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淡い記憶、遠い拍手



---


夢を見た。


遠い、遠い夏の日。緑の匂いが濃くて、陽射しがやけに眩しくて、母がまだ笑っていた頃。


五歳の初奈が、広い庭の片隅に立っている。誰にも見つからないようにと、大きな椿の木の陰に隠れて。白いワンピースの裻を両手で握りしめ、おそるおそる口を開く。


母がよく歌っていた子守唄。初奈はその歌が大好きだった。歌っていると、母が隣にいるような気がしたから。


小さな声で、でも確かに、初奈は歌った。風が葉を揺らし、陽だまりが足元で揺れている。誰もいないと思っていた。誰にも聞こえないと思っていた。


なのに。


歌が終わる少し前、塀の向こうから拍手が聞こえた。


初奈は驚いて歌を止めた。心臓がドキドキして、逃げようかどうしようか迷った。でも、その拍手があまりにも優しかったから。それに、手拍子まで聞こえてきたから。


(聴いていてくれるんだ)


五歳の初奈は、もう一度息を吸って、歌を続けた。今度はさっきより少しだけ大きな声で。手拍子は初奈の歌に合わせて、少しずつリズムを覚えていくように、たどたどしく続いていた。


歌い終わる。一拍の静寂。


『ありがとう!』


塀の向こうから飛び込んできたのは、男の子の声だった。少し掠れていて、それでいて嬉しそうで、弾むような声。


初奈はおかしくなって、クスクスと笑った。誰かに歌を聴いてもらえたこと。そして、「ありがとう」と言ってもらえたこと。生まれて初めての、小さな幸福感だった。


『誰と話しているんだ』


突然、父の怒鳴り声がした。初奈はびくりと肩を震わせる。庭に飛び出してきた父は、塀の向こうに向かって何か怒鳴り、それから門の方へ走っていった。外からは、慌てて逃げていく足音が聞こえた。


初奈はその場に立ち尽くした。もう拍手も、手拍子も、「ありがとう」も聞こえない。


追い払われてしまった。せっかく、私の歌を聴いてくれた人だったのに。


顔は、見えなかった。


どんな子だったのか、今でもわからない。


ただ。


あの拍手だけは、今も耳の奥に残っている。


---


九月。


ルミナスプロダクション第七期研修生、第一回評価審査の結果が発表された。


スタジオの掲示板に張り出された合格者一覧。初奈は自分の名前を見つけて、その場にしゃがみ込みそうになった。


「受かってる」


「当たり前だろ」


すぐ後ろで、ぼたんがふんと鼻を鳴らした。彼女の名前も無論ある。


「ぼたんさんも、おめでとうございます」


「オレは通過点だ。こんなところで落ちるわけがねえ」


「初奈ちゃん、ぼたんちゃん、おめでとう」


るるかが柔らかい笑顔で歩み寄ってくる。彼女は第六期の審査も当然のように通過していた。


「るるかさんもです。これで三人とも合格ですね」


「ええ。頑張ったものね。今日はお祝いがてら、先輩たちのライブを見に行かない?」


「先輩のライブ?」


「ルミナスの第四期生で、もうデビューしているグループがあるの。今日は小さなライブハウスで公演があるから、勉強がてら見に行こうと思って」


「いいな、行く」


ぼたんが即答した。初奈も二つ返事でうなずく。


---


ライブハウスは都内の下町、商店街の一角にあった。


ルミナスの看板を背負っている割にはこぢんまりとした箱で、キャパシティは二百人ほど。にもかかわらず、客席は七割方埋まっている。デビューして二年、着実にファンを増やしているグループだという。


開演前、三人は関係者席の端に並んで座った。


「お客さん、結構入ってるんですね」


初奈が周囲を見渡すと、るるかがうなずいた。


「第四期生の『スイートパレット』。先輩たちはもうワンマンができるくらい人気なのよ。私たちも、まずはここを目指さなくちゃ」


「ふうん」


ぼたんはすでに腕を組んで、ステージをじっと見つめている。その目は値踏みするような、厳しいものだった。


やがて客席の照明が落ち、ステージに眩い光が走った。五人の少女がせり上がってくる。揃いのパステルカラーの衣装。髪をなびかせ、笑顔を振りまく。会場が一斉に沸いた。


(すごい)


初奈は目を奪われた。あの学園祭で見たアマチュアのステージとは違う。洗練されたダンス、計算されたフォーメーション、耳に心地よいハーモニー。これがプロのアイドル。これが、自分の目指す場所。


「……レベル低いな」


ぽつりと、ぼたんが呟いた。


「え」


「ダンスのキレが甘い。歌も、安定してるようで高音がぶれてる。振り付けは悪くねえけど、揃ってねえところが何度もある。これで二年目かよ」


「ぼたんさん、声が大きいです」


「事実だ。これでプロとして金を取ってると思うと、正直ガッカリだ」


ぼたんは本当に退屈そうだった。でも、それだけ真剣に見ているということでもある。初奈は黙ってステージに視線を戻した。ぼたんの言う欠点は、初奈にはまだよくわからなかった。それだけ自分は未熟なのだと、思い知らされる。


そんな中、初奈はふと客席に目を向けた。


熱気に包まれたフロア。サイリウムの光が波のように揺れている。最前列では、タオルを掲げて声を枯らすファン。そのほとんどが中年の男性だった。スーツ姿の会社員らしき人、少し疲れた顔の中年、カメラを構えた大柄な男性。


「……男の人ばかりですね」


「そうだな。あれが所謂オタクってやつだ」


ぼたんが淡々と説明する。


「オタク、ですか」


「アイドルヲタク。CDを何枚も買って、ライブに通って、物販で何時間も並ぶ。あの人たちが、アイドルの主な収入源だ。まあ、感謝はしてるけどな」


ぼたんの言い方はドライだったが、そこにはしっかりと現実を見据える目があった。


「うふふ、ぼたんちゃんはもうビジネスのことまで考えてるのね」


「当たり前だ。夢だけじゃ食えねえからな」


初奈はもう一度客席を見渡した。サイリウムの海。熱気。歓声。みんな、このステージの上に何かを見出している。癒しか、憧れか、あるいは青春のやり直しか。


それは、初奈が母の遺言で考えている「世界が美しく見える瞬間」に、少し似ているかもしれない。誰かが誰かの世界を照らしている。それは恋愛だけじゃなくて、こういう形もあるのだと、今更ながら気づいた。


その時だった。


客席の端に、妙なものを見つけた。


サイリウムの海の中で、一人だけ、明らかに浮いている存在がいた。


少年だった。初奈と同じくらい、十五か十六か。ぼさぼさの髪に、黒縁のメガネ。服装は学ランで、この会場にいるのが場違いなくらい真面目そうな雰囲気をまとっている。手にはサイリウムを持っているが、振り方がぎこちない。周りのオタクたちのように、リズムに乗って自在に動かすというより、必死に周りに合わせようとしている感じだ。


「ぼ、僕こういう場所初めてだから……」


メガネの少年が、隣の中年ファンに何やら謝っているのが微かに聞こえた。周りのオタクたちはベテランらしく、「こうやるんだよ」と親切に教えたり、「ちゃんとやるでござるよ」と時代錯誤な口調で注意したりしている。少年は慌ててペコペコ頭を下げていた。


「……真面目そうな人だな」


初奈が思わず呟くと、ぼたんが横から覗き込んだ。


「なんだ、知り合いか」


「いえ、知らない方です。でも、なんだか」


「なんだか?」


「……いえ、なんでもありません」


初奈は言葉を濁した。なぜか、少しだけ気になった。ただそれだけのことだ。なのに、目が離せなかった。


少年は不器用にサイリウムを振り続けていた。ステージの上のアイドルより、その少年のほうが、初奈の目にはなぜか鮮明に映った。


ライブが終わり、三人は会場をあとにした。外はもう夜で、商店街のシャッターが下りた通りを、秋の風が吹き抜ける。


「なかなか勉強になったな」


ぼたんが背伸びをしながら言った。


「何が勉強になったんですか。低レベルだって言ってたのに」


「低レベルなりに、客の掴み方はうまかった。MCの間の取り方とか、客席への目線の配り方とか。あれは見習うべきだ。それに、物販の列の長さを見たか。あれだけ固定ファンがついてるのは素直に認める」


「ぼたんちゃん、今日はちょっと素直ね」


「るるか先輩、オレはいつも素直です」


「うふふ、そうかしら」


初奈は二人のやりとりを微笑ましく聞きながら、ふと足を止めた。


(あの男の子)


なんで気になったのだろう。初めてのライブで緊張している姿が、かつての自分と重なったからだろうか。それとも、何か別の理由があったのだろうか。


「初奈、どうした」


「あ、いえ。少し考え事を」


「変なやつだな」


ぼたんは呆れたように言って、歩き出した。


初奈はもう一度だけ、ライブハウスの方を振り返った。人の波にまぎれて、あの学ラン姿はもう見えない。


(まあいいや)


ただの偶然。たまたま目に留まっただけ。そう自分に言い聞かせて、初奈は二人の背中を追いかけた。


---


その夜、初奈はベッドに入ってからも、なかなか眠れなかった。


頭の中で、今日のライブの光景が繰り返される。サイリウムの海。中年のファンたち。そして、あの少年。


ぼさぼさの髪に、黒縁のメガネ。学ラン。真面目そうな雰囲気。初めての場所で戸惑って、周りに怒られて、それでも必死にサイリウムを振っていた。


(どうして思い出すんだろう)


たったそれだけのことに、なぜか胸の奥がざわつく。


初奈は目を閉じて、夢の続きを思い出そうとした。


五歳の夏の日。庭で歌った子守唄。塀の向こうからの拍手。


顔は見えなかった。


声だけだ。


『ありがとう』


あの声は、どんな声だったか。


高かったか、低かったか。それすらも、今はもう思い出せない。


でも。


(拍手だけは、覚えてる)


あたたかくて、優しくて、初奈の歌をちゃんと聴いてくれた拍手。手拍子までしてくれた。最後に「ありがとう」と言ってくれた。


父が追い払ってしまったけれど、あの拍手だけは、ずっと初奈のなかに残っていた。


もしかしたら。


(私が歌いたい理由の、ひとつなのかもしれない)


誰かに聴いてほしい。


誰かに届けたい。


誰かに「ありがとう」と言ってもらいたい。


五歳のあの日、初めて感じた幸福をもう一度。今度は、もっとたくさんの人に。


初奈はそっと目を閉じた。


いつか、あの拍手の主に会えるだろうか。会えるわけがないと、理性ではわかっている。でも、もし会えたなら。


「その節は、ありがとうございました」


そう言えるだろうか。


想像して、初奈は一人でくすりと笑った。今日のぼたんじゃないけれど、まるでおとぎ話だ。


でも。


(私の歌には、ちゃんと聴いてくれる人がいた)


あの日の拍手。それが、初奈の小さな誇りだった。そして、アイドルを目指すと決めた今も、変わらず自分を支えてくれている。


窓の外を見ると、秋の月が細く光っていた。


---


【初奈の日記】


今日、評価審査の合格が発表されました。ほっとして、その場に座り込みそうになりましたが、ぼたんさんもるるかさんも合格していて、三人で喜び合えたのが何より嬉しかったです。


その後、先輩方のライブを見学に行きました。プロのステージは、学園祭で見たものとはまったく違う、洗練されたものでした。ぼたんさんは辛口の評価をしていましたが、それだけ真剣に見ている証拠だと思います。


客席には、アイドルを応援するオタクの方々がたくさんいらっしゃいました。ほとんどが中年の男性で、サイリウムを振る姿は少し不思議な光景でしたが、でも皆さん本当に楽しそうで、これが誰かの世界を美しくするということなのかもしれない、と感じました。


そんな中で、一人だけ同年代の男の子がいました。学ランを着た、真面目そうな人で、サイリウムの振り方もぎこちなくて。初めての場所で緊張しているのが伝わってきて、なぜだか少しだけ気になりました。どうしてでしょう。自分でもわかりません。


今日はもう一つ、思い出したことがあります。五歳の頃、庭で歌っていたら、塀の向こうから拍手が聞こえて、最後に「ありがとう」と言われたこと。お父様に追い払われて、その人の顔は見えませんでした。でも、あの拍手だけはずっと覚えています。


私が歌いたい理由は、誰かを幸せにしたいから。それは今も変わりません。でも、その根っこには、もしかしたらあの日の拍手があるのかもしれません。誰かに聴いてほしい、届けたい、そして「ありがとう」と言ってもらいたい。五歳の私が感じた、初めての幸福。


いつか私も、誰かにとっての「貴方」になりたい。あの拍手をくれた人に、もし会えることがあったなら、今度は私が「ありがとう」と伝えたい。たとえおとぎ話だと笑われても、それもまた、私の大切な夢です。

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