第22話 空騒ぎでは済まなくなる
放課後。
いつものように鮎川と帰ろうとしたら、翔太が廊下で待ち構えていた。
翔太の隣に、安藤美咲もいた。二人が並んでいるのは珍しい。翔太と安藤に接点があるとは知らなかった。
安藤はそのまま「じゃあね」と手を振って教室に戻っていった。翔太だけが残る。
「湊、ちょっと来い」
「何だよ」
「いいから来い。鮎川さん、先に行ってて。すぐ追いつくから」
「え? うん、わかった。鈴木くん、校門で待ってるね」
「ああ」
鮎川が白杖を突きながら先に行く。翔太がオレの腕を掴んで、人気のない階段の踊り場に引っ張っていった。
「何だよ、急に」
「お前、今日一日どうだった。噂の件」
「どうもこうもない。面倒くさかった」
「鮎川さんはなんて言ってた?」
「友達だって。空騒ぎだって」
「お前は?」
「オレも同じだ。友達だ」
翔太がオレの顔をじっと見た。五秒くらい、無言で。
それから、にやっと笑った。
嫌な予感がする。この笑顔は、何かを企んでいるときの翔太だ。
「なあ湊。一つ、教えてやろうか」
「何を」
「鮎川さん、お前のこと好きらしいぞ」
心臓が――跳ねた。
物理的に。明確に。ドクン、と一回。
呼吸が止まった。頭の中が真っ白になった。
死んだ魚の目が、一瞬だけ生き返った――ような気がした。
「……は?」
「だから、鮎川さん。お前のこと、友達以上に思ってるみたいだって。安藤が言ってた」
「安藤? あの噂の発信源だろ。信用できるか」
「安藤は情報通だぞ。鮎川さんが凛ちゃんに何か話してるのを聞いたらしい」
「何かって、何だよ」
「鈴木くんのことを話すとき、鮎川さんの声が変わるって。凛ちゃんが指摘したら、鮎川さんが黙ったって」
声が変わる。
それは――オレにも覚えがある。鮎川がオレの声の変化を聞き取るように、鮎川自身の声にも変化があるということか。
いや、待て。これは安藤経由の情報だ。安藤美咲という情報センターを経由した時点で、どこまでが事実でどこからが脚色かわからない。噂が噂を呼ぶ典型的なパターンだ。
冷静になれ。死んだ魚の目に戻れ。
「嘘つくな、翔太」
「嘘じゃないって」
「嘘だろ。お前、さっき自分で言ったじゃないか。付き合ってないって知ってるって。なのにいきなり好きらしいとか、矛盾してるだろ」
「付き合ってないけど好きっていうのは矛盾しないだろ。片思いってやつだ」
「……」
「否定が早すぎるぞ、湊。ベネディックか、お前は」
ベネディック。
さっき鮎川が話した『空騒ぎ』の登場人物。周りに「あの子がお前を好きだ」と嘘を吹き込まれて、あっさり好きになってしまう男。
待てよ。
これ――まさに今の状況じゃないか。
翔太がオレに「鮎川がお前を好きらしい」と告げる。『空騒ぎ』でベネディックの友人がやったのと、まったく同じ構図。
偶然か?
いや――翔太は、鮎川から『空騒ぎ』の話を聞いているかもしれない。鮎川がシェイクスピアの話をするのは日常茶飯事だ。翔太の耳にも入っているだろう。
もしかして、こいつ――わざとやっているのか?
「翔太」
「なんだ」
「お前、今の話、本当か?」
「本当だって」
「安藤から聞いたんだな」
「ああ」
「安藤はどこで聞いた」
「凛ちゃんと鮎川さんの会話を……」
「聞いた、って言ったけど、安藤の聴力で鮎川と凛の会話を正確に聞き取れるか? あの二人、いつも小声だぞ」
「……」
翔太の顔から笑みが消えた。
代わりに、ばつが悪そうな表情が浮かぶ。
「……はは。お前、意外と冷静だな」
「冷静っていうか、怪しすぎるんだよ。タイミングが。今日、鮎川が『空騒ぎ』の話をした直後に、お前が同じことをやってくる。仕組まれてる感が半端ない」
「……ちっ」
「おい。今、舌打ちしたな」
翔太が観念したように肩をすくめた。
「……まあ、半分は嘘だ」
「半分?」
「鮎川さんの声が変わるっていうのは、安藤が本当に言ってた。でも『好きらしい』ってのは、オレの脚色」
「やっぱりか」
「でもな、湊。安藤が嘘ついてるとは限らないぞ。鮎川さんの声が変わるっていうのは事実かもしれない」
「仮に事実だとしても、それが『好き』かどうかはわからないだろ」
「お前こそ、自分の声が鮎川さんの前で変わってるの、気づいてるのか?」
「……」
「鮎川さんが前に言ってたじゃん。お前が景色を話すとき、声があったかくなるって。それ、好きの証拠だってオレは思うけどな」
「違う」
「否定が早い。ベネディック」
「うるせえ」
翔太が両手を挙げて「降参」のポーズを取った。でも目は笑っている。
「なあ湊。オレはな、お前の味方だからこういうことしてんだよ。お前、自分の気持ちに気づいてないだろ。いや、気づいてるけど認めてないだろ。だから外から揺さぶってやろうと思ったんだ」
「余計なお世話だ」
「余計な世話こそ友達の仕事だろ。シェイクスピアの『空騒ぎ』だって、友達が仕組んだから二人は結ばれたんだぞ。友達がいなかったら、ベネディックとベアトリスは一生意地張ったまま終わってたんだ」
「オレとベネディックを一緒にするな」
「一緒だよ。否定すればするほど怪しい。お前、今日一日で何回『違う』って言った? 数えてみろよ」
「……」
「な? 否定の回数が多いほど、本心は逆なんだよ。シェイクスピアが四〇〇年前に証明してる」
翔太をその場に残して、階段を駆け下りた。
校門に向かう廊下で、自分の心臓がまだバクバクしていることに気づいた。
嘘だとわかったのに。翔太の仕込みだとわかったのに。
『鮎川さん、お前のこと好きらしいぞ』。
その言葉を聞いたときの、あの心臓の跳ね方。あの頭の真っ白。
あれは――何だ。
嘘だとわかっても消えない動揺。それが意味することを、オレは知っている。知っているけど、認めたくない。
認めたら。
認めたら、もう「空騒ぎ」では済まなくなる。




