夕焼けの空。塀の上の猫。全部見える。でも、言葉にする意味がない。聞いてくれる人がいないから。
今まで当たり前だったことが、急に色あせる。
鮎川がいない帰り道は、鮎川と出会う前の帰り道と同じだ。何も見えていない。見えすぎる目で、何も見ていない。
死んだ魚に戻っている。




