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はじめての景色


---


「ゲームセンター?」


十二月最初の土曜日。スタジオでの午前レッスンを終えた初奈は、ぼたんの口から飛び出した言葉を鸚鵡返しに繰り返していた。


「そうだ。やったことないんだろ」


「……はい。名前は存じ上げていますが」


「だろうな。今日はオフだし、行くぞ。るるか先輩もいいっすよね」


「いいわね。私も久しぶりに行きたいと思ってたの」


るるかが嬉しそうに手を合わせる。初奈は二人の顔を交互に見つめて、おずおずとうなずいた。


「わ、わかりました。ご一緒します」


「よし、決まり。初奈の社会見学だ」


「社会見学って……」


「お嬢様にはそういうのが必要なんだよ」


ぼたんはすたすたと歩き出した。るるかが初奈の手を引いて、その後を追う。


街は十二月の賑わいに包まれていた。駅前の大通りにはイルミネーションが輝き、どこからかクリスマスソングが流れている。初奈はこうした雑踏を、これまでほとんど歩いたことがなかった。いつも送迎の車で移動し、立ち寄る店も限られていたからだ。


(なんだか、わくわくする)


心臓が少しだけ速くなっている。


ゲームセンターは駅から五分ほどの場所にあった。色とりどりのネオンが瞬き、建物の中からは大音量の音楽と電子音が漏れ出している。入り口には見たこともない大きなぬいぐるみが吊るされた機械が並んでいて、初奈は思わず足を止めた。


「これは、なんですか」


「UFOキャッチャーだ。知らねえのか」


「UFO……」


「あの爪を動かして、ぬいぐるみを掴むんだよ」


ぼたんが百円玉を入れて、実演してみせる。爪がぬいぐるみの頭をかすめて、空振りに終わった。


「……くそ、もう一回」


「ぼたんちゃん、熱くなりすぎるとお金が溶けるわよ」


「うるせえです。次で取る」


結局ぼたんは五回挑戦して、小さなクマのぬいぐるみを手に入れた。額に汗を浮かべ、満足げな顔で初奈に差し出す。


「ほら」


「え、私にですか」


「今日はお前の社会見学だからな。記念だ」


「……ありがとうございます。大切にします」


初奈がぬいぐるみを両手で受け取ると、ぼたんは照れくさそうに横を向いた。


「次、プリクラ撮ろうよ」


るるかが指さしたのは、カーテンで仕切られた小さなブースが並ぶ一角だった。


「プリクラ……ですか」


「初奈ちゃん、プリクラも初めて?」


「はい。撮影は、スタジオでするものだと思っていました」


「うふふ、そうじゃなくて。これはね、友達とわいわい撮る写真なの。さ、入った入った」


るるかに背中を押されて、初奈は人生で初めてのプリクラブースに足を踏み入れた。中は狭くて、大きな画面がいくつも光っている。三人で並ぶとぎゅうぎゅうで、肩と肩が触れ合った。画面がカウントダウンを始める。ぼたんはクールなポーズ。るるかは頬に両手を当てて小首をかしげている。初奈は慌てて二人の真似をしようとしたが、タイミングがわからず、結局中途半端な笑顔で写ってしまった。


「あはは、初奈ちゃん、顔がひきつってる」


「うう……難しいです、これ」


「落書きしていい? 初奈の頭に猫耳つけてやる」


「ぼたんさん、やめてください……!」


結局三人とも落書きしまくって、笑いすぎてお腹が痛くなった。


それから、音ゲーをやって、ぼたんが圧倒的なスコアを叩き出して自慢したり。るるかがレースゲームで最下位なのに「うふふ、楽しいわね」とまったく気にしていなかったり。初奈が初めての太鼓のゲームでリズムに合わせてバチを叩いて、意外と褒められたり。


気がつけば、外はもう暗くなっていた。


「疲れたけど、すごく楽しかったです」


帰り道、初奈はぽつりとそう言った。


「そりゃよかった」


「初奈ちゃん、また行きましょうね。今度はボウリングとかもいいかも」


「ボウリング……また未知の世界です」


「いいからとにかく来い。社会見学だ」


「はい」


初奈は笑ってうなずいた。


こんな風に、誰かと放課後に遊ぶこと。初奈にとっては、それさえも特別な出来事だった。


家に帰ればお嬢様。学校では優等生。今まで、ただそれだけの毎日だった。


でも今は、違う。


(友達って、こういうことなんだ)


初奈は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、夜道を三人で歩いた。


---


十二月半ば。ルミナスプロダクション主催のミニイベントが、都内の小規模ライブハウスで開催されることになった。


正式名称は『ルミナス研修生成果発表会』。年に一度、研修生が日頃の成果を披露する場で、業界関係者やメディア、ファンが招待される。そして今回は、第七期のプレデビューユニット『ルナシエル』が初めてステージに立つ日でもあった。


控え室は緊張で張り詰めていた。


初奈は鏡の前に座り、メイクスタッフに髪を整えてもらいながら、何度も唇を噛みしめていた。衣装は先日ラフデザインを見たばかりの、桜色の姫系ロングスカート。本番用に仕立てられたそれは、想像以上に美しくて、まるで自分ではない誰かになったような気分だった。


「初奈、手が震えてるぞ」


隣で同じく衣装を着たぼたんが、鏡越しに声をかけてきた。サックスブルーの衣装が、彼女のクールな雰囲気によく似合っている。


「……緊張しています」


「オレもだ。でも、今までやってきたことをやるだけだ」


「そうですね」


「初奈ちゃん、ぼたんちゃん」


るるかが後ろから歩み寄り、二人の肩にそっと手を置いた。ラベンダーの衣装が、彼女の柔らかな笑顔と調和している。


「三人でここまで来たんだもの。大丈夫。いつも通りにやりましょう」


「はい」


「了解」


九条プロデューサーが控え室の入り口に立った。


「時間よ。三人とも、ステージへ」


---


会場は二百人ほどのキャパシティだったが、今日はそれが満席だった。半分は研修生の家族や友人、あとの半分は業界関係者と、ルミナスのファンクラブ会員から抽選で招待された観客たち。ステージの照明がまぶしくて、客席の顔はほとんど見えない。


それでも、あの日の学園祭と同じ熱気が、会場全体を包んでいた。


『ルナシエル』の出番は、イベントの中盤。先輩たちの堂々としたパフォーマンスを見ているうちに、心臓が口から飛び出しそうになった。


「次、行くぞ」


ぼたんが小声で言った。


「はい」


「大丈夫、私たちならできるわ」


ステージに三人が並ぶ。照明が一斉に点いた。


音楽が流れ出す。『星空のプロローグ』。初めてのオリジナル曲。初めてのステージ。


最初のフレーズはるるかのソロだった。透明な歌声が、会場の空気をさらっていく。続いてぼたんの力強いパート。そして、初奈の番。


息を吸い込んで、一歩を踏み出した。その瞬間だった。


床に裾が引っかかったのか、あるいは緊張で足がもつれたのか。初奈の体はバランスを失い、前に倒れ込んでいた。


どっと、という音。膝をついて、両手を床に。


(何が起きたの)


頭が真っ白になる。音楽は続いている。初奈は慌てて立ち上がった。顔が熱い。客席からざわめきが聞こえる。


「……初奈」


ぼたんが心配そうに一瞬だけ視線を向けた。初奈は無理に笑顔を作り、そのまま歌い出した。


(大丈夫。まだ、大丈夫)


しかし、二度目はサビの頭だった。


ターンの途中で、また足がもつれた。今度は完全に転んで、尻餅をつく。会場から「ああ……」という声が漏れた。初奈は立ち上がろうとしたが、膝が笑ってうまく立てない。るるかがさりげなくフォローに入り、手を貸してくれた。


(ごめんなさい、ごめんなさい)


心の中で何度も謝りながら、初奈は三度目のミスをした。それは曲の終盤。フォーメーション移動のとき、ぼたんと軽くぶつかってしまったのだ。ぼたんは体幹が強いのでよろけなかったが、ぶつかった初奈のほうがまたもやバランスを崩した。なんとか転ばずに踏みとどまったが、振り付けは完全にずれてしまった。


曲が終わる。会場からは温かい拍手が送られたが、それは多分、先輩たちや他の研修生に向けられたものだ。


初奈は俯いたままステージを降りた。


---


控え室に戻ると、初奈は壁にもたれて座り込んだ。膝のストッキングが破れて、うっすらと擦り傷ができている。でも、そんな痛みはどうでもよかった。


(三回も)


三回も転んだ。初めてのステージで。デビュー前の大切な発表会で。ぼたんとるるかの足を思い切り引っ張ってしまった。


涙が込み上げてきて、止められなかった。初奈は顔を覆って、声を押し殺して泣いた。


「初奈」


しばらくして、ぼたんが控え室に入ってきた。その後ろに、るるかもいる。初奈は顔を上げられなかった。


「……ごめんなさい。ごめんなさい。私のせいで、ふたりのステージを台無しにしてしまって」


「台無しじゃねえよ」


ぼたんの声は、意外なほど穏やかだった。


「誰だって初めては失敗する。オレだって、初めてのバレエの発表会で転んだ。三回どころじゃねえ、五回だ」


「……ぼたんさん」


「それに、転んでもちゃんと立ち上がって、最後まで歌い切った。それだけで十分だ。なあ、るるか先輩」


「ええ、そうよ」


るるかが初奈の隣にしゃがみ込み、そっと背中を撫でた。


「初奈ちゃん、あなたが最後まで歌い続けたから、私たちも最後まで踊れたの。それにね、お客さんの中には、あなたの頑張る姿を見て、逆に応援したくなった人もいたはずよ。アイドルは、完璧なだけが魅力じゃないんだから」


「……でも」


「でももだがも、ねえ」


ぼたんが初奈の頭にポンと手を置いた。


「反省はしろ。でも、くよくよするのは今日までだ。明日からまた練習すりゃいい。オレたちはまだ始まったばかりなんだ」


「……っ」


初奈はようやく顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃの顔を、二人は笑わずに見ていてくれた。


「ありがとう、ございます……っ」


「ほら、涙ふけ。せっかくの衣装が台無しだ」


「うふふ、私、楽しかったわよ。初めての三人のステージ。失敗も含めて、きっと忘れられない思い出になる」


るるかの言葉に、初奈は涙をぬぐいながらうなずいた。悔しさは消えない。でも、二人が隣にいてくれることが、何よりの救いだった。


疲れた。体も心も、ぐったりとしていた。


でも。


(楽しかった)


確かに、それも本当だった。ステージの上で感じたスポットライトの熱さも、音楽に包まれる感覚も、客席のざわめきも。すべてが、初めての経験だった。失敗しても、それでも「また立ちたい」と思った。


---


イベントが終わり、客席と出演者の交流会が始まった。いわゆる特典会で、研修生たちはそれぞれのブースで来場者と挨拶を交わす。


初奈はまだ目が赤かったが、精一杯の笑顔を作ってブースに立った。目の前には、中年のファンが数人。みな温かい言葉をかけてくれた。


「さっきは大変だったね。でも、頑張ってる姿がよかったよ」


「ありがとうございます」


初奈が頭を下げていると、列の最後尾に、妙なものを見つけた。


(……あ)


ぼさぼさの髪。黒縁のメガネ。学ラン姿の少年。


間違いない。あの日、先輩のライブを見学したときに客席にいた男の子だった。また誰かに無理やり連れて来られたらしく、列の前の方に立つ中年男性の背中に隠れるようにして、所在なさげに立っている。今日もサイリウムを渡されていたが、やはり振り慣れていないのか、ぎこちなく手に持っているだけだった。


(また来てる)


初奈がそう思った、その瞬間だった。


少年が顔を上げた。


黒縁メガネの奥の瞳が、まっすぐに初奈を捉える。


一瞬だけ、目が合った。時間にすれば一秒にも満たなかっただろう。少年は慌てて視線をそらし、手に持ったサイリウムを落としそうになって、あたふたと拾い上げていた。


(……あの目)


なぜかわからない。でも、その一瞬が、初奈の胸の奥にすとんと落ちてきた。メガネの奥の瞳は、真面目そうで、それでいてどこか必死で。ライブ慣れしていないのに、それでもここに来ている。誰かに連れて来られただけかもしれないけど、それでも逃げ出さずにいる。


初奈はふと、五歳の夏の日を思い出していた。庭で歌っていたとき、塀の向こうから拍手をくれたあの男の子。


顔は覚えていない。声も思い出せない。


(まさか、ね)


ありえない。ただの偶然だ。初奈はそう自分に言い聞かせて、次のファンに笑顔を向けた。


でも、その夜、布団に入ってからも、なぜかあの一瞬の視線が頭から離れなかった。


---


【初奈の日記】


今日はたくさんの「初めて」がありました。


ぼたんさんとるるかさんと、生まれて初めてゲームセンターに行きました。UFOキャッチャーでぬいぐるみをいただいたり、プリクラを撮ったり、太鼓を叩いたり。どれも初めてで、戸惑うことばかりでしたが、とても楽しかったです。放課後に友達と遊ぶという、普通の女の子なら当たり前にしていることを、私は十六歳になるまで知りませんでした。お二人が私を「普通」の場所に連れ出してくれることが、何より嬉しいです。


そして、初めてのステージ。


結果は、三回も転んでしまうという、最悪のものでした。今思い出しても、申し訳なさと恥ずかしさで消えてしまいたくなります。それでも、ぼたんさんは「誰だって初めては失敗する」と言ってくれました。るるかさんは「最後まで歌い切ったことが大切」と言ってくれました。悔しさはまだありますが、それでも「また立ちたい」と思えたのは、お二人がいてくれたからです。


ステージは、怖かったけれど楽しかった。初めての景色でした。いつかこの場所で、たくさんの人に歌を届けられるように、もっと練習します。


それから、もう一つ。


客席にあの少年がいました。前回、先輩のライブで見かけた、学ランの男の子です。今日も誰かに連れて来られたようでしたが、一瞬だけ目が合いました。ほんの一瞬です。なのに、どうしてでしょう。胸の奥がざわついて、あの日のことを思い出しました。庭で歌った五歳の夏の日。塀の向こうから拍手をくれた、顔も名前も知らない誰か。


まさか、そんな偶然があるわけないのに。私は何を考えているのでしょう。


きっと、疲れているのだと思います。今日はもう眠ります。おやすみなさい。

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