第23話 もしかしたら
校門で鮎川が待っていた。
白杖を体の横に添えて、夕方の風に髪を揺らしている。オレの足音を聞いて、こちらに顔を向けた。
「あ、鈴木くん。遅かったね。桐谷くんと何の話?」
「大した話じゃない」
「声が荒い。走ってきたでしょ」
「ちょっと急いだだけだ」
「心拍数、上がってるよ。息が少し荒い」
「……お前は人間スキャナーか」
鮎川が笑った。いつもの笑顔。閉じた目が細くなって、頬に小さなえくぼができる。
その笑顔を見て――見えないはずの笑顔を、見て――オレの心臓がまた一つ跳ねた。
くそ。翔太のせいだ。あいつが余計なことを言うから、鮎川の一挙一動が気になって仕方がない。
意識するな。いつも通りにしろ。いつもの死んだ目でいろ。
「帰るか」
「うん」
二人で歩き始めた。
いつもの道。いつもの風景。でも今日は、何かが違う。
翔太の言葉が頭の中でリフレインしている。
「鮎川さん、お前のこと好きらしいぞ」。
嘘だとわかっている。わかっているのに、消えない。
そして――安藤が鮎川に耳打ちした内容も気になっている。何を言ったのか。鮎川はあの後、少しだけ様子が変わった気がした。気のせいかもしれない。でも気のせいじゃないかもしれない。
隣を歩く鮎川が、何かを話している。今日の授業のこと。数学のテストの予想問題のこと。体育で走ったときに聞こえた鳥の声のこと。
普段ならちゃんと聞いているのに、今日は半分くらいしか頭に入ってこない。
鮎川もどこか様子がおかしかった。いつもなら矢継ぎ早に質問してくるのに、今日は話と話の間に、少しだけ間がある。白杖のリズムも、ほんの少しだけテンポが遅い。
「……鈴木くん?」
「え?」
「聞いてなかったでしょ」
「聞いてた」
「嘘。わたし、今『もし宇宙人が来たらどうする?』って聞いたのに、鈴木くん何も反応しなかったよ」
「……いつそんなこと言った」
「三〇秒くらい前。テストだったの。やっぱり聞いてなかった」
「……悪い」
「何かあった? 桐谷くんと話してから、様子がおかしいよ。声のテンポが不自然に速いし、呼吸が浅い」
全部バレている。
この子の前では、嘘も隠しごとも無意味だ。声で、呼吸で、心拍数で、全部見抜かれる。
「……翔太が変なこと言ってきただけだ」
「変なこと?」
「気にしなくていい」
「気になるんだけど」
「だから気にするな」
「鈴木くんが気にするなって言うときは、だいたい気にしたほうがいいことなんだよ」
ぐうの音も出ない。
鮎川はそれ以上追及してこなかった。でも、こちらの異変に気づいていることは間違いない。この子の耳は嘘を許さない。
黙って歩く。白杖の音。かつ、かつ、かつ。
五月の風。ジャスミンの匂いは消えて、初夏の青い匂いがする。
「ねえ、鈴木くん」
「ん」
「今日はどんな景色?」
日課の質問。いつものやつだ。
オレは意識して深呼吸した。周囲を見回す。死んだ目で、でもちゃんと見る。
……あれ。
いつもなら自然に出てくる言葉が、今日は出てこない。景色は見えている。街路樹の緑。夕焼けの空。塀の上の猫。全部見えている。
でも、言葉にならない。
頭の中が、鮎川のことでいっぱいだからだ。
隣を歩く鮎川の横顔。風に揺れる髪。白杖を持つ細い指。閉じた目の、長いまつげの影。
景色よりも、隣の人間のほうが目に入ってしまう。
「……鈴木くん?」
「ああ、悪い。えっと……」
頑張って口を開いた。
「街路樹が濃い緑になってきた。アジサイの蕾がふくらんでて、あと一週間くらいで咲きそうだ。空は……オレンジと青の半々。雲が少しだけあって、薄いピンク色になってる。夕焼けとしては、この前のほうがきれいだったけど」
「この前のほう?」
「……前に、手のひらでオレンジの色を教えたとき」
言ってから、しまったと思った。
あの日のことを持ち出すべきじゃなかった。あの夕焼けの記憶は――オレにとって特別すぎる。
「覚えてるんだ。あの日のこと」
「……まあ」
「わたしも覚えてるよ。あったかいオレンジと、寂しい紫」
鮎川が微笑んだ。
柔らかい声。あったかい声。
さっき翔太が言った言葉がよみがえる。「鮎川さんの声が変わる」。変わっているのか? 今の声は、いつもの声と違うのか?
オレの耳では判別できない。鮎川ほどの聴覚がないオレには、声のわずかな温度変化は聞き取れない。
でも。
何かが――何かが、いつもと違う気がした。
気のせいかもしれない。翔太の嘘に影響されて、何でもないことを特別に感じているだけかもしれない。
でも――もしかしたら。
いや、「もしかしたら」はやめろ。期待するな。死んだ魚に期待は似合わない。




