三人の行方
---
十月のある金曜日、ルミナスプロダクションの大会議室に第七期研修生が集められた。三十人いた同期は、九月の評価審査で二十人に減っていた。空いたスペースがやけに広く感じられ、ざわつく声も前回よりずっと少ない。
初奈は壁際でぼたんと並んで立ち、壇上のプロデューサーを見つめていた。五十嵐トレーナーの隣に立つのは、若い女性プロデューサーの九条玲子。入社七年目で、これまでにいくつかのグループをデビューに導いてきたやり手だという噂だった。
「今日は重要な発表がある」
九条は手元の資料に目を落とさず、まっすぐに研修生たちを見渡した。
「第七期のデビュー計画が正式に決定した。デビューは来年四月。それまでに、選抜されたメンバーでユニットを結成し、本格的なプレデビュー活動に入る。ついては、選抜メンバーを発表する」
空気が張り詰めた。誰もが息を呑む。初奈は無意識に、自分の手をぎゅっと握りしめていた。
「櫻坂初奈」
名前を呼ばれて、心臓が大きく跳ねた。
「百合咲ぼたん」
隣で、ぼたんが小さく息を吐く。
「そして第六期から、神崎るるか。この三名で、新ユニットを結成する」
うそ、という声が誰かから上がった。嫉妬と羨望が混ざった視線が、一斉に初奈たちに突き刺さる。
「三名はこれより、プレデビューユニット『ルナシエル』として活動を開始する。他の研修生にもチャンスはある。諦めずに励むように」
九条は淡々と言い放ち、それだけ伝えると会議室を出ていった。
残された研修生たちのざわめきが、しばらく部屋の中を渦巻いていた。
---
「やったな」
廊下に出て、最初に声を発したのはぼたんだった。普段と変わらないクールな口調だが、その目はいつもより少しだけ輝いている。
「ぼたんさん、おめでとうございます」
「あんたもな。……それに、るるか先輩も」
「うふふ、ありがとう」
るるかはいつもの柔らかい笑顔で、二人の肩をそっと抱き寄せた。
「三人でユニットだなんて、夢みたいね。私、同じ第六期のみんなと組むんだと思ってたから、すごく嬉しい」
「オレも、まさか三人一緒とは思わなかった。普通は同期同士で組ませるもんだろ。なんでるるか先輩が入ってるんだろうな」
「年齢バランスじゃないかしら。初奈ちゃんとぼたんちゃんだけだと、ちょっと大人っぽさが足りないでしょう?」
「なるほど。まあ、るるか先輩が一緒なら心強い」
「あらあら、素直ね」
初奈は二人の会話を聞きながら、手の震えが止まらないのを感じていた。
嬉しかった。信じられない気持ちでいっぱいだった。三ヶ月前、何もできずにオーディションを受けた自分が、まさかデビューできるなんて。
(お母様……私、デビューします)
心の中でそう呟いた。でも、喜びと同じだけ、不安も胸の奥で渦を巻いていた。
---
プレデビュー活動は、初奈の想像を遥かに超える過酷さだった。
通常のレッスンに加えて、オリジナル曲のレコーディング、衣装合わせ、プロモーション写真の撮影、そして初のメディア出演に向けた特訓。スケジュールは分刻みで埋まり、学校が終わると同時にスタジオに駆け込み、終電間際まで歌い続ける日々が続いた。
十一月に入り、スタジオの空気はこれまで以上に張り詰めていた。初めての振付師を招いての本格的なダンスレッスン。課題曲は『星空のプロローグ』。来春のデビューシングルになる予定の、アップテンポで可愛らしい曲だった。
「はい、ストップ」
振付師の須藤が、鋭い声で音楽を止めた。四十代の男性で、数々の有名アイドルの振り付けを手がけてきた業界の重鎮だ。
「初奈、テンポが遅れてる。サビの頭、もっとキレを出して。腕の角度、さっきも言ったはずだ」
「……はい、すみません」
「ぼたんは問題ない。るるかも、もう少し表情を作れるな」
「はい」
「わかりました」
ぼたんは涼しい顔で、るるかも落ち着いた様子でうなずく。二人とも、指摘された箇所をすぐに修正できる実力があった。でも、初奈だけは違った。
「じゃあ、もう一度。頭から」
音楽が再び流れる。初奈は必死に食らいついた。振りは頭に入っている。家でも鏡の前で何度も練習した。なのに、いざ本番になると体が硬くなる。肩に力が入り、手足がもつれる。何より、隣で踊るぼたんの完璧な動きを見てしまうと、自分の下手さが余計に際立って感じられた。
「初奈、また遅れてる。集中しろ」
「……っ」
「今日はここまで。各自、明日までに修正してこい」
須藤は時計を見て、淡々と言った。レッスン時間はまだ十分残っている。それでも打ち切られたのは、初奈のせいだった。
初奈は床に手をついて、荒い息を繰り返した。汗が顎から滴り落ちる。鏡に映る自分の姿が、ひどく惨めに見えた。
「初奈」
ぼたんがタオルを差し出してくる。
「……ありがとう」
「気にすんな。新しい振り付けは誰だって最初はできねえ」
「でも、ぼたんさんは最初からできてました」
「オレはバレエを十年やってる。できて当たり前だ」
その言葉は慰めだったけれど、余計に胸が痛んだ。ぼたんは「当たり前」と言うけれど、初奈にはその「当たり前」の土台がない。スタートラインが違いすぎる。
「初奈ちゃん、飲み物いる?」
るるかがペットボトルを差し出してくれた。初奈はそれを受け取り、一口だけ口に含む。冷たい水が喉を通っていく感覚だけが、妙に遠く感じられた。
「ありがとう、るるかさん。……少し、外の空気を吸ってきます」
「大丈夫? 付き合おうか」
「大丈夫です。すぐ戻りますから」
初奈は二人に背を向けて、スタジオを出た。
---
屋上への階段に座り込んで、初奈は膝を抱えた。
十一月の夜風が冷たい。汗で濡れた肌に容赦なく吹きつけて、体温を奪っていく。でも、今はこの冷たさがありがたかった。
(私だけ、できてない)
ぼたんはダンスも歌も完璧だ。少し前まで「まだまだ」と言っていたのに、プロの振付師が一目置くレベルまで上達している。
るるかは表現力がずば抜けていた。歌の技術はもちろん、カメラの前での立ち居振る舞い、表情の作り方、すべてが初奈より何段階も上にいる。すでにソロでメディア出演の経験があるだけのことはある。
(私は)
歌はまだまだ発展途上。ダンスに至っては、基礎から何から二人に遠く及ばない。せっかくデビューが決まったのに、自分の実力不足で二人の足を引っ張っている。そう思うと、胸がぎゅうっと締めつけられた。
「こんなところにいた」
顔を上げると、ぼたんが階段の下から見上げていた。いつの間にか来ていたらしい。
「ぼたんさん……見つかってしまいましたね」
「当たり前だ。あんた、隠れるの下手すぎ」
ぼたんは階段を上がってきて、初奈の隣にどっかりと腰を下ろした。
「悩んでんのか」
「……はい」
「だろうな。顔に書いてある」
「そんなにわかりやすいですか」
「ああ。『私だけできてない』って顔だ」
図星だった。初奈は言葉に詰まり、膝を抱える腕に力を込めた。
「ぼたんさんは、悩んだりしないんですか」
「悩む。当たり前だ。オレだって、前はバレエとアイドルダンスの違いに戸惑ったし、歌もずっとクラシックの発声だったからポップスの歌い方に慣れるまで苦労した。でも、悩んでる時間がもったいねえから、体を動かすようにしてる」
「……強いですね、本当に」
「強くなきゃやってらんねえだろ。この業界、弱いやつから食われていく」
ぼたんは夜空を見上げて、ふうと白い息を吐いた。
「でもな、初奈。お前はお前のペースでいいんだよ」
「私のペース……」
「ああ。お前はオレやるるか先輩とは違う。歌もダンスも、技術じゃ追いつかなくても、お前にしか出せねえもんがある。オレはそう思う」
「お前にしか出せないもの、ですか」
「声だ。あんたの声は、なんつうか、耳に残る。オレは技術で正確に歌えるけど、あんたの声には何かがある。初めて会った時にも言っただろ。天性のものだって」
初奈は目を見開いた。
確かに、オーディションの時にぼたんはそう言ってくれた。でもそれは、初奈があまりにも下手だったから、何か一つでも褒めようとしてくれたのだと思っていた。本気で言っていたなんて。
「それと、あれだ」
「あれ?」
「お前が歌うと、なんか泣ける」
「泣ける?」
「オレは泣かねえけどな。でも、なんつうか、胸がきゅうってなる。多分それは、お前が誰かのために本気で歌ってるからだ。技術じゃ補えねえ、そういうのがお前にはある」
ぼたんは立ち上がり、スカートの裾をはたいた。
「だから、くよくよすんな。お前はお前のやり方で、できることを増やしていけ。オレとるるか先輩は、その間くらい支えてやる。ユニットなんだから、それくらい当たり前だろ」
「ぼたんさん……!」
「ほら、戻るぞ。風邪ひく」
「……ありがとうございます」
初奈も立ち上がり、涙をぬぐった。こんなに不器用なのに、こんなに優しい人がいるだろうか。
「あとで自主練付き合え。サビの頭、もう一度やるぞ」
「はい。よろしくお願いします」
二人は並んで階段を下りた。
---
翌日から、初奈はこれまで以上に自主練に打ち込んだ。
朝は誰よりも早くスタジオに入り、鏡の前で基礎練習を繰り返す。昼休みには、学校の空き教室でこっそり振り付けの確認。夜はぼたんと一緒に、納得がいくまで同じフレーズを繰り返した。
「腕、まだ甘い」
「こうですか」
「そう。その角度でキープ。三、二、一。よし、できてるじゃねえか」
「ぼたんさんのおかげです」
「当たり前だ。感謝しろ」
そんなある日の午後。個人レッスンの時間に、五十嵐トレーナーが初奈を呼び止めた。
「櫻坂、ちょっと歌ってみろ。課題曲のサビだけでいい」
「はい」
初奈は姿勢を正し、息を吸い込んで歌い始めた。
『星空のプロローグ』のサビは、希望に溢れたメロディラインが特徴だ。駆け上がるような高音と、そこからストンと落ちる優しいフレーズ。
歌い終わると、五十嵐は腕を組んだまましばらく沈黙していた。
「……五十嵐さん?」
「お前、成長したな」
「え」
「声の通り道が変わった。無理に喉で押さなくなったぶん、本来の声質が出てきてる。元々いい声は持ってたが、ここ一ヶ月で土台ができた感じだ。レッスン以外でも相当練習したんだろう」
「は、はい。毎日、自主練を」
「それが実を結んだんだ。いいぞ、その調子で続けろ。ダンスも、まだ粗削りだが、前よりずっとリズムに乗れるようになってる。須藤先生も言ってたぞ、『初奈は伸びしろが大きい』ってな」
初奈は胸が熱くなるのを感じた。伸びしろ。それは裏を返せば、まだまだ未熟だということだ。でも、それを「可能性」と言ってもらえたことが、何よりも嬉しかった。
「ありがとうございます。これからもっと頑張ります」
「ああ。だが、無理はするなよ」
五十嵐はそう言って、めずらしく笑った。
---
十一月も終わりに近づいたある日のこと。三人はスタジオ近くのいつものカフェに集まっていた。窓際の席。初奈はミルクティー、ぼたんはアイスコーヒー、るるかはカモミールティー。湯気の向こうで、るるかが嬉しそうにスマートフォンの画面を見せてくる。
「ねえ見て、衣装のラフデザインが届いたわ」
「わあ……!」
初奈は思わず声を上げた。
三着の衣装は、白を基調に、アクセントカラーが三人それぞれ違う。るるかは大人っぽいラベンダー。ぼたんはクールなサックスブルー。初奈の衣装は淡い桜色。レースとフリルがあしらわれた姫系のロングスカートで、肩や背中の露出はない。要望をきちんと汲んでくれたらしい。
「初奈ちゃんの、とても可愛いわね。桜色がよく似合ってる」
「るるかさんも素敵です。ラベンダー、大人っぽくて」
「うふふ、ありがとう。ぼたんちゃんのブルーもかっこいい」
「オレは別に、なんでもいい。動きやすければ」
「またそういうこと言う」
るるかが笑い、初奈もつられて笑った。
こうして三人でいると、不安も疲れも少しだけ和らぐ。初奈はカップを両手で包みながら、しみじみと思った。
「あの、お二人に伝えたいことがあります」
「なんだ、改まって」
「私、最近までずっと悩んでいました。自分だけ実力が足りなくて、お二人の足を引っ張ってしまうんじゃないかって。でも、先日ぼたんさんに言われて気づいたんです。私は私のままでいいんだって。できることを、少しずつ増やしていけばいいんだって」
ぼたんは照れくさそうにそっぽを向き、アイスコーヒーをストローでかき混ぜた。
「……別に、大したことは言ってねえ」
「うふふ、ぼたんちゃん、耳が赤い」
「うるせえです」
初奈は笑いながら、続けた。
「私の歌が誰かに届くまでには、まだ時間がかかると思います。でも、いつか必ず届けたい。私にしかできない歌で。それまで、お二人の隣にいさせてください」
「当たり前だろ」
ぼたんが顔を上げた。
「ユニットなんだ。これからも一緒にやっていくに決まってる」
「私からも、お願いしていいかしら」
るるかがそっと手を伸ばして、初奈の手を両手で包み込んだ。
「私ね、実はずっと寂しかったの。先輩としてしっかりしなくちゃって、誰にも弱音を吐けなくて。でも、あなたたちと一緒にいると、素の自分でいられる。私の方こそ、隣にいさせてほしい」
「るるかさん……」
「なんだかんだ、いいチームだよな、私たち」
ぼたんが少しだけ口元を緩めて言った。
「ぼたんさんが素直だ」
「初奈、お前な」
「うふふふ」
三人の笑い声が、小さなカフェの片隅に響いた。
窓の外では、いつの間にか雪がちらつき始めている。今年初めての雪だった。
デビューまで、あと四ヶ月。
まだ何も始まっていない。これからが本当の勝負だ。怖くないと言えば嘘になる。
でも。
(ひとりじゃない)
それだけで、不思議と勇気が湧いてきた。
---
【初奈の日記】
デビューが正式に決まりました。
ぼたんさん、るるかさんと三人でのユニット『ルナシエル』。夢みたいな響きです。ユニット名には「月の空」という意味があるそうです。暗い夜を照らす月のような存在になってほしい、という願いを込めてプロデューサーが名付けてくれたと聞きました。
ですが、それと同時に、自分の実力不足を痛感する日々が続いています。ダンスでは二人に遠く及ばず、歌もまだまだ。レッスンで注意されるのはいつも私ばかりで、情けなくなることもあります。
先日、ぼたんさんが言ってくれました。「お前はお前のペースでいい」「お前にしか出せないものがある」と。涙が出ました。あの人は多分、自分で思っているよりずっと優しくて、誰よりも仲間を大事にする人です。
るるかさんも、自分の弱さを打ち明けてくれました。ずっと寂しかったと。先輩としてではなく、一人の女の子として私たちに寄り添ってくれる姿に、胸が熱くなりました。
私は、できることを少しずつ増やしていくしかありません。まだまだお二人の足を引っ張ってしまうけれど、それでも隣に立たせてもらえるなら、精一杯頑張ります。
お母様。あなたがくれた歌を、私はまだ上手に歌えていません。でも、この声はきっと、誰かに届くと信じています。
世界を美しく見せてくれる『貴方』に、いつかきっと。




