暖かな日々、冷たい言葉
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七月の終わり、終業式を終えた聖クラウディア女学院には、夏休みの開放感が満ちていた。
「櫻坂さん、成績表もらった? 私は数学がやばくて」
佐伯真由が、渡り廊下を歩きながらため息をついている。
「はい。なんとか、全科目で評定を保つことができました」
「なんとかって、櫻坂さん、また学年十位以内でしょ。私からすれば十分すごいんだけど」
初奈は微笑みながら、内心で安堵の息を吐いていた。正直なところ、今回はぎりぎりだった。レッスンに時間を割かれ、自宅学習の時間が削られる中で、成績を維持するのは想像以上に難しい。試験前の数日間は睡眠時間を削って詰め込み、なんとか及第点に滑り込んだというのが実情だ。
「私は本当に褒められたものじゃなくて。家の者にも、もう少し頑張るよう言われています」
「えー、厳しいね。まあ櫻坂家は代々優秀なんでしょ。お父様も政治家だし」
「……はい」
初奈は曖昧にうなずいた。父はこの成績表を見ても、特に何も言わないだろう。むしろ、娘が品行方正に学業に励んでいることを当然と思っている節がある。疑われる心配はないが、それはそれで胸が痛んだ。
「そういえば、夏休みはどうするの? 軽井沢の別荘とか行く?」
「今年は少し、家の用事が多くて。遠出は難しいかもしれません」
「そっか。お母様の法要とかあるもんね」
「……ええ」
違う。夏休みこそ、レッスンに集中するチャンスだった。普段より長くスタジオにいられる。ぼたんやるるかと過ごす時間も増える。それを思うと、胸が躍る自分がいた。
(嘘を重ねるのは、つらい)
でも、それ以上に、ステージに立ちたいという気持ちが勝っていた。
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七月最後の金曜日、初奈はスタジオに足を踏み入れて、すぐに違和感を覚えた。
普段は静かな廊下に、研修生たちがざわざわと集まっている。第七期の同期はもちろん、第六期、第五期の先輩たちまで。初奈が知っている顔も、知らない顔も、みんな同じ方向に向かって歩いている。
「初奈、こっちだ」
ぼたんが壁際から手招きしていた。隣にはるるかもいる。
「ぼたんさん、るるかさん。これは、一体」
「緊急の集合がかかったんだよ。社長が直々に挨拶するんだと」
「社長、ですか」
ルミナスプロダクションの社長。初奈は名前しか知らなかった。創業者であり、数々のトップアイドルを生み出してきた伝説的なプロデューサー。ただ、普段は研修生の前に姿を現すことはほとんどないという。
「なんで急に」
「さあ。でも、何かあるんだろうな」
ぼたんの表情は少し硬かった。るるかもいつもの笑顔を引っ込めて、真剣な目で人々の流れを見つめている。
研修生たちは全員、ビルの最上階にある大会議室に集められた。五十人近い少女たちが、壁際にずらりと並ぶ。空調は効いているのに、人の熱気でむんやりと暑かった。
やがて、前方の扉が開いた。
入ってきたのは、初老の男性だった。白髪交じりの髪をオールバックに撫でつけ、仕立ての良いスーツを着こなしている。眼光は鋭く、皺の刻まれた顔には一切の無駄な表情がない。
「全員、揃っているな」
声は低く、よく通った。ざわめきが一瞬で消える。
「私がルミナスプロダクション代表取締役、神宮寺啓介だ。諸君の顔を見るのは久しぶりだな。第五期、第六期、そして第七期。今日は伝えておきたいことがあって集まってもらった」
神宮寺社長は壇上に立ち、冷たい目で研修生たちを見渡した。一人ひとりの顔を品定めするような視線。初奈はその目に見つめられたとき、背筋がすっと冷えるのを感じた。
「単刀直入に言う。今年度の研修生のうち、来春までにデビューできるのは、多くても三名。それ以外は全員、契約を解除する」
ざわり。
部屋の空気が揺れた。誰かが息を呑む音が聞こえる。
「ルミナスは慈善事業ではない。売れる見込みのない人間に、いつまでも投資はできない。諸君はこれから三ヶ月ごとの評価審査を受け、そこで基準に達しなければ即座に契約を切られる。覚悟しておくように」
冷たい。あまりにも冷たい言葉だった。
「私はアイドルを、商品として見ている」
神宮寺は淡々と続けた。
「市場価値のある商品だけが、この業界で生き残る。歌が上手いだけでは駄目だ。ダンスができるだけでも足りない。可愛いだけでも不十分。それらすべてを兼ね備え、なおかつ大衆に消費される魅力がなければアイドルとして成功しない。私はその視点でのみ、諸君を評価する。夢だの努力だの、そういう綺麗事で飯は食えん。この現実を、今日ここでしっかりと胸に刻んでおけ」
初奈は手のひらをぎゅっと握りしめていた。
(商品)
自分がそう呼ばれたことに、怒りよりも先に悲しみが込み上げてきた。あの学園祭で見たアイドルたちは、商品なんかじゃなかった。必死で、不器用で、それでも誰かに届けたくて歌っていた。
でも、この人にとっては、それもすべて「商品のパフォーマンス」でしかないのだろうか。
「以上だ。各自、レッスンに戻れ」
神宮寺は言うだけ言って、さっさと会議室を出ていった。後に残された研修生たちは、しばらく誰も口を開けなかった。
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「最悪だな」
廊下に出て、最初に口を開いたのはぼたんだった。
「商品、ね。あそこまで言われるとは思わなかった」
「うふふ……まあ、社長はずっとああいう方だから」
るるかが苦笑いを浮かべて言った。初奈は驚いて彼女を見る。
「ご存じだったんですか」
「ええ、前に一度だけお話ししたことがあるの。あの方は筋金入りの合理主義者で、感情で動くことは決してない。でも、ルミナスがこれだけ大きくなったのは、間違いなく社長の手腕のおかげでもあるのよ」
「それでも、です」
初奈は唇を噛んだ。まだ胸の奥がざわついている。
「私たちは商品じゃありません。一人ひとり、大切な理由があってここにいるのに」
「初奈ちゃん」
るるかがそっと初奈の肩に手を置いた。
「あなたのその気持ち、とても大切だと思うわ。でもね、社長の言っていることも、残念だけど一面では正しいの。この業界は厳しい。夢だけでは食べていけない。私も、それを嫌というほどわかってる」
るるかの声には、諦観のようなものが滲んでいた。初奈は何か言おうとして、やめた。るるかの言葉には、初奈がまだ知らない重みがあった。
「オレは」
ぼたんが壁を軽く蹴った。
「オレは、認めさせる。商品でも何でもいい。結果を出して、実力で見返してやる。そうすれば、少なくともオレの価値は自分で決められる」
「ぼたんさん……」
「初奈、お前もだ。お前は多分、こういうのに傷つくタイプだろ。でも、傷ついてる暇があったらレッスンしろ。下手くそなままじゃ、あの社長に何言われても言い返せねえ」
「はい」
初奈はうなずいた。ぼたんの言うことは正しい。傷ついているだけでは何も変わらない。変えたいなら、実力をつけるしかない。
「よし、じゃあ今日もやるか。るるか先輩もどうすか」
「ええ、もちろん。私も混ぜてくれる?」
「断る理由がねえ。むしろ教えてください」
「うふふ、わかったわ。じゃあ今日は三人でみっちりね」
るるかがぱん、と手を叩いた。その明るさに救われて、初奈の心も少しだけ軽くなる。
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それから二週間、三人で過ごす時間はどんどん増えていった。
レッスンが終われば、三人でスタジオに残って自主練をする。るるかが歌の指導をしてくれて、ぼたんがダンスのコツを教えてくれる。初奈はそのどちらも必死に吸収しようと食らいついた。
「初奈ちゃん、そのフレーズはもっと息を長く使うの。お腹から声を押し出すように」
「こうですか」
「そうそう、上手くなったわね。うふふ、筋がいい」
「初奈、腕の角度。もっとこう、斜めに。客席からはそう見えるんだ」
「こう、ですか」
「違う。こうだ。手首のスナップを意識しろ」
「ふたりとも、ちょっと休憩にしない? 私、今日はクッキーを焼いてきたの」
るるかが紙袋から取り出したのは、星形のバタークッキーだった。サクサクとした食感と、ほんのり甘い香りがスタジオに広がる。
「うま」
ぼたんが目を丸くした。普段はクールな彼女が、クッキーを頬張って素に戻っている。
「おいしいです、るるかさん。これ、手作りですか」
「ええ。寮のキッチンを借りてね。夜中にこっそり焼くのが趣味なの」
「また作ってきてください」
「あら、ぼたんちゃんに頼まれるなんて珍しい。うふふ、いいわよ。今度はチョコチップにする?」
三人で床に座り込んで、クッキーを食べながら水を飲む。窓の外はもう暗くて、スタジオの蛍光灯だけが白く光っている。
(幸せだ)
初奈はふとそう思った。学校とレッスンと家との三重生活は変わらずハードだったし、成績を保つのも毎回綱渡りだ。社長の冷たい言葉も、まだ心のどこかに棘のように刺さっている。それでも、この時間が何よりの支えだった。
「そういえば、初奈ちゃん」
るるかがクッキーを齧りながら言った。
「前に少し話してくれたわよね。誰かにとっての『貴方』になりたいって」
「はい。母の遺言で、『貴方に出会えて良かった、この世界が美しく見えるから』って。私、その言葉の意味をずっと考えていて。私も誰かにそう思ってもらえる存在になりたいんです。それと」
初奈は少しだけ言い淀んだ。
「それと?」
「私自身にとっても、世界を美しく見せてくれるような、そんな『貴方』にいつか出会いたいと思っています。誰かはまだわからないけれど。その人に出会うことが、母の遺言を本当の意味で叶えることになる気がして」
「……なるほどな」
ぼたんが呆れたような顔で天井を見上げた。
「つまり、あれか。運命の王子様でも探してるのか。おとぎ話かよ」
「ち、違います。そういう意味ではなくて」
「何が違うんだよ。世界を美しく見せてくれる『貴方』って、それはもう王子様だろ。シンデレラか白雪姫か知らねえけど、そんなもんいねえって」
ぼたんは容赦なかった。初奈は顔が熱くなるのを感じて、うつむいた。
「……そんなロマンチックなものではないです。ただ、お母様がああ言ってくれたから、私にもきっと、そう思える人がいるんじゃないかって」
「ああもう、真っ赤になってるし。おもしれえ」
「からかわないでください」
「ぼたんちゃん、あんまり虐めちゃだめよ」
るるかがくすくす笑いながら割って入った。
「でも、素敵だと思うわ。誰かを想う気持ちって、それだけで力になるもの。初奈ちゃんは、その『貴方』にまだ出会えていないからこそ、こうして頑張れているのかもしれないわね」
「るるかさん……」
「うふふ、私は応援するわ。初奈ちゃんの『貴方』探し。誰かはまだわからないけれど、きっと素敵な人なんだろうなって思う」
「だーかーら、そういうんじゃなくて」
初奈はますます顔が熱くなり、膝を抱えて小さくなった。
ぼたんはそんな初奈を見て、ふんと鼻を鳴らした。
「ま、どっちでもいいけどな。王子様でもお姫様でも、見つかるといいな。オレはそういうのには興味ねえけど」
「ぼたんさんは、恋愛とか興味ないんですか」
「ねえ。それより母親を楽にさせるのが先だ」
「ぼたんちゃんは本当に親孝行ね」
「うるせえです」
今度はぼたんが照れる番だった。るるかは二人の様子を見て、嬉しそうに笑う。
「ほんと、見ていて飽きないわね、あなたたち。私、こんなに楽しいの久しぶり」
「楽しい、ですか」
初奈が顔を上げると、るるかは優しくうなずいた。
「ええ。ずっと一人でやってきたから。第六期はみんなライバルで、仲良くする余裕もなかった。でも、あなたたちといると、私、すごくほっとするの」
「るるかさん……」
「だから、ありがとう。これからも三人で、いろんなこと話そうね」
るるかの言葉に、初奈もぼたんも自然とうなずいていた。
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自主練が終わり、片付けを始めたときだった。
「そういえば」
るるかがふと思い出したように言った。
「次の評価審査、九月にあるの知ってる?」
「九月ですか」
「ええ。社長が言ってたでしょ。三ヶ月ごとの評価審査。九月が第一回。そこで合格ラインに達しないと、即契約解除。まだ一ヶ月あるけれど、結構みんなピリピリしてるわ」
「……そうか」
ぼたんがタオルで汗を拭きながら呟いた。
「オレは受かってやる。当然だ」
「私もです。絶対に」
初奈も声を重ねた。まだまだ未熟だが、一ヶ月あれば何か変えられるはずだ。
「心強いわ。私も負けていられない。三人で一緒に、評価審査を突破しましょう」
るるかが手を差し出す。ぼたんがその上に手を重ね、初奈もその上に自分の手を乗せた。
「「「頑張ろう」」」
声を揃えて、三人は笑った。
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帰りの電車の中、初奈は窓の外の夜景をぼんやりと眺めていた。
(王子様、か)
ぼたんにからかわれたことを思い出して、まだ少しだけ頬が熱い。
でも、るるかが「素敵だ」と言ってくれた。それが、なぜだかとても嬉しかった。
誰かにとっての「貴方」になること。そして、自分にとっての「貴方」を見つけること。
そのどちらも、まだ遠い夢のようだけど。
(でも、今は)
今は、この日々が宝物だった。ぼたんがいて、るるかがいて。三人で笑い合える時間が、色褪せた世界に確かな色を与えてくれている。
それは恋とか、そういう名前のものではないかもしれない。でも、間違いなく、初奈の世界を少しずつ変えていた。
「次こそ、評価審査を突破する」
小さく呟いて、初奈は電車の揺れに身を任せた。
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【初奈の日記】
今日、ルミナスプロダクションの社長にお会いしました。とても冷たい方で、私たちのことを「商品」としか見ていないようでした。正直、すごく傷つきました。でも、るるかさんの言う通り、あの考え方もこの業界では必要なのだと思います。
私はまだ、理想を追いかけているだけかもしれない。でも、商品じゃない。私は櫻坂初奈で、誰かのために歌いたい。それだけは、誰にも否定されたくありません。
ぼたんさんとるるかさんといると、自分が強くなれる気がします。るるかさんのクッキーはとてもおいしかったし、ぼたんさんの指導は相変わらず厳しいけれど、確実に上達している実感があります。
それから、例の「貴方」の話をしました。ぼたんさんには王子様だとからかわれてしまいましたが、るるかさんは素敵だと言ってくれました。その言葉が、胸の奥であたたかく灯っています。
私はいつか、私にとって世界を美しく見せてくれる「貴方」に出会いたい。それがどんな形の出会いなのかはわからないけれど、この道の先で見つけられると信じています。
まずは九月の評価審査。三人で必ず突破します。




