二つの顔
---
六月。聖クラウディア女学院の渡り廊下には、初夏の日差しが白く降り注いでいた。
「櫻坂さん、昨日の古典の課題、難しくなかった?」
廊下を歩く初奈に、後ろから声がかかる。振り返ると、同じクラスの佐伯真由が小走りに駆け寄ってきた。
「佐伯さん。課題、私は少し時間がかかってしまいました。源氏物語のあの段は、解釈が分かれる部分が多いですね」
「そうそう! でも櫻坂さんは絶対完璧に書いてくるんだろうなってみんな言ってたよ」
初奈は困ったように微笑んだ。実際、課題は完璧に仕上げていた。何しろ空いた時間のすべてを勉学に充てていたからだ。レッスンが始まるまでは。
「そんなことはありません。私もまだまだです」
「謙遜しすぎだってば。あ、ねえ、放課後、例のカフェに行かない? 新作の抹茶パフェが出たらしいよ」
申し訳なさそうに、初奈は首を振った。
「ごめんなさい。今日は少し、家の用事がありまして」
「そっか。櫻坂さんち、色々大変だもんね。お母様のこともあるし……無理しないでね」
佐伯の声が急に優しくなる。母を亡くしたことを知っている友人たちは、みんな初奈に気を遣ってくれる。その優しさは嬉しいけれど、時折、腫れ物に触るような距離感が胸に刺さった。
「ありがとう。ではまた明日」
初奈は小さく手を振って、廊下を曲がった。
教室に戻ると、数人のクラスメイトが集まって何やら盛り上がっている。スマートフォンの画面を囲んで、黄色い声が上がっていた。
「このグループ、マジで可愛くない?」
「えー、でもアイドルでしょ? ああいうのってどうなんだろ」
「わかる。なんかさ、キャーキャー言ってファンに媚び売ってる感じが無理」
「それに、まともな教育受けてない人たちでしょ。品がないっていうか」
初奈は自分の席に座り、教科書を机に広げた。耳には入ってくる言葉を、心の中で打ち消すように。
(違う。そうじゃない)
あの学園祭で見たステージを思い出す。下手でも必死に歌って、客席に手を伸ばしていたアイドルたち。彼女たちは媚びていたんじゃない。誰かに届けたくて、それだけを考えていた。
でも、この学園でその意見を言うことはできなかった。聖クラウディアの生徒たちは、大半が良家の子女だ。芸能界に対して、どこか見下すような空気があった。それを口にする生徒は少なくても、なんとなく、そういう共通認識があった。
「櫻坂さんはどう思う?」
突然話を振られて、初奈は顔を上げた。
「アイドル、ですよね。私は……」
少し考えて、言葉を選んだ。
「その方たちが一生懸命に努力されているのであれば、それは素敵なことだと思います」
「えー、櫻坂さん優しすぎ。でも確かに、櫻坂さんはそんな風に言いそう」
クラスメイトは笑いながら、また別の話題に移っていった。初奈は再び教科書に目を落とした。
(もし、みんなが私のことを知ったら)
想像して、かすかな吐き気を覚えた。きっと、軽蔑される。裏で何を言われるかわからない。今まで築いてきた「櫻坂初奈」という優等生の像が、一瞬で崩れ去るだろう。
それでも。
(それでも、私は)
引き出しの奥に隠した合格通知のことを思った。
---
放課後。初奈は学校から最も遠い駅で電車を降りた。
制服から私服に着替えるため、駅のトイレに駆け込む。白いブラウスを脱ぎ、水色のカットソーに袖を通した。スカートも、校則の膝下プリーツから、淡いグレーのロングスカートに履き替える。髪は下ろして、小さなパールのピアスをつける。誰が見ても「どこかの令嬢」にしか見えない格好だけど、それでも制服よりは目立たないはずだった。
(まるで、別人になるみたい)
鏡に映る自分を見つめながら、初奈は小さく息をついた。これから向かうのは、ルミナスプロダクションの研修生用スタジオ。週に三回、放課後の二時間だけ、初奈は「櫻坂初奈」ではない誰かになる。
最寄り駅から徒歩五分。ガラス張りのビルの前には、もう見慣れたルミナスの看板が掲げられている。初奈はエントランスを通り、受付でIDカードを見せた。
「櫻坂さん、今日もお早いですね」
「こんにちは。今日もよろしくお願いいたします」
エレベーターで五階へ。扉が開くと、すでにレッスン室から音楽が漏れ聞こえていた。
着替えを済ませてスタジオに入ると、そこには先客がいた。黒いレオタードにショートパンツ、裸足でフロアに立ち、一心不乱にストレッチをしている少女。肩で切りそろえた黒髪が、動きに合わせて揺れる。
「ぼたんさん」
「ん」
ぼたんは振り返らずに返事をした。開脚したまま上半身をぺたりと床につけて、深い呼吸を繰り返している。
「今日は早いんですね」
「オレはいつもこの時間だ。あんたが遅いんだよ」
「……確かにそうですね」
初奈も隣に座り、見よう見まねでストレッチを始めた。まだ体は硬くて、前屈すらままならない。それでも、三週間前よりは少しだけ柔らかくなった気がする。
「あんた、学校はどうなんだ」
ぼたんが唐突に訊いた。
「学校、ですか」
「そうだ。お嬢様学校なんだろ。どうやって言い訳して抜けてきてる」
「……実は、お父様にも、学校の皆にも、内緒にしています」
ぼたんの動きが止まった。
「内緒?」
「はい。アイドルを目指していることは、誰にも」
「……大丈夫なのか、それ」
「大丈夫じゃないかもしれません。でも、言ったら絶対に反対されます。父は芸能の世界をよく思っていませんし、学園の皆も、どちらかといえば偏見を持っているように思います」
ぼたんは体を起こし、胡坐をかいて初奈のほうを向いた。切れ長の目が、まっすぐに初奈を見つめる。
「あんた、お嬢様のくせに結構無謀なことしてんだな」
「お嬢様だからこそ、かもしれません。何不自由なく育ってきて、自分で決断したことなんて、今まで何もなかった。だから」
「だから?」
「だから、このことだけは、自分で決めたかったんです」
沈黙。スタジオに設置されたスピーカーから、かすかに前のクラスの音源が漏れている。
「……オレは」
ぼたんが口を開いた。
「オレは母子家庭で育った。父親は物心つく前に出て行った。母親はバレエ教室の講師をやっててな。子供の頃からそこでレッスンを受けて、気づいたらオレもバレエをやるようになってた」
「そうだったんですか」
「母親は、オレがアイドルになるのを応援してる。自分の夢を追えって。売れて、母親を楽させてやりたい。それだけが、オレの目標だ」
「素敵な目標ですね」
「別に、綺麗事じゃねえよ。ただの現実だ」
ぼたんは立ち上がり、腕をぐるりと回した。
「でもな、あんたの話を聞いてると、少しだけわかる。誰にも言えねえけど、どうしてもやりたいこと。オレにはそういうのはなかった。全部が当たり前の延長だったから。だから」
「だから?」
「少しだけ、羨ましい。あんたのそれは、多分、本当にやりたいことなんだろうな」
初奈は目を見開いた。ぼたんが「羨ましい」と言うなんて、想像もしていなかった。
「ぼたんさん……」
「ほら、立ちな。そろそろトレーナーが来る。今日はダンスだ。前回の振り、まだ覚えてんだろうな」
「はい。家で練習してきました」
「どれだけできてるか見せてもらう」
ぼたんの言葉に、初奈は慌てて立ち上がった。
---
一時間後、初奈は床に倒れ込んでいた。
「はあ……はあ……」
「まだ一時間。あと一時間残ってる」
ぼたんは涼しい顔で水を飲んでいる。対照的に、初奈の息は乱れ、額からは汗が滝のように流れている。まとめていた髪はほどけ、頬に張り付いていた。
「見せてもらう、と言ったな」
「……ええ、おっしゃいましたね」
「振り、覚えてることは覚えてる。でも全部、動きが硬い。肩に力が入りすぎだ。もっと体幹を使え。バレエじゃなくてアイドルダンスは、もっと力を抜くところと入れるところのメリハリが大事なんだ」
「はい」
「あと笑顔。笑顔ができてない」
「……難しいです」
初奈は正直に言った。鏡越しに見る自分の顔は、真剣そのもので、とても可愛いとは言えなかった。
「鏡を見るな」
「え」
「鏡を見るから、自分の顔が気になるんだ。曲を聴け。リズムを感じろ。それから客席を見ろ。客席に誰がいるか、想像しながら踊れ」
ぼたんは初奈の腕を引っ張って立たせた。
「もう一回。最初から通す」
「……わかりました」
初奈は深呼吸をして、ポジションについた。流れ出すアップテンポの曲。決して得意ではない、元気で可愛いアイドルソング。
(客席)
ぼたんに言われた通り、初奈は目を閉じて想像した。客席に誰がいるか。誰に届けたいか。
母だろうか。いや、違う。母はもういない。
クラスメイトだろうか。父だろうか。それも違う。
(まだ見ぬ誰か)
いつか、私の歌を聴いてくれる誰か。私のことを知らない、どこかの誰か。その人がもし、少しでも笑ってくれたなら。
初奈は目を開けて、踊り始めた。
ぎこちない。まだ動きは硬い。それでも、最初よりは肩の力が抜けている。ぼたんは腕を組んで見ていたが、その口元がほんの少しだけ緩んだ。
「……まあ、初めてのときよりはマシか」
「ほ、本当ですか」
「ただし、まだまだだ。あと百回は通せ」
「百回……」
「できないならやめればいい」
できませんとは言わない。初奈は両手で膝を叩き、もう一度立ち上がった。
「やります。百回でも二百回でも」
「言ったな。付き合うからな、オレも」
ぼたんが珍しく笑った。それは勝ち気で、挑戦的な笑顔だったけれど、どこか温かかった。
「ぼたんさんはどうしてそこまで教えてくださるんですか」
「決まってる」
ぼたんは軽く拳を握り、初奈の肩をこつんと叩いた。
「ライバルだからな。あんたが下手くそだと、切磋琢磨にならないだろ」
「……切磋琢磨」
「そうだ。だから早く上手くなれ。でなきゃ張り合いがねえ」
「はい。精進します」
初奈が微笑むと、ぼたんは少し照れたように顔を背けた。
「あと、お嬢様はお嬢様でも、ここにいるあんたはアイドルのタマゴだ。学園の連中に何言われても気にすんな。あんたの価値は、あんたが決めればいい」
「……ありがとうございます」
思いがけない優しさに、初奈は胸が熱くなった。ぼたんは気が強いけど、その実、誰よりも仲間を大事にする人なのだと、少しずつわかってきた。
「ほら、水飲んで次のセットだ。休んでる暇はねえぞ」
「はい!」
---
レッスンが終わったのは夜の七時過ぎだった。
外はもう暗く、街灯がぽつぽつと灯っている。初奈とぼたんは並んで駅までの道を歩いていた。疲れ切った体に、夜風が心地よい。
「そういえば、ぼたんさんは学校はどうされているんですか」
「オレは通信制。週に何回かレポート出して、たまに面接行くだけだ。時間の融通がきくから、こうやって毎日レッスンできる」
「そうだったんですね。それでいつも早くから来ていたんだ」
「あんたは大変だな、二重生活」
「自分で選んだことですから」
「強いな、お嬢様は」
「強くなんかないです。ただ、どうしてもやりたいだけです」
ぼたんは少しだけ間を置いて、ぽつりと言った。
「なあ、今度一緒に自主練しねえか。レッスンのない日も、オレはだいたいスタジオ借りてやってる」
「ぜひお願いします。教えていただけることが多くて、とても助かっています」
「だから教えてるんじゃなくて、切磋琢磨だって」
「……ふふ」
「何笑ってんだ」
「いえ、嬉しくて」
「そういうこと素直に言うの、やめろ。照れる」
ぼたんは大股で歩き出した。初奈はその後ろ姿を追いかけながら、夜道を歩く。
空を見上げると、雲の切れ間から星がひとつだけ見えた。
---
電車を降りて、初奈は静かな住宅街を一人歩いた。
櫻坂邸の門は重厚で、いつも初奈を威圧するように立っている。この門をくぐるたび、初奈は「櫻坂初奈」に戻る。お淑やかで清楚な、名家の令嬢に。
(ただいま、お母様)
玄関を入ってすぐの廊下には、母の写真が飾ってある。舞台女優だった頃のものと、初奈を抱いているものと、二枚。
写真の前で手を合わせながら、初奈は思い出していた。五歳の頃のことだ。
母の部屋にはグランドピアノがあった。初奈が泣いた夜、母はいつもそこに座り、即興の子守唄を弾いてくれた。ある日、初奈が「私もお母様みたいに歌いたい」と言ったときのことだ。
母は初奈を膝に乗せて、鍵盤に小さな指を置かせた。
『初奈、あなたの夢には歌があるわ』
そう言って、微笑んだ。
『どんな形になるかはわからないけれど、あなたが心から望むなら、きっと歌はあなたを離さない。あなたがあなたであるかぎり、その歌はなくならない』
五歳の初奈には、その言葉の意味がよくわからなかった。でも母の顔があまりにも優しかったから、ずっと覚えていた。
(私の夢には、歌がある)
今ならわかる。母は、初奈が自分で見つける未来を、ずっと前から信じていてくれたのだ。
「お嬢様、お食事の用意ができております」
「はい、すぐ参ります」
初奈は制服に着替えて、階下のダイニングへ向かった。
広い部屋の長いテーブル。端に座る父、誠一郎が新聞を折り畳むところだった。
「遅かったな」
「すみません、図書館で調べものが長引いてしまいました」
「そうか。学校はどうだ」
「変わりなく。課題も順調です」
嘘だった。けれど父は初奈を疑うことなどない。櫻坂家の娘が嘘をつくはずがないと思っている。
「そうか。無理はするなよ」
「はい、お父様」
静かな食卓。銀のカトラリーが皿に触れる音だけが響く。
「そういえば、そろそろお前も進路を考え始める時期だな」
初奈の手が一瞬止まった。
「……はい」
「大学はどこにする。やはりお前も、お母様と同じように芸術方面か。それとも、政治学か。どちらでも好きに選べばいい」
芸術方面。母が歩んだ道。父は反対しないと言うが、それは「趣味の範囲で」という暗黙の了解があった。櫻坂の名に泥を塗らない、品格のある芸術。
そこに「アイドル」は含まれない。
「まだ、決めかねております。もう少し考えたくて」
「そうか。まあ、焦ることはない。二年まではじっくり考えなさい」
父は優しかった。母を亡くしてから、少し過保護なくらいに。だからこそ、本当のことを言えなかった。言ったら、父はどう思うだろう。失望するだろうか、それとも悲しむだろうか。どちらにせよ、今はまだ言えない。
初奈は静かに食事を続けながら、心の中で謝っていた。
(ごめんなさい、お父様。でも、これは私が初めて自分で選んだ道です)
---
【初奈の日記】
今日もレッスンでした。ぼたんさんは相変わらず厳しくて、でも優しくて、やっぱり一緒にいると不思議と落ち着きます。
「切磋琢磨」と言ってくれたこと、本当に嬉しかった。私なんかが、あんなにすごい人のライバルだなんて、おこがましいかもしれない。でも、そう言ってもらえるなら、少しでも近づきたいと思います。
学園では、アイドルに対する偏見を耳にすることがあります。みんな悪気はないのだと思います。知らないだけなのだと。でも、そのたびに胸が痛みます。私はどちらの世界にも属していて、どちらの世界でも本当の自分を隠している。これが「二重生活」ということなのでしょうか。いつか、どちらも大切にできる日が来るといいのですが。
お母様。今日、あなたの言葉を思い出しました。
『あなたの夢には歌がある』
あのときは意味がわからなかったけれど、今なら少しだけわかります。私の歌はまだ拙くて、人に聴かせられるものではないけれど、それでも確かにここにある。お母様がくれたこの歌を、いつかたくさんの人に届けたいと思います。
それが、私の「貴方」への第一歩だと信じて。




