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オーディション

2話、サブヒロイン登場



スマートフォンの画面を見つめ続けて、二週間が経った。


桜坂初奈は自室の机に向かい、何度も同じページを開いては閉じる日々を送っていた。お気に入りに登録したオーディション情報は、保存したきり何も進んでいない。指が震えて、応募ボタンを押せなかった。


大手芸能事務所ルミナスプロダクション。第七期研修生オーディション。


応募資格は十三歳から十八歳までの女性。締切は来週の金曜日。必要書類は履歴書と全身写真と上半身写真。それだけだった。それだけなのに、初奈には途方もなく高い壁に思えた。


窓の外では、五月の風が庭木の葉を揺らしている。この部屋から見える景色は、何も変わらない。白いレースのカーテン、アンティークの鏡台、壁に掛けられた母の写真。すべてが整然としていて、美しくて、そして空虚だった。


「お母様」


初奈は写真に向かって呟いた。写真の中の母は、若く、輝くように笑っている。初奈が知っている最期の姿とは違う、女優として舞台に立っていた頃の母だった。


『貴方に出会えて良かった、この世界が美しく見えるから』


この言葉を、初奈は毎日反芻している。


お母様にとっての「貴方」は、きっと私だったのだろう。娘が生まれて、世界が美しく見えるようになった。そう言ってくれた。その言葉は温かくて、初奈の心の支えだった。


でも、それだけでは足りなかった。


(私は、お母様に何かを返せたのだろうか)


娘として、何かを。


もしかしたら母は、初奈に出会えたことそのものが幸せだと言うかもしれない。それでも、初奈は思うのだ。


(私も、誰かにとっての「貴方」になりたい)


沢山の人に、美しい世界を見せられるような存在になりたい。母が初奈にしてくれたように、今度は初奈が誰かの世界に色を与えたい。


そして。


(私自身が、世界を美しいと思えるような「貴方」にも、いつか出逢いたい)


その「貴方」が誰なのかは、まだわからない。人かもしれないし、何か別のものかもしれない。ただ、母の遺言を本当の意味で叶えるには、このふたつが必要なのだと、初奈はぼんやりと感じていた。


誰かを幸せにすること。


そして、自分自身が幸せになること。


そのどちらかが欠けても、母の言葉は完成しない。


「……応募、しよう」


初奈は震える指で、画面の「応募する」をタップした。


---


オーディション当日、空は朝からどんよりと曇っていた。


初奈は父に「図書館で調べものがある」と言い訳をして、家を出た。白いブラウスに淡い藤色の膝丈スカート。靴は履き慣れたエナメルのローファー。鏡の前で何度も確認したのに、これで良かったのかどうか、まったく自信がなかった。


会場は都内の大きなスタジオだった。ルミナスプロダクションの看板が掲げられたビルの前には、初奈と同じようにオーディションを受ける少女たちが集まっている。みんな華やかで、可愛らしくて、そして何より目が違った。本気の目をしていた。


(私、場違いかもしれない)


初奈は受付を済ませ、控え室に通された。広い部屋の中には三十人ほどの少女たちが思い思いの準備をしている。ストレッチをする子、発声練習をする子、鏡と向き合って笑顔の練習をする子。誰もが真剣で、空気は張り詰めていた。


初奈は隅の椅子に腰掛けて、静かに順番を待った。心臓がうるさい。手のひらにじんわりと汗が滲む。


(歌もダンスも、習ったことがない)


せめてもの準備として、動画サイトでアイドルの振り付けをいくつか真似してみたけれど、それが正しいのかもわからない。歌に至っては、カラオケすら数えるほどしか行ったことがなかった。


(受かるわけがない)


そう思いながらも、なぜか逃げ出したいとは思わなかった。


「……あんた」


突然、隣から声がした。


振り向くと、一人の少女が立っていた。肩で切りそろえたボブの黒髪。前髪は眉の上でぱっつんと揃えられ、左耳にはシルバーのピアスが三つ。切れ長の目が、初奈をじっと見下ろしている。


「名前、なんて呼ばれてる」


低めの声だった。それでいてよく通る、不思議な響き。


「あ、私は……櫻坂初奈と申します」


「申します、ね。ふうん」


少女は少しだけ口元を緩めて、それから乱暴に隣の席に腰を下ろした。


「オレは百合咲ぼたん。よろしく」


「ぼたん……さん」


「さんはいらねえ。ぼたんでいい」


「では……ぼたん、さん」


「減らねえな、その壁」


ぼたんは呆れたように言って、それからじろじろと初奈の全身を見た。


「あんた、こういうの初めてだろ」


「……わかりますか」


「わかる。空気に出てる。場違い感がすごい」


辛辣だった。でも、嫌味ではなかった。ただ事実を言っているだけの、不思議な正直さがあった。


「そうですね。私、歌もダンスも、何もできなくて」


「ふうん。なんで受けようと思った」


その問いに、初奈は少しだけ考え込んだ。


「……誰かを、幸せにしたいと思ったんです」


「誰かを、幸せに」


「はい。それと、自分が世界を美しいと思えるような、そんな何かに出会いたくて」


ぼたんは黙って初奈の目を見つめた。切れ長の瞳が、値踏みするように細められる。


「……変わってるな、あんた」


「よく言われます」


「褒めてねえ」


「でも、嫌な気はしませんでした」


初奈が微笑むと、ぼたんは一瞬だけ面食らったような顔をして、それからそっぽを向いた。


「オレは、売れるために来た」


「売れるために」


「そうだ。オレには才能がある。三歳からバレエやってて、歌も音大出の母親に仕込まれた。負ける気はねえ」


迷いのない声だった。気が強いというより、自分の道を疑ったことがないのだろう。


「すごいですね。自信があって、憧れます」


「あんた、オレのことバカにしてんのか」


「まさか。本心です」


初奈が真っ直ぐに言うと、ぼたんはまた少しだけ黙って、それから小さくため息をついた。


「あんたみたいなタイプ、オレは嫌いじゃねえ」


「それは嬉しいです。私も、ぼたんさんと話せてよかった」


「壁は健在か」


ぼたんがわずかに笑った。笑うと年相応の、十六歳の少女の顔になる。


そのとき、部屋の前方から名前が呼ばれた。


「百合咲ぼたんさん、前へどうぞ」


「お、呼ばれた。じゃあな、お嬢様」


「お嬢様、ですか」


「違うのか」


「……否定はできません」


「だと思った。ま、頑張れよ」


そう言い残して、ぼたんはすたすたと部屋を出ていった。足取りに迷いはなく、背筋がまっすぐ伸びている。


初奈は自分の番が来るまで、ぼたんの後ろ姿をずっと見送っていた。


---


ぼたんのパフォーマンスは、圧倒的だった。


オーディションは数人ずつ順番に行われ、他の受験者の分も控え室のモニターで見ることができた。初奈の順番はかなり後ろのほうで、ぼたんは同じグループではなかったけれど、見学は自由だった。


歌。


透き通るような高音が、スタジオに響き渡った。一音一音が正確で、それでいて機械的ではない。歌詞の意味をちゃんと理解して、感情を込めているのがわかる。初奈は息を呑んだ。プロの歌手の歌を聴いたことはある。でも、目の前で、同い年の少女がこんな風に歌えるなんて。


ダンス。


バレエの基礎が染みついた動きは、指先の一本まで美しかった。それでいてアイドルらしい可愛らしさも備えていて、キレのあるターンからのウインクに、審査員たちが一斉にメモを取るのが見えた。


完璧だった。


初奈は手のひらをぎゅっと握りしめた。


(すごい。本当に、すごい)


圧倒されるのと同時に、不思議な高揚感があった。自分とは正反対の、あんなに強い人がいる。そのことが、なぜか心強かった。


(私も、できることを精一杯やろう)


---


「櫻坂初奈さん、前へどうぞ」


ついに名前が呼ばれた。


初奈は立ち上がった。足が震えている。心臓が口から飛び出しそうだった。


スタジオに入ると、三人の審査員が長机の向こうに座っていた。真ん中の男性はスーツ姿で、手元の書類に目を落としている。右の女性は優しそうな笑顔を浮かべていた。左の男性は腕を組んで、厳しい目つきで初奈を見ている。


「櫻坂初奈さん、桜坂じゃなくて、櫻に坂ですね。珍しい」


真ん中の男性が顔を上げた。


「はい。祖父がこの字を気に入っておりまして」


「なるほど。では、まず自己PRをお願いします」


自己PR。何度も練習した言葉を、初奈は必死に思い出した。用意していたのは、きれいごとばかりの、ありきたりな言葉だった。


(でも、それじゃ意味がない)


初奈は息を吸い込んで、口を開いた。


「私は……誰かを幸せにしたいと思って、ここに来ました」


練習していた言葉とは違った。もっと拙くて、まとまりがなくて、でも嘘のない言葉だった。


「私は、ずっと世界が色褪せて見えていました。一年前に母を亡くしてから、何を見ても心が動かなくて。でも先日、アイドルの方のステージを見て、初めて涙が出たんです。下手だったかもしれません。でも、その歌は確かに、私に届きました。私はそのとき、私も誰かにとって、そういう存在になりたいと思いました」


審査員たちが顔を見合わせる。


「母が遺した言葉があります。『貴方に出会えて良かった、この世界が美しく見えるから』。私は、誰かにそう言ってもらえるような存在になりたい。そして私自身も、世界を美しいと思える何かに出会いたい。歌もダンスも未経験ですが、気持ちだけは誰にも負けません」


言い切って、初奈は深く頭を下げた。


静寂。時計の秒針だけが、やけに大きく聞こえる。


「……じゃあ、歌を聞かせてもらえますか」


右の女性審査員が言った。


「はい」


課題曲は有名なJ-POPのバラードだった。初奈はマイクを受け取り、伴奏が流れるのを待った。


(届け)


それだけを思って、歌った。


技術はなかった。音程は揺れ、声量も足りない。ダンスの課題では、振り付けの半分も覚えられず、途中で止まってしまった。


それでも、初奈は最後まで歌った。最後の一音が消えるまで、審査員から目を逸らさなかった。


「……結構です。結果は後日郵送します」


初奈はもう一度頭を下げて、スタジオをあとにした。


廊下に出ると、壁にもたれてぼたんが立っていた。


「……見てたのか」


「ぼたんさん」


「オレのあとに見学してただけだ。たまたまだ」


たまたま、と言いながら、ぼたんは初奈の顔をじっと見ている。


「あんた、歌は下手くそだな」


「……はい。自分でもわかっています」


「ダンスも、振り付け半分もできてなかった」


「仰るとおりです」


「でも」


ぼたんは少しだけ口元を歪めて、笑ったのか笑っていないのかわからない表情をした。


「声は悪くなかった。耳に残る声だ。あれは多分、天性のもんだ」


「……褒めてくれているんですか」


「さあな」


ぼたんは壁から背を離し、初奈の前を通り過ぎる。


「じゃあな、お嬢様。また会えるといいな」


「はい。ぼたんさんも、お元気で」


「会う前提なのかよ」


今度は確かに笑って、ぼたんはエレベーターに消えていった。


初奈はしばらくその場に立ち尽くしていた。


(また、会いたい)


ぼたんに対してそう思ったのは、なぜだろう。あれだけ辛辣なことを言われたのに、不思議と嫌な気持ちはしなかった。むしろ、もっと話したいと思った。


正反対なのに、気が合う。


そんな人がいることを、初奈は生まれて初めて知った。


---


一週間後。一通の封筒が届いた。


白い封筒に、ルミナスプロダクションのロゴ。初奈は自室にこもり、震える手で封を切った。


中には一枚の紙。


『合格通知』


櫻坂初奈 様


このたびはルミナスプロダクション第七期研修生オーディションにご応募いただき、誠にありがとうございました。厳正なる審査の結果、貴殿を第七期研修生として採用することに決定いたしました。つきましては、下記の日程にて初回オリエンテーションを行います……


その先の文字が、涙で滲んで読めなかった。


初奈は手紙を胸に抱き、声を押し殺して泣いた。一年ぶりの涙だった。学園祭で見たライブで流した涙とは違う。もっと熱くて、苦しくて、でも確かな幸福の涙だった。


(お母様。私、一歩を踏み出しました)


まだ何も始まっていない。これから、お父様にどう話すかという問題もある。学園との両立も考えなければならない。それでも、今はただ嬉しかった。


窓の外を見る。


五月の終わり、庭の紫陽花が色づき始めていた。薄い青から、深い藍へと変わるグラデーションが、初奈の目にやけに鮮やかに映る。


(ああ、きれい)


そんなことを思った自分に驚いて、初奈はもう一度、花を見つめた。


世界はまだ、モノクロームに近い。


でも、その端っこが、ほんの少しだけ、色を取り戻し始めていた。


---


【初奈の日記】


今日、オーディションの合格通知をいただきました。


まだ信じられません。歌もダンスも、あんなに下手だったのに。でも、審査員の方が私の何かを認めてくださったのなら、その期待に応えたいと思います。


お父様には、まだ話していません。学園のこともあります。きっと反対されるでしょう。それでも、私はこの道を進みたい。初めて、自分で見つけた道だから。


ぼたんさんという、不思議な方にも出会いました。とても気が強くて、正反対の性格なのに、なぜかまたお会いしたいと思う。これが「気が合う」ということなのでしょうか。


お母様。


私はまだ、あなたにとっての「貴方」にはなれていなかったかもしれない。でも、これからなります。たくさんの人に、美しい世界を見せられる「貴方」に。


そしていつか、私にとっての「貴方」にも出会えますように。


それが誰なのか、何なのか。まだわからないけれど、この道の先で見つけられると、今は信じています。

ぼたんは孤高の美少女

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