やわらかなまなざし
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七月。夏休みまであと少しという時期になっても、初奈の毎日は変わらず忙しかった。
朝は六時に起きて、朝食前に一時間の予習と復習。七時半に家を出て、八時半からの授業に臨む。放課後はすぐに制服を脱ぎ捨て、私服に着替えてスタジオへ。二時間のレッスンを終えて帰宅すれば夜の八時。それから夕食と入浴を済ませ、課題をこなして日付が変わる前に眠る。週末は週末で、ぼたんと約束した自主練が待っている。
体は悲鳴を上げていた。学校の授業中、ふとした瞬間に瞼が落ちそうになる。クラスメイトとの昼食の時間も、ついぼんやりしてしまうことが増えた。
「櫻坂さん、最近なんだか疲れてない?」
佐伯真由が心配そうに顔を覗き込んでくる。初奈ははっとして、すぐに微笑みを浮かべた。
「大丈夫です。少し夜更かしが続いていただけで」
「そう? あんまり無理しないでね。櫻坂さん、完璧主義だし」
「ありがとう。気をつけます」
そう答えながら、初奈は内心で苦笑していた。夜更かしではない。むしろ毎日くたくたで、ベッドに入れば数分で眠りに落ちる。ただ、疲れが取れきらないだけだ。
(それでも)
不思議と、苦痛ではなかった。
むしろ、今までの人生で一番充実している。
今までは、ただ何となく流されて生きていた。学園に行き、授業を受け、友人と当たり障りのない会話をして、家に帰る。そこには何の刺激もなく、すべてが灰色だった。
でも今は違う。
レッスンで新しい振り付けを覚えるたび、汗をかくたび、ぼたんに「昨日よりマシだな」と言われるたび、心臓が熱くなる。自分が前に進んでいる実感があった。
母を亡くしてから、ずっと止まっていた時間が、少しずつ動き始めている気がした。
「初奈さん、聞いてます?」
「あ……ごめんなさい。少し考え事を」
「やっぱり疲れてるよ。今日は早く帰って休みなね」
佐伯の優しさに甘えて、初奈は小さくうなずいた。
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その日のレッスンは、ボーカルトレーニングだった。
研修生用のボーカルスタジオは、ビルの六階にある。防音壁に囲まれた小部屋で、グランドピアノと譜面台、それから壁一面の鏡。初奈はこの部屋が少し苦手だった。鏡に映る自分の姿を見ると、まだまだ未熟な自分をまざまざと見せつけられる気がして。
「今日は発声をみっちりやるからな」
担当トレーナーの五十嵐が譜面を広げながら言った。四十代半ばの女性で、元はミュージカル女優だったという。指導は厳しいが、的確で、初奈はこの人のレッスンをいつも楽しみにしていた。
「櫻坂、お前は声質は悪くない。でも腹式呼吸がまだ甘い。息が続かないだろう」
「はい。ロングトーンになると、どうしても最後が揺れてしまいます」
「わかってるならあとは練習だ。今日はこの曲でいくぞ」
五十嵐が譜面を差し出す。課題曲は、有名な女性歌手のバラード。ゆったりとしたテンポの中で、伸びやかな高音を維持するのが難しかった。
初奈は譜面を受け取り、ピアノの伴奏に合わせて歌い始めた。最初のうちは調子が良かったが、サビの高音でやはり息が続かなくなる。
「ほら、そこで腹筋だ。もっと下から持ち上げろ」
「……っ、はい」
言われた通りに力を込めるが、なかなか上手くいかない。喉に力が入ってしまい、声がかすれた。
「だめだ。もう一回」
初奈は唇を噛んだ。何度も繰り返す。三回、四回。五回目でようやく合格が出たときには、もう喉がからからだった。
「よし、今日はここまで。あとは自主練でなんとかしろ」
「ありがとうございました」
初奈は深々と頭を下げて、スタジオをあとにした。
廊下に出ると、壁にもたれてペットボトルの水を飲んでいる人影があった。
「ぼたんさん」
「よう」
ぼたんは片手を上げた。ダンスレッスンを終えたばかりなのか、黒いタンクトップに汗が滲んでいる。首にかけたタオルで額を拭いながら、初奈の顔を覗き込んだ。
「声、かすれてるな」
「少し、歌い込みすぎました」
「無理すんな。喉を壊したら元も子もねえ」
「でも、早く上手くなりたくて」
ぼたんはしばらく初奈を見つめ、それから軽くため息をついた。
「あんたな、真面目すぎんだよ」
「そうでしょうか」
「そうだ。真面目なのは悪くねえけど、焦っても伸びるもんも伸びねえ。オレだって、バレエ始めた頃は毎日叱られて泣いてた」
「ぼたんさんが、泣くんですか」
「三歳の頃の話だ」
想像して、初奈は思わず口元を緩めた。小さなぼたんが泣きながらレッスンを受けている姿は、今の強気な彼女からはまったく想像できない。
「何笑ってんだ」
「いえ。ぼたんさんも、そういう頃があったんだと思うと、少しだけ安心しました」
「安心すんな。オレは特別に才能があったからすぐに伸びたけどな」
「ふふ、そうでしょうね」
二人で並んで廊下を歩きながら、初奈はふと時計を見た。もう夜の七時を回っている。今日のレッスンは終わったけれど、このあとぼたんと軽く自主練をする予定だった。
「そういえば、るるかさんってご存じですか?」
初奈が訊くと、ぼたんはピタリと足を止めた。
「るるか先輩のことか」
「先輩、なんですか」
「知らねえのか。オレたちの一期上の研修生だ。すごい実力者で、もう何度かメディアにも出てる。デビューも近いって噂だ」
「そうだったんですね」
「あんた、まだ会ったことなかったか」
「はい。名前だけ伺っていましたが、どんな方なのかは」
「会えばわかる」
ぼたんはなぜか少しだけ声を潜めた。
「すごい人だ。あれは別格だわ」
普段、誰に対しても辛口のぼたんが「別格」と言う。それだけで、るるかという人物がただの研修生ではないことがうかがえた。
「会ってみたいです」
「そのうちな。あの人も結構スタジオに入り浸ってるから」
「ぼたんさんもじゃないですか」
「オレはまだまだだ。比べもんにならねえ」
ぼたんはそう言って、スタジオのドアを開けた。途端に、中からふわりと甘い香りが漂ってくる。
花のような、バニラのような。汗とフローリングの匂いが染みついたスタジオには似合わない、優しい香りだった。
そして、その香りの主は、スタジオの中央でストレッチをしていた。
「あら」
顔を上げたのは、長い栗色の髪をゆるく巻いた、背の高い女性だった。垂れ目がちの大きな瞳が、初奈とぼたんを捉えて、ふわりと細められる。年は初奈より少し上だろうか。十七か、十八くらい。
「お邪魔してしまってごめんなさいね。このお部屋、空いてると思ったのだけれど」
声もまた、柔らかかった。まるで綿菓子を口に含んだような、ふんわりとした話し方。
「るるか先輩」
ぼたんが居住まいを正した。強気なぼたんが、珍しく丁寧に頭を下げている。
「ぼたんちゃん。それに、そちらは初めて見るお顔ね」
「あ、私は櫻坂初奈と申します。第七期の研修生で、つい最近入ったばかりです」
初奈は慌てて頭を下げた。るるかは立ち上がり、初奈のほうへ歩いてくる。動くたびに、ふわりと甘い香りが揺れた。
「初奈ちゃん。私は神崎るるか。第六期研修生で、ぼたんちゃんたちの一つ上になるかしら。よろしくね」
差し出された手は、白くて細くて、指先まで丁寧に整えられている。初奈がその手を握ると、るるかは嬉しそうに微笑んで、それから初奈の手を両手で包み込んだ。
「あらあら、手が冷たい。冷房が効きすぎてるのかしら」
「いえ、もともと冷え性で」
「そうなの。今度、生姜湯を持ってきてあげる。冷え性にはよく効くのよ」
初奈は戸惑いながらも、その距離の近さに嫌な感じはしなかった。むしろ、初対面なのにずっと前から知っていたような、不思議な安心感があった。
「るるか先輩、今日はここを使うんですか」
ぼたんが訊いた。
「いいえ、私はこのあとボーカルルームを予約してるの。発声をもう少しやりたくて。ここは自主練で使うのでしょう? どうぞ使ってちょうだい」
「ありがとうございます」
「うふふ、そんなに畏まらなくていいのよ。私はただの先輩で、あなたたちの敵じゃないんだから」
るるかはそう言って、初奈の手をそっと離した。
「初奈ちゃん、今度よかったら私のレッスンも見学に来てね。ぼたんちゃんも」
「え、いいんですか」
「もちろん。教えられることがあれば教えるし、何より一緒に歌うのは楽しいもの」
るるかは柔らかく笑って、それからスタジオをあとにした。残った甘い香りと、優しい余韻だけが、しばらく部屋の中に漂っていた。
「……すごい人ですね」
初奈がぽつりと言うと、ぼたんは大きく息を吐いた。
「だろ。別格だって言った意味、わかったか」
「はい。なんだか、包まれているような気持ちになりました」
「あの人は、誰にでもあんな感じだ。優しくて距離が近くて、でも決して馴れ馴れしいわけじゃねえ。不思議な人だよ」
「憧れます」
初奈が素直に言うと、ぼたんは少しだけ考えるような顔をした。
「まあな。オレも、あの人のようにはなれねえと思う」
「ぼたんさんはぼたんさんの良さがあります」
「急に何だ」
「歌っているときのぼたんさん、とてもかっこいいです。それにダンスも」
「……あんた、そういうの恥ずかしげもなく言うの、やめろ」
ぼたんは顔を背けて、床に置いたスピーカーのスイッチを乱暴に入れた。アップテンポな曲が流れ出し、気まずい空気をかき消す。
「ほら、自主練すんぞ。今日は前回の振りの続きを入れる」
「はい!」
初奈は笑顔で答えて、フロアの中央に走った。
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翌週、初奈はるるかのレッスンを見学する機会を得た。
ボーカルスタジオの隅に座り、初奈は息を潜めていた。るるかは五十嵐トレーナーの前に立ち、課題曲の楽譜を手にしている。
「じゃあ、通しで」
五十嵐がピアノの前に座った。最初の一音が静かに鳴り、るるかが息を吸い込む。
次の瞬間、初奈は言葉を失った。
まるでスタジオの空気が変わったかのようだった。るるかの声は、高く澄んでいるのに温かくて、聴く者の胸を直接撫でるような響きがあった。一音一音が粒立っていて、それでいて全体は川の流れのように滑らかで。
技術だけじゃない。るるかの歌には、何かが宿っている。聴き手の心の奥にある、言葉にならない感情を、そっと掬い上げるような優しさがあった。
(すごい)
初奈は鳥肌が立つのを感じた。ぼたんの歌もすごかった。でも、るるかの歌はまた違う種類のすごさだった。技術を超えたところにある「届ける力」が、この人にはある。
「……うん、いいね。るるか、最近一段と声が伸びるようになったな」
五十嵐が珍しく笑顔で言った。
「ありがとうございます。毎日イメージトレーニングをしてるんです」
「イメージトレーニング?」
「はい。歌っているとき、誰に届けたいかを具体的に思い浮かべるんです。今日は、大切な弟と妹の顔を思い浮かべていました」
「なるほどな。お前の歌が聴き手の心に届く理由がわかったよ」
るるかは照れたように笑って、それから振り返り、隅に座る初奈に手を振った。
「初奈ちゃん、緊張してる顔。うふふ、大丈夫よ、最初はみんなそうなんだから」
「……あの、るるか先輩」
「るるかでいいわよ。先輩もいらない」
「では、るるかさん。今の歌、本当に素晴らしかったです。どうしたらあんな風に歌えるようになるんでしょうか」
るるかは少しだけ首をかしげて、それから初奈の隣に腰を下ろした。またあの甘い香りがふわりと漂う。
「初奈ちゃんは、誰に歌いたい?」
「誰に……」
「私の場合はね、三人いるの。お父さんとお母さん、それから弟と妹。みんな遠くに住んでるから、会えない分、歌で気持ちを届けたいと思ってる。そうするとね、不思議と声が伸びるの。届けたい相手がいるだけで、歌は強くなる」
初奈は考え込んだ。誰に届けたいのか。
母だろうか。でも母はもういない。父だろうか。友達だろうか。
それとも、まだ見ぬ誰か。
「私には、まだはっきりとはわからなくて」
「それでいいのよ」
るるかは微笑んで、初奈の肩をぽんと叩いた。
「まだ見ぬ誰かに届けたい、そう思うだけでも充分。あなたの歌はちゃんと、その誰かに向かってる。私はそう感じたわ」
「るるかさん……」
「それにね、初奈ちゃん。歌は上手さだけじゃないの。どれだけ届けたいか、それだけなの。あなたにはそれがちゃんとある。だから大丈夫。焦らなくても、あなたのペースで進んでいけばいいのよ」
るるかの言葉は不思議なほどすっと心に入ってきた。
「ありがとうございます」
「うふふ、どういたしまして。あ、そうだ、このあとお茶でもどう? ぼたんちゃんも誘って。三人でお話しましょう」
「ぼたんさんもですか」
「ええ、あの子とももっと仲良くなりたいの。怖がられてるみたいで」
「怖がられているわけではないと思います。多分、ぼたんさんはただ、照れているだけで」
「あら、そうなの。それならなおさら、お茶に誘わなくちゃ」
るるかは楽しそうに笑った。
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一時間後、三人はスタジオ近くの小さなカフェにいた。窓際のテーブルを囲み、それぞれの飲み物を前にして。
「なんでオレまで」
ぼたんは不機嫌そうにアイスコーヒーをストローでかき混ぜている。しかし初奈にはわかった。これは照れているだけだ。
「いいじゃない、たまには。レッスンばかりじゃ疲れちゃうわ」
るるかはカモミールティーを両手で包みながら、にこにこと笑っている。初奈はミルクティーを一口飲んで、二人の顔を見比べた。
「でも、こうして三人でお茶をするの、初めてですね」
「そうね。ずっとやりたかったの。私、年が一つ上だから、なかなか同期の人たちと話す機会も多くて。あなたたちと話せるの、嬉しいのよ」
「るるかさんでも、そういうことあるんですか」
「あら、私がいつも余裕だと思ってた?」
「……正直に言うと」
「うふふ、よく言われるわ。でもね、私だって悩むことはあるのよ。年長だからしっかりしなくちゃって思うけど、たまには誰かに甘えたくなる」
るるかがそう言うと、ぼたんが顔を上げた。
「意外だな。オレはるるか先輩のこと、パーフェクト超人だと思ってた」
「ちょっと、超人って何よ。私、そんなに無敵じゃないわ」
「歌は間違いなく無敵だと思います」
初奈が言うと、るるかは少しだけ照れたように俯いた。
「ありがとう。でも本当に、歌だけなの。私、それ以外は結構だめで。寮の部屋も散らかってるし、朝も弱いし」
「それは意外だ」
ぼたんが少しだけ口元を緩めた。るるかが完璧ではないと知って、少しだけ親近感が湧いたのかもしれない。
「ぼたんちゃんは、どうしてアイドルになりたいの」
るるかの問いに、ぼたんは少しだけ言い淀んでから、答えた。
「母親を楽させてやりたい。それだけだ」
「素敵な理由ね」
「綺麗事じゃねえって、初奈にも言われました」
「そうかもしれない。でも、誰かのために頑張れること自体が素敵なのよ」
るるかの声は柔らかくて、でも不思議な説得力があった。ぼたんは何か言いたげに口を開いて、結局何も言わずにアイスコーヒーをすすった。
「初奈ちゃんは?」
「私は……」
初奈はカップを見つめながら、言葉を探した。
「誰かを幸せにしたい。母が私にしてくれたように、今度は私が誰かの世界を美しくしたい。それが、私がアイドルになりたい理由です」
「……そう」
るるかはしばらく初奈を見つめていた。その目は優しくて、でもどこか、遠くを見ているようでもあった。
「初奈ちゃんは、そのままでいいのよ」
「そのまま?」
「うん。あなたのその理由は、きっとこれからもあなたを支えてくれる。誰かのために何かをしたいっていう気持ちは、時にとても苦しいものだけど、でもとても強いから」
るるかの言葉には、実感がこもっていた。まるで自分自身に言い聞かせているような、そんな響き。
「るるかさん」
「あ、ごめんなさい。ちょっと深刻になっちゃった。うふふ、せっかくのお茶会なのにね」
るるかはすぐにいつもの笑顔に戻った。でも初奈は、その一瞬の翳りを見逃さなかった。この人は、何かを抱えている。優しさの裏に、何か。
(でも、それを今は詮索するべきじゃない)
初奈はそう思い、笑顔を作った。
「また三人でお茶しましょう。今度は寮の近くのカフェも気になっているんです」
「いいわね。ぼたんちゃんも、もちろん来るわよね」
「……まあ、予定が空いてたらな」
ぼたんは相変わらず素っ気なかったが、その声は拒絶ではなくなっていた。
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店を出ると、空はすっかり暗くなっていた。夏至が近いこの時期は日が長いが、それでも夜の帳は確実に下りている。
「じゃあ、私はこっちの電車だから」
るるかは手を振り、人混みの中に消えていった。
駅までの道を、初奈とぼたんは並んで歩く。
「なあ」
「はい」
「るるか先輩、やっぱりすごい人だな」
「そうですね。歌も、人柄も」
「オレさ、アイドルって、自分が輝くためにやるもんだと思ってた。でも違うんだな。誰かのために輝けるやつが、本当にすごいアイドルなんだ」
ぼたんはめずらしく、ぽつぽつと本音をこぼした。
「ぼたんさんも、お母様のために輝こうとしているじゃないですか」
「……そりゃ、まあ、オレの場合はそれしか動機がねえからな」
「それでいいと思います。誰かのために輝ける人は、きっとたくさんの人のために輝けるようになる。るるかさんを見ていて、そう思いました」
「あんたは」
ぼたんは立ち止まり、街灯の下で初奈を見た。
「あんたは、最初から誰かのために輝こうとしてる。オレはそれがすごいと思う。るるか先輩とはまた違う種類のすごさだ」
「ぼたんさん……」
「だから、お互い切磋琢磨だ。オレも、あんたたちに負けてられねえ」
差し出された拳。初奈は少し驚いて、それからおずおずと自分の拳を合わせた。
「はい。私も、負けません」
「よし。明日も自主練、朝からな」
「朝からですか」
「当たり前だ。文句あるか」
「いいえ。楽しみです」
初奈が微笑むと、ぼたんは少しだけ照れくさそうに笑った。夏の夜風が、二人の間をすり抜けていく。
心臓が熱かった。
疲れている。確かに疲れている。学校とレッスンと家との三重生活は、想像以上に体に応えた。上達は遅い。自分でも歯痒いくらいに。
でも、充実していた。
こんな日々が、ずっと続けばいいと思った。
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【初奈の日記】
今日、初めてるるかさんとお話ししました。
ぼたんさんが「別格」と言っていた意味が、すぐにわかりました。歌はもちろん、その優しさも、誰にでも近い距離で接してくれるところも、すべてが自然で、ああいう人が本当のアイドルなんだろうなと思います。
でも、るるかさんは「私だって悩むことはある」と言っていました。誰しも何かを抱えているのだと知って、少しだけ安心しました。私だけが悩んでいるわけではない。それでもみんな、前に進んでいる。私も、私のペースで進んでいいのだと、許可をもらえた気がします。
ぼたんさんとも、少しずつ距離が縮まっている気がします。今日は拳を合わせてくれました。あの人は多分、自分で思っているよりずっと優しい人です。
三人でお茶をした時間は、宝物になりました。これからも、こんな時間が増えていくといい。
お母様。
私は今、少しだけ世界が色づいて見える瞬間があります。まだモノクロームのほうが多いけれど、それでも確かに、光は射している。
この光を、いつか誰かに届けられますように。
届けるべき『貴方』に、いつか出会えますように。




