モノクロームの櫻
母を亡くし、名家の令嬢として何不自由なく暮らしながらも、心は空っぽだった。そんな私が、初めて自分で選んだ道――それは「アイドル」になること。
桜坂初奈は、桜が嫌いだった。
四月。満開の桜並木を抜け、白いセーラー服の少女がひとり、歩いている。肩に掛けたスクールバッグがかすかに揺れるたび、腰まで届く黒髪がさらさらと風に流れた。彼女の通う聖クラウディア女学院の門までは、この桜並木が三百メートル続いている。淡い桃色の花びらが舞い散る光景は、通りすがりの誰もが足を止めて見惚れるほどの美しさだった。
初奈だけが、顔を伏せて歩いていた。
(また、この季節が来た)
桜を見ると、思い出す。この花の下で撮った、最後の写真を。
十五歳の春。痩せ細った手を懸命に伸ばして、初奈の頬に触れた母の指先。病室の窓から見えていた桜は満開で、母は「綺麗ね」と微笑んで、それから初奈の手を握り、こう言ったのだ。
『貴方に出会えて良かった、この世界が美しく見えるから』
翌朝、母はもう目を覚まさなかった。
あれから一年。世界から色が消えた。正確には、色は在るのに、それが初奈の目にはひどくくすんで映るようになった。空の青も、新緑の緑も、友達の笑顔も。すべてがモノクロームの上に薄く色を乗せただけの、張りぼてのように感じられた。
母を喪った悲しみは、時間とともに和らぐものだと大人たちは言った。初奈はそう言われるたび、静かにうなずいた。否定しても仕方がなかった。誰にもわからないのだ。世界が色褪せて見えるこの感覚は、母を失った人間にしか理解できないのだと。
「おはようございます、櫻坂さん」
校門で、クラスメイトが声をかけてくる。初奈は足を止め、そっと微笑みを浮かべた。
「おはようございます、佐藤さん。今日は少し冷えますね」
「ほんとだよね。あ、そのカーディガン、新作? すごく可愛い」
「ありがとうございます。とても温かくて、気に入っているんです」
会話を交わしながら、初奈は内心で自分のことを冷めた目で見つめていた。
(私は、本当に上手に笑えるようになった)
初奈はお淑やかで清楚な、誰もが認めるお嬢様だ。名家の令嬢として生まれ、作法も言葉遣いも完璧に躾けられた。友人にも教師にも、それは好ましい印象を与えていた。誰もが「櫻坂さんはいつも穏やかで品がある」と言う。けれどそれは、本当の初奈ではなかった。
本当の初奈は、ただ無感動なだけだった。
何を見ても、何を聞いても、心が動かない。友達の恋愛話も、放課後に食べるケーキも、テストの点数も。すべてが「どうでもいい」ことのように思えた。ただ表面だけ、優等生のお嬢様を演じている。
それが、母を亡くした十五歳の少女がたどり着いた、唯一の生きる術だった。
「櫻坂さん、今日の放課後、学園祭の実行委員会があるんだけど」
HRが終わった教室で、委員長の三島さんが声をかけてきた。聖クラウディア女学院の学園祭は、毎年五月の第三週に開催される。創立百二十年を超える伝統校の学園祭は、在校生の家族だけでなく、地域住民や受験生も多く訪れる大きな行事だった。
「はい、承知しています」
「よかった。櫻坂さん、ポスターのデザインがすごく評判良くて。美術の先生も褒めてたよ」
「恐れ入ります。皆さんと相談しながら作ったものですから」
初奈は微笑みながら答えた。絵を描くのは嫌いではなかった。色を選び、配置を考え、全体の調和を整える作業は、少なくとも頭を空っぽにしてくれる。
「そうだ、今年の学園祭、ゲストを呼ぶことになったんだって」
三島さんが声を潜めて言った。
「ゲスト、ですか?」
「うん、アイドル。まだ売れてない人たちだけど、事務所から売り込みがあったって生徒会の先輩が言ってて。ほら、うちの講堂、音響が良いから、アマチュアのコンサートとかにも貸してるじゃない? そういう縁で話が来たんだって」
「アイドル……」
初奈は小さくその言葉を口にした。自分とは最も縁遠い存在だった。テレビで見かけることもほとんどなく、音楽はもっぱら母が好きだったクラシックばかり聴いていたからだ。
「櫻坂さんは興味ないか。でもまあ、学園祭の余興みたいなものだから、よかったら見ていってね」
三島さんはそう言い残して、次の授業の準備に向かった。
初奈は窓の外を見た。校庭の桜はもう散り始めていて、枝には若葉が顔を出している。季節は確かに移ろっているのに、自分の時間だけが止まっているような気がした。
(お母様。あなたが遺した言葉の意味を、私はまだ見つけられていません)
世界が美しく見えるような「貴方」に、私はまだ出会っていない。
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学園祭当日は、よく晴れた五月の土曜日だった。
聖クラウディア女学院の敷地は、白亜の校舎と手入れの行き届いた庭園で知られている。普段は男子禁制のこの場所も、学園祭の二日間だけは一般公開され、大勢の来場者で賑わっていた。
初奈はクラスの展示当番を終え、一人で校内を歩いていた。手にはまだ半分以上残っているスタンプラリーの台紙。本当は全部回るつもりだったが、人混みに少し疲れてしまった。
(少しだけ、静かな場所に行こう)
そう思って足を向けたのは、メイン会場から外れた講堂だった。確かここで、三島さんが言っていたアイドルのライブがあるはずだ。興味はなかったが、人の少なそうな場所を求めて、初奈は講堂の重い扉を押した。
瞬間、鼓膜を震わせるような重低音が、全身を包んだ。
「え……?」
思わず足を止める。薄暗い講堂の中、ステージだけが異様なまでに明るく照らし出されていた。観客はせいぜい五十人ほど。ほとんどが在校生とその家族で、空いている席のほうが目立つ。
けれど、ステージの上では。
「次、いくよー! みんな、手拍子お願い!」
センターに立つ少女が叫んだ。初奈と同じか少し年上の、キラキラとした衣装を着た女の子。その声は少し掠れていて、ダンスの動きも決して完璧ではなかった。横を見れば、他のメンバーも呼吸が合わずにずれたり、髪が乱れているのも気づかずに歌い続けている。
(すごく、下手)
初奈は正直にそう思った。母が好きだったバレエやオペラの完璧な舞台を見慣れている目には、そのパフォーマンスはあまりにも粗削りだった。
それなのに。
なぜか目が離せなかった。
「笑ってー! 今日は来てくれてありがとう!」
下手なのに、声は震えているのに、それでも彼女たちは笑っていた。客席の一人ひとりに届けようと、手を伸ばしていた。その先には、ペンライトを振る少女たちがいて、中には涙をぬぐっている子もいた。
(あれは、なに?)
初奈の胸の奥で、何かがかすかに震えた。それは、母を亡くしてからずっと感じたことのない種類の感覚だった。うまく言葉にできない。ただ、ステージの光が、自分の中の暗闇をわずかに揺らしたような、そんな感覚。
「……ぁ」
気がつくと、初奈の目から一筋の涙がこぼれ落ちていた。
(私、泣いている?)
自分でも信じられなかった。母の葬儀のときも泣けなかったのに。悲しいはずなのに涙が出なくて、冷たい娘だと親戚に陰で言われたことさえ、どうでもよかったのに。
それが、こんな場所で、名前も知らないアイドルの歌を聴いて。
色褪せて見えていた世界が、ほんの一瞬だけ、輪郭を取り戻した気がした。
(この人たちは、誰かの「貴方」になっているの?)
母が遺した言葉が、頭の中で反芻される。
『貴方に出会えて良かった、この世界が美しく見えるから』
母にとっての「貴方」は、きっと私だったのだろう。娘に出会えて、世界が美しく見えた。そう言ってくれた。でも、私にとっての「貴方」は、まだわからない。
でも、もし。
もし、私が誰かにとっての「貴方」になれたなら。
誰かの世界を、美しくすることができるなら。
「……っ」
初奈は無意識のうちに、両手を胸の前で握りしめていた。
ライブは三十分ほどで終わった。観客がまばらな拍手を残して去っていく中、初奈はしばらく席を立てなかった。心臓がうるさくて、鼓動の音が耳の奥で響いている。
(私……)
「あの、すみません」
気がつけば、初奈は講堂の袖にいたスタッフに声をかけていた。
「出演者の方に、お話を伺うことはできますか」
声は震えていなかった。むしろ、驚くほど落ち着いていた。スタッフはきょとんとした顔で初奈を見て、それから「少々お待ちください」と奥に引っ込んだ。
しばらくして、ステージ衣装のままの少女が出てきた。ついさっきセンターで歌っていた、髪の長い女の子だった。汗で前髪が額にはりついている。化粧も少し崩れていたけれど、瞳は異様なほどに輝いていた。
「えっと、私に何か?」
「突然お声がけして申し訳ありません。櫻坂初奈と申します」
初奈は深くお辞儀をした。少女は慌てて手を振る。
「わ、わざわざ丁寧に! 私は水瀬アリアっていいます。あの、もしかして、私たちのライブを見てくれました?」
「はい。とても……とても、心に響くものでした」
「え、まじ? 嬉しい!」
アリアは無邪気に笑った。その笑顔が眩しくて、初奈は少し目を細める。
「それで、ちょっと変なことをお聞きするのですが」
「変なこと?」
「どうして、アイドルをされているのですか」
アリアは一瞬きょとんとして、それから照れくさそうに頭をかいた。
「えー、そんな改まって聞かれると恥ずかしいんだけど……うーん、誰かを幸せにしたいから、かな」
「誰かを、幸せに」
「うん。私の歌で元気になったって言ってくれる人がいてさ。そういうの、すごく嬉しいんだよね。私なんかで良ければ、もっとたくさんの人に元気になってもらいたいっていうか」
初奈は息を呑んだ。
誰かを幸せにしたい。
その言葉は、あまりにもシンプルで、あまりにも真っ直ぐだった。
「……素敵ですね」
「えへへ、ありがと。あ、そうだ、良かったらこれ。私たちの次のライブのチラシ」
アリアはポケットから少ししわになった紙を取り出して、初奈に手渡した。小さなライブハウスの名前と、日付が印刷されている。
「もし興味があったら来てね。あんまりお客さん多くなくて、いつもアウェーなんだけど……あ、でも櫻坂さんみたいなお嬢様には、ちょっと雰囲気が違うかも?」
「いいえ。行ってみたいです」
自分の口から出た言葉に、初奈自身が一番驚いていた。
「ほんと? じゃあ、待ってるね!」
アリアはもう一度笑って、手を振りながら楽屋へと消えていった。
初奈はしばらくその場に立ち尽くし、手にしたチラシを見つめた。ピンクと黄色の派手なデザイン。今までの自分なら絶対に手に取らなかったものだ。
(誰かを、幸せにしたい)
私は、誰かを幸せにできるような人間だろうか。
何不自由なく育って、でも誰かのために何かをしたことなんて、あっただろうか。お嬢様として、良い子を演じて、波風立てずに生きてきただけの私に。
(でも、もしできるなら)
母が私にしてくれたように、誰かの世界を美しくすることができるなら。
私の色褪せた世界にも、いつか色が戻るのだろうか。
そのとき、初奈は気づいていなかった。チラシを握る自分の手が、かすかに震えていることに。そして、心臓の鼓動が、母を亡くしてからずっと感じたことのない速さで鳴っていることに。
これは恋でも憧れでもない。もっと深い、本能にも似た衝動だった。
(私、アイドルになりたい)
まだ言葉にはできなかったけれど、その想いは、確かに初奈の中で産声をあげたのだった。
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「アイドル?」
その夜、初奈が自宅に戻ると、父の誠一郎が夕食の席で眉をひそめた。
「ええ。今日、学園祭で見かけまして。とても素敵でした」
初奈は平静を装いながら、スープを口に運んだ。この家の夕食はいつも静かだ。長いテーブルに父と娘が二人だけ。母がいた頃は三人だったけれど、今はふたつ分の席がぽっかりと空いている。
「お前がそういうものに興味を持つとは珍しいな」
「少しだけ、ですけれど」
「まあ良い。だが、あまり深入りするな。お前は櫻坂家の娘だ。くだらない芸能など見に行くのも品が下がる」
「……はい、お父様」
初奈は黙ってうなずいた。
くだらない芸能。父にとってはそうなのだろう。櫻坂家は代々政治家や官僚を輩出してきた家系で、母だけが例外的に芸術方面の人間だった。父は母を愛していたけれど、母が属していた「芸能の世界」そのものを認めていたわけではなかった。
(もし、私がアイドルになりたいと言ったら)
父はどんな顔をするだろうか。怒るだろうか、悲しむだろうか。それとも、母のことを持ち出して、諭すのだろうか。
初奈は想像して、すぐに打ち消した。
(言えるわけがない)
でも。
食事を終えて自室に戻った初奈は、机の引き出しを開けた。中から一冊の日記帳を取り出し、新しいページを開く。そこに挟んでいたのは、今日もらったチラシと、こっそりスマートフォンで撮った講堂の写真。ステージの上の、見知らぬアイドルたちの姿。
写真を指先でなぞりながら、初奈は考えていた。
(どうしたら、アイドルになれるんだろう)
知識はまったくなかった。芸能事務所の名前も、オーディションの受け方も、何も知らない。ただ、あのステージの光が、自分の中で眠っていた何かを呼び覚ましたことだけは確かだった。
初奈はスマートフォンを取り出し、検索窓にこう打ち込んだ。
『アイドル オーディション 募集』
画面に表示された無数の情報を見つめながら、初奈は知らず知らずのうちに唇を噛みしめていた。
世界はまだモノクロームのままだった。
でも、その真ん中に、一つだけ。ほんの一つだけ。
あのステージの光が、いつまでも色を残して、輝き続けていた。
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(第1話 了)
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アイカツが好きです。




