ひとり
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年が明けた一月の半ば、ルミナスプロダクションの社長室に初奈は一人で呼び出された。
ビルの最上階。役員フロアの廊下には分厚い絨毯が敷き詰められ、足音が吸い込まれて消える。壁には歴代の売れっ子アイドルたちの写真が額装されて並んでいた。全員が完璧な笑顔で、初奈を見下ろしている。
重い扉の前で深呼吸をしてから、コンコンとノックをした。
「入れ」
低い声が返ってくる。初奈は震える手でドアノブを回した。
社長室は思ったより殺風景だった。大きなデスクと、壁一面のモニター。窓からは都心のビル群が見渡せる。神宮寺啓介社長はデスクの向こうに座り、手元の資料に目を落としたまま初奈を見ようともしなかった。
「おかけ」
「失礼します」
初奈は指定された椅子に腰を下ろした。背もたれに体重を預けることすらできず、背筋を伸ばしたまま両手を膝の上で固く握り合わせる。
しばらくの沈黙のあと、神宮寺が顔を上げた。皺の刻まれた顔に、感情は見当たらない。十二月の発表会の映像をモニターに映しながら、淡々と言った。
「見せてもらった。お前のステージだ」
「……はい」
「三回転んだな。初めてのステージで三回。ルミナスの歴史の中でも、なかなか珍しい記録だ」
初奈は何も言えなかった。膝の上で握った指が白くなる。
「だが、声は悪くない。五十嵐も言っていた。お前には資質がある。磨けば光る、と」
思いがけない言葉に、初奈は顔を上げた。
「しかし、百合咲ぼたん、神崎るるかと比べると、レベルが違いすぎる。ダンスの基礎体力、表現力、身体能力、どれを取っても隔たりがありすぎる。このまま三人でユニットを続けても、お前が二人の足を引っ張るだけだ。十二月のステージがその証拠だ。そうは思わないか」
初奈は唇を噛んだ。言い返せることなんて何もなかった。その通りだったから。あのステージで初奈がどれだけ二人に迷惑をかけたか、自分が一番よく知っている。
「そこでだ。『ルナシエル』から初奈を外し、ぼたんとるるかの二人でデビューさせることに決めた。お前は当面、ソロで基礎から鍛え直せ」
頭の中で何かが弾けたような気がした。
「……ユニットから、外されるんですか」
「そうだ。不服か」
不服かと問われれば、不服だった。でも、それ以上に「ああ、やっぱり」という諦めにも似た気持ちがあった。自分は二人に釣り合わない。ずっと前からわかっていたことだ。ただ、それが今日、正式に告げられただけだ。
「……いいえ。社長のおっしゃる通りだと思います。私が未熟なばかりに、お二人に迷惑をかけてしまいました」
「わかっているなら結構。お前はソロで一から出直せ。以上だ」
神宮寺はそう言って、再び手元の書類に視線を落とした。話は終わりだという合図だった。
初奈は立ち上がり、深く頭を下げて社長室をあとにした。
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レッスンスタジオに戻ると、ちょうど休憩中だった。壁にもたれて水を飲んでいたぼたんが、初奈の顔を見るなり眉をひそめた。
「初奈、顔色が悪いぞ。何があった」
「社長に呼ばれて」
るるかも心配そうに近づいてくる。初奈は観念して、正直に話した。
「私、ユニットから外されることになりました。お二人は、デュオでデビューされるそうです」
一瞬の静寂。
先に口を開いたのはぼたんだった。
「ふざけんな」
低い声だった。普段の彼女からは想像もつかないほど、冷たく、怒りを孕んだ声。
「ぼたんさん?」
「なんでオレに一言もなく、そんなこと決めるんだ。社長がどこにいる。直談判する」
「ちょ、ちょっと待ってください、ぼたんさん」
初奈は慌ててぼたんの腕をつかんだ。ぼたんは振り払おうとしたが、初奈が必死にしがみつく。
「オレたちは三人でデビューするんだろ。なんでそれを、勝手に」
「違います。私が未熟だからです。仕方ないことなんです」
「仕方なくなんかねえ!」
ぼたんの声がスタジオに響いた。普段はクールで、感情を表に出さない彼女が、今は声を震わせている。
「オレは、お前と一緒にステージに立ちたいんだ。るるか先輩もそうだろ」
「ええ、そうよ」
るるかも、いつもの「うふふ」という笑顔は消えていた。かわりに、静かな決意を宿した目で初奈を見つめている。
「私、初奈ちゃんと三人でやりたい。だから私も、社長に話をしに行くわ」
「るるかさんまで……!」
初奈は胸が張り裂けそうだった。自分のせいで、二人がこんなに怒ってくれている。それが申し訳なくて、同時に、どうしようもなく嬉しかった。
でも。
「お二人とも、落ち着いてください」
初奈は二人の顔をまっすぐ見て、静かに言った。
「社長の判断は、きっと正しいんです。今の私では、お二人に釣り合わない。それは、私が一番よくわかっています」
「初奈……」
「だから、私はソロで頑張ります。お二人がデュオで成功して、いつか同じステージに立てるように。追いつけるように、もっともっと練習します。だから、どうか」
初奈は深く頭を下げた。
「どうか、お二人はお二人の道を進んでください。私のことは、心配しないでください」
顔を上げると、ぼたんは唇を噛みしめていた。るるかはそっと目を伏せている。
「……わかった」
ぼたんが絞り出すように言った。
「でも、約束しろ。いつか必ず、同じステージに立つって」
「はい。約束します」
「絶対だぞ。オレは忘れねえからな」
「私も待ってるわ。初奈ちゃんが追いついてくるのを」
るるかが初奈の手を握った。その手は温かくて、少しだけ震えていた。
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二月に入り、神宮寺社長から再び呼び出しがあった。今度は九条プロデューサーも同席している。
「ソロデビューが決まった。来月、CDを出す」
「……CD、ですか」
初奈は耳を疑った。ついこの間ユニットから外されたばかりなのに、もうソロデビューの話が出るなんて。
「ただし、一つ条件がある」
神宮寺はデスクの上に一枚の写真を滑らせた。どこかの学校の制服姿のアイドルが、笑顔でポーズをとっている。
「ジャケット写真は、制服で撮れ」
「制服……ですか。聖クラウディアの、ということでしょうか」
「そうだ。名門お嬢様学校の生徒がアイドルをしている。そのギャップが売りになる。櫻坂家のブランドも使わせてもらう。『名家の令嬢が歌う奇跡の歌声』。悪くないキャッチコピーだと思わんかね」
初奈の全身から血の気が引いた。
「……それは、できません」
「なに?」
初めて、神宮寺の顔に感情が浮かんだ。苛立ちとも驚きともつかない、微かな表情の変化。
「聖クラウディアの制服を商業利用することは、校則で禁じられています。それに、櫻坂家の名前を宣伝に使うことも、父が許すとは思えません。そして何より」
初奈はまっすぐに社長の目を見た。
「私は、自分の実力で勝負したいんです。家柄や学歴に頼るのではなく、私の歌で」
神宮寺はしばらく初奈を無表情で見つめ、それから小さくため息をついた。
「青いな。この業界は、使えるものは何でも使うところだ。それをお前は」
「それでもです。これだけは譲れません」
長い沈黙。九条プロデューサーが心配そうに初奈を見ている。神宮寺はデスクに肘をつき、指を組んで考え込んだ。
「……わかった。制服は使わなくていい。だが、ジャケット写真はどうする。プロのカメラマンとスタイリストを手配するには時間が足りん。発売日はもう決まっているんだぞ」
「衣装は、自分で作ります」
「なに?」
今度は九条が声を上げた。
「自作の衣装で撮影します。私の歌を聴いてもらうためのCDです。なら、衣装も私の手で作りたい。露出の少ない、私らしい衣装を」
「正気か、櫻坂。お前、服なんか縫ったことあるのか」
「ありません。でも、やります」
「……好きにしろ。ただし期日までに完成しなければ、その時はこちらの言う通りにしてもらう」
神宮寺は呆れたように手を振った。
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その夜、初奈は生まれて初めての裁縫に挑戦した。
寮の自室に広げたのは、手芸店で買ってきたばかりの布地とレース、それから裁縫道具一式。どれも初めて自分で選び、自分で買ったものだった。今までの初奈なら、洋服はすべて誰かが用意してくれるものだった。でも今回ばかりは違う。すべて自分でやると決めた。
「……どうなってるんだ、これは」
針に糸を通すことすら、初奈には難関だった。糸の先をなかなか針穴に通せず、何度もやり直す。やっと通ったと思ったら、今度は玉結びが作れない。動画サイトで検索して、一時停止と再生を繰り返しながら、悪戦苦闘すること数十分。ようやく一つ目の玉結びができたときには、額にうっすら汗が滲んでいた。
布を切るにも定規が必要で、まっすぐ切るだけで一苦労。縫い目は曲がり、糸は絡まり、針で指を刺しては「痛っ」と小さく声を上げる。
それでも、不思議と楽しかった。
手を動かしていると、余計なことを考えずに済んだ。ユニットから外された悔しさも、ソロでやっていく不安も、社長に言われた言葉の数々も、今はただ布と糸に向き合うことで忘れられた。
部屋の隅に置いたスマートフォンからは、デビュー曲の仮音源が流れている。『はじまりのうた』。初奈のために書き下ろされた、優しいバラードだった。何度も聴いているうちに、歌詞が自然と心に入ってくる。まだ誰にも聴かせたことのない、自分だけの歌。
「初奈、入るぞ」
ノックの音と同時に、ドアが開いた。ぼたんだった。後ろにるるかもいる。
「あ、お二人とも。どうされたんですか」
「どうされた、じゃねえ。あんたが衣装作るって聞いて、見に来た」
「それ、今夜中に縫うの?」
るるかが床に広げられた布地を見て、目を丸くした。
「はい。でも、その前にまず針に糸を通すところからでして」
「……貸せ」
ぼたんはずかずかと部屋に入ってきて、初奈の手から針を奪い取った。慣れた手つきで糸を通し、玉結びまで一瞬でやってのける。
「ぼたんさん、裁縫できるんですか」
「母親がバレエの衣装を直したりしてたからな。ガキの頃から手伝わされてた」
「私も少しだけできるわ。弟や妹の服、繕ったりしてたから」
るるかも隣に座って、布地を手に取った。
「お二人とも、手伝ってくれるんですか」
「当たり前だろ。衣装作るって聞いて、見てるだけのつもりはねえ」
「それに、初奈ちゃんだけに任せられないわ。見てごらんなさい、この縫い目。曲がりすぎておかしいわよ。うふふ」
「笑わないでください」
初奈は頬を膨らませたが、すぐに笑顔になった。
三人で肩を並べて、夜遅くまで針を動かした。誰かが指を刺しては「痛っ」と叫び、別の誰かが曲がった縫い目を見て笑い、また別の誰かが「それいい感じだな」と褒める。他愛のない時間だった。でも、初奈にとっては、何にも代えがたい宝物のような夜だった。
布地は安っぽいものだった。初奈が自分のお小遣いで初めて買った、手触りの粗い生地。今まで身に着けてきた服は、どれも上質なシルクやカシミアばかりだった。でも、この安い布地が、今は何よりも愛おしかった。
(これが、私の選んだもの)
誰かに与えられたものじゃない。自分で選び、自分で作り上げる。それは、アイドルとしての自分にも通じるものがある気がした。
明け方近くになって、ようやく衣装が完成した。
桜色のブラウスに、膝下まである白いふんわりとしたスカート。肩も背中も鎖骨も、すべてが上品に隠されている。代わりに、襟元と袖口に繊細なレースをあしらった。裾には小さなパールビーズを一粒ずつ縫いつけて、控えめな輝きを添えてある。
「……できた」
初奈は衣装を両手で掲げて、まじまじと眺めた。プロの作るものとは比べ物にならない。縫い目は不揃いで、ところどころ糸がほつれかけている。それでも、間違いなく世界に一着だけの、初奈だけの衣装だった。
「いいじゃねえか。初奈らしい」
ぼたんが満足げにうなずいた。
「ええ、とても素敵。これを着て歌う初奈ちゃんの姿が目に浮かぶわ」
るるかも嬉しそうに微笑んでいる。
「お二人とも、本当にありがとうございます。このご恩は絶対に忘れません」
「大げさだな」
「うふふ、それより早く寝ましょう。明日は撮影なんだから」
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翌日。スタジオに簡易の撮影セットを組み、ジャケット写真の撮影が行われた。
カメラマンはルミナス専属の若い男性で、初奈の衣装を見て一瞬驚いた顔をしたが、すぐに「いいですね、とても自然体だ」と言ってくれた。
初奈は自作の衣装を身にまとい、白い背景の前に立った。髪はいつものように後ろで一つ結びにし、小花の飾りをひとつだけ挿している。
「緊張しなくていいからね。いつもの君のままで」
カメラマンの声に、初奈はこくりとうなずいた。
いつもの私。櫻坂初奈。お淑やかで清楚で、でも芯は強くて。誰かのために歌いたいと願っている。
初奈は目を閉じて、五歳の夏の日の拍手を思い出した。それから、学園祭で見たステージ。ぼたんと初めて会った日。るるかと三人で笑ったカフェ。そして、いつかまだ見ぬ『貴方』に届けるための歌。
目を開けて、微笑んだ。それは計算した笑顔ではなく、自然とこぼれた笑みだった。
シャッター音が何度も響く。
「……いいね。最高だ。OK、これでいこう」
カメラマンが太鼓判を押した。
初奈は深く息を吐いた。不思議と、自信があった。技術もルックスも、まだまだ未熟だけれど、それでもこの写真には、今の自分がすべて映っている気がした。
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CDの発売日は、来週に決まった。
タイトルは『はじまりのうた』。櫻坂初奈、ソロデビューシングル。
まだ何も始まっていない。ユニットから外され、一人になって。それでも、確かに一歩を踏み出そうとしていた。
初奈は手にしたCDのサンプル盤を胸に抱き、窓の外を見た。
二月の空はまだ寒々としている。でも、陽射しは確実に春のものに変わり始めていた。
(私の歌が、誰かに届きますように)
あの拍手をくれた誰かに。
まだ見ぬ『貴方』に。
そして、いつか同じステージに立つと約束した、大切な二人に。
初奈は小さく祈って、サンプル盤をそっと机の上に置いた。
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【初奈の日記】
ユニットから外されました。
社長に呼ばれて、レベルが違いすぎると言われました。それは、私がずっと感じていたことです。わかっていたつもりでも、いざ正式に告げられると、やはり胸が痛みました。
でも、それ以上に驚いたのは、ぼたんさんとるるかさんが私よりも悔しがってくれたことです。ぼたんさんは社長に直談判しようとして、るるかさんも一緒に抗議しようとしてくれました。それを止めるのに必死でしたが、同時に、私のことをそこまで思ってくれる人がいるのだと知って、涙が止まりませんでした。
お二人とは、いつか必ず同じステージに立つと約束しました。それまでは、ソロで頑張ります。
ソロデビューが決まり、ジャケット写真の撮影がありました。社長は制服を使えと言いましたが、それは断りました。聖クラウディアの制服を商業利用することはできないし、何より私は家柄ではなく自分の実力で勝負したい。そう思ったからです。
衣装は自分で縫いました。生まれて初めて針と糸を持ちました。ぼたんさんとるるかさんが夜遅くまで手伝ってくれて、ようやく完成した衣装は、縫い目が曲がっていて、糸がほつれているところもあります。それでも、私にとっては宝物です。布地は安っぽいけれど、私が初めて自分で選び、自分のお金で買ったものです。今までは、何不自由なく与えられたものばかり着ていました。でもこれからは、自分で選び取っていきたい。アイドルとしても、一人の人間としても。
来週、CDが発売されます。タイトルは『はじまりのうた』。私の、初めての歌。
この歌が、届きますように。あの拍手をくれた人に。いつか出会う『貴方』に。




