第24話 この子は、世界を耳で見ている
ふいに、鮎川が足を止めた。
何かを聞きつけたらしい。白杖を止めて、耳を澄ませている。
「鈴木くん。あの家から聞こえる。ピアノ」
「……ああ、聞こえるな」
「前に通ったとき、ショパンのノクターンを弾いてたお家だよ。覚えてる?」
「覚えてる」
「今日は違う曲。ドビュッシーの『亜麻色の髪の乙女』。きれいな曲だよ。前よりうまくなってる。テンポも安定してる」
鮎川が目を閉じたまま――いつも閉じてるけど――耳を傾けている。ピアノの旋律を全身で受け止めるように、わずかに体を揺らしている。
その姿を見ていたら、不意に思った。
この子は、世界を耳で見ている。
ピアノの音色で季節を感じ、風の匂いで天気を知り、足音のリズムで人を識別する。目が見えない代わりに、世界のすべてを音と匂いと温度で受け取っている。
そんな鮎川が「鈴木くんの声が好き」と言ってくれた。
声が好き。声が、この子にとっては「顔」みたいなものなのかもしれない。目が見える人間にとって顔が第一印象であるように、目が見えない鮎川にとっては声が第一印象。
つまり鮎川は――オレの「顔」が好きだと言ったことになるのか?
……拡大解釈しすぎだ。死んだ魚の妄想力がたくましすぎる。
翔太と別れる交差点をとっくに過ぎて、二人きりの帰り道。
別れ道が近づいてくる。いつもの場所。いつもの「じゃあな」。
道端に、アジサイの蕾が見えた。まだ色づく前の、淡い緑色の球体。もう少ししたら、紫や青に変わるはずだ。
紫。鮎川が「寂しい色」と呼んだ色。
アジサイは雨に濡れると色が鮮やかになるという。梅雨の雨を浴びて、寂しい色が美しく輝く。
……なんでアジサイを見て鮎川のことを思い出すんだ。何を見ても鮎川に結びつけてしまう。街路樹を見れば「鮎川に伝えよう」と思い、猫を見れば「鮎川が笑うだろうな」と思い、夕焼けを見れば「あのオレンジの日」を思い出す。
世界のすべてが鮎川フィルターを通して見えている。
死んだ目のフィルターが、鮎川フィルターに置き換わった。
それを意識した瞬間、翔太の言葉が脳裏に響いた。「お前、それ好きって言うんだよ」。
……うるさい。お前の声まで脳内再生するな。
鮎川が立ち止まった。
「鈴木くん」
「ん」
「今日の鈴木くん、なんかいつもと違ったよ」
「……そうか」
「うん。景色の話をするとき、声がいつもよりぎこちなかった。何か気になることがあるんでしょ」
「……」
「教えてくれなくてもいいけど。でもね、ひとつだけ言っておくね」
鮎川がまっすぐこちらを向いた。閉じた目が、オレを見据えている。
「わたしは鈴木くんの声が好きだよ。死んだ目って言われてるけど、声はすごく生きてる。景色を教えてくれるときの声も、普段の淡々とした声も、全部好き」
好き。
今日何度目だ、その単語。
でも、今回の「好き」は――これまでのどの「好き」よりも、胸に深く刺さった。
声が好き。景色の話をするときの声が好き。全部好き。
友達としての好きなのか。
それとも。
「……サンキュ」
「どういたしまして。じゃあね、鈴木くん。また明日」
「ああ、また明日」
鮎川の背中が遠ざかっていく。白杖のリズム。かつ、かつ、かつ。
オレはその場に立ち尽くした。
夕焼けの空。オレンジと紫のグラデーション。アジサイの蕾。猫の昼寝。全部、目に入っている。
でも今、オレの目が追いかけているのは――遠ざかっていく鮎川の後ろ姿だけだった。
小さな背中。風に揺れる髪。白い杖。
なんでもないはずだ。空騒ぎだ。友達だ。
なのに、心臓がうるさい。
翔太の嘘が発動している。「鮎川さん、お前のこと好きらしいぞ」。嘘だと知っているのに、嘘に踊らされている。
ベネディックだ。オレは今、完全にベネディックだ。
家に帰って、またベッドに倒れ込んだ。
天井。蛍光灯。いつもの景色。
スマホを取り出す。翔太からメッセージが来ていた。
『作戦失敗か?』
『作戦って何の話だ』
『いや、空騒ぎ作戦。お前の反応を見る実験。結果は、めちゃくちゃ動揺してたぞ、デッドフィッシュ』
『嘘ついたこと怒ってないと思うなよ』
『怒ってるのは認めるけど、動揺してたのも認めろよ。お前、「鮎川さんがお前を好き」って聞いて、めちゃくちゃ嬉しそうだったぞ。顔に出てた』
『出てない。オレの目は死んでる。表情は変わらない』
『目が死んでても耳は赤くなるんだよ。お前、耳真っ赤だったぞ』
スマホを枕に叩きつけそうになった。
耳が赤かった。
耳は――死んだ目と違って、嘘がつけない。
『なあ湊。もう一回聞くけど、お前、鮎川さんのこと好きだろ』
メッセージの画面を見つめる。
親指が画面の上で止まっている。
「好きじゃない」と打てばいい。いつものように否定すればいい。友達だと言えばいい。
でも――指が動かなかった。
否定する言葉が、出てこなかった。
否定すればするほど、本心はあらわになる。
鮎川が今日言った言葉。シェイクスピアの言葉。四〇〇年前の真理。
オレは――。




