第25話 Nothing
結局、翔太にはスタンプだけ返した。犬が目をそらしているスタンプ。
翔太からすぐに返信が来た。
『肯定も否定もしないってのが、一番の答えだぞ。おやすみベネディック』
『安藤と組んでたのバレてるからな。共犯者め』
『バレてたか。まあいいや。結果的にお前の心は揺れただろ? 作戦は成功だ』
『成功してない』
『してるよ。だってお前、今こうやってオレにメッセージ打ってる間も、頭の中は鮎川さんのことでいっぱいだろ?』
返信できなかった。
図星だったからだ。
くそ。
スマホを枕元に置いて、目を閉じた。
瞼の裏に、鮎川の笑顔が浮かぶ。「わたしは鈴木くんの声が好きだよ」。あの声。あの温度。
そしてもうひとつ。蓮が鮎川の机に置いた点字のメッセージ。「いつでも力になるから」。
蓮は行動で示す男だ。言葉だけじゃなく、具体的な形で鮎川を支えている。マップを作り、点字を覚え、教科書の変換を手伝い。
オレは――何をしている?
帰り道で景色を話しているだけだ。それは鮎川が喜んでくれるけど、具体的に鮎川の生活を助けているわけじゃない。蓮のマップは鮎川が学校で安全に動くための道具になる。オレの景色描写は――何の役に立っている?
いや。
鮎川は言ってくれた。「鈴木くんの言葉で見る景色が一番好き」と。あの言葉は嘘じゃない。鮎川は嘘をつかない。
でも――「一番好き」と「一番必要」は違う。好きだけど、なくても生きていける。マップは違う。マップがあるかないかで、鮎川の学校生活の安全が変わる。
……何を考えてるんだ、オレは。蓮と自分を比べて、勝ち負けをつけようとしている。そんなの意味がない。鮎川は勝負の景品じゃないんだから。
でも——比べてしまうこと自体が、もう答えなのかもしれない。
どうでもいい相手と自分を比べる奴なんていない。比べるということは、負けたくないということ。負けたくないということは――。
やめろ。考えすぎだ。
目を開ける。天井の蛍光灯。白い光。
空騒ぎ。
なんでもないふりをして、実はすべてだった。
タイトルの「Nothing」には、「何もない」という意味と、「注目に値する」という意味がある。
オレと鮎川の関係は――何もないのか。それとも、注目に値するのか。
答えは、まだ出せない。
出せないけど――たぶん、もうわかっている。
わかっているけど、認めたくない。
認めたら、死んだ魚は泳ぎ出さなきゃいけなくなる。
水の流れに逆らって、必死に。
それが怖いのか、楽しみなのか――それすらも、まだわからない。
五月の夜は、少しずつ短くなっている。
窓の外で、アジサイの蕾がふくらんでいる。
もうすぐ、梅雨が来る。
そして梅雨が来たら、傘が必要になる。
鮎川は――雨の日はどうしているんだろう。白杖と傘を同時に持てるのだろうか。
そんなことを考えている自分に気づいて、苦笑した。
気づけばいつも、鮎川のことを考えている。
空騒ぎだ。全部、空騒ぎだ。
――嘘だ。空騒ぎなんかじゃない。
でも今は、空騒ぎということにしておく。そのほうが、楽だから。




