はじまりのうた
CDが店頭に並んだ日、初奈は朝からずっとそわそわしていた。
学校の授業中も、ノートに書きつける文字は上の空で、何度も時計ばかり見てしまう。放課後になるのが待ち遠しくて、でも同時に怖くて、チャイムが鳴った瞬間は心臓が口から飛び出しそうだった。
「櫻坂さん、今日も図書館?」
佐伯真由が声をかけてくる。初奈は「はい、少し調べものが」といつもの言い訳をして、急ぎ足で校門を抜けた。
駅のトイレで制服から私服に着替える。今日は発売日だ。自分のCDが、お店に並んでいる。そう思うだけで手が震えた。電車に揺られながら、初奈は何度もスマートフォンを取り出しては、音楽配信サイトのランキングを確認した。まだ発売されたばかりだし、そもそもランキングに入るなんてありえないとわかっているのに、どうしても見てしまう。
新譜ランキング、三百位圏外。
(……そうですよね)
わかっていた。無名の新人が、ソロデビューしただけで売れるわけがない。それでも心のどこかで、もしかしたら、と期待していた自分がいた。初奈はスマートフォンを鞄にしまい、窓の外に流れる街並みをぼんやりと眺めた。
事務所に着くと、九条プロデューサーが申し訳なさそうな顔で待っていた。
「櫻坂、初日の売上だけど……ごめん、まだ数字が上がってきてないの」
「……そうですか」
「まだ一日目だし、これからプロモーションもかけていくから」
「いえ、大丈夫です。わかっていましたから」
初奈は微笑んで見せたけれど、プロデューサーの「ごめん」という言葉が胸に刺さった。売れなかったことを謝られる。それが何より悔しかった。
スタジオの隅で一人、自分のCDを手に取る。透明のケースの中には、ぼたんとるるかと一緒に縫った桜色の衣装を着た自分の姿が収まっている。ジャケットの裏面には、歌詞が印刷されていた。初奈はその文字を指でなぞった。
『貴方に出会えて良かった、この世界が美しく見えるから』
母の言葉。初奈が一番大切にしている、あの遺言。
サビの最後に、この言葉が入っている。作詞家の方が「初奈さんの想いを教えてください」と言うから、正直に話した。母のこと、アイドルを目指した理由、誰かの世界を美しくしたいという願い。そうしたら、作詞家は黙ってうなずいて、一晩でこの詞を書き上げてきた。
「この言葉が、きっと誰かに届くわよ」
そう言ってくれた。
(届くといいな)
初奈はCDを胸に抱いて、祈るように目を閉じた。
しかし、祈りは届かなかった。
一週間が経っても、CDは一枚も売れていなかった。配信サイトの再生回数も、数十回程度。九条は「これからです」と言い続けているが、数字は正直だった。
そんな中、神宮寺社長から通達が来た。
「ドサ周りをやれ」
初奈は「ドサ周り」という言葉の意味がわからず、九条に聞き返した。
「CDショップを回って、店頭でミニライブをするの。お客さんに直接聴いてもらうのよ」
「……インストアライブ、ということですか」
「まあ、そうなんだけど。うちが手配できるのは、そんなに大きな会場じゃなくて。地方の小さなCDショップの店頭とか、商店街の空きスペースとか。ステージもないような場所もあるから、覚悟して」
初奈はうなずいた。やるしかない。誰かに聴いてもらわなければ、何も始まらないのだから。
最初の店頭ライブは、都内の郊外にある小さなCDショップだった。
駅から徒歩十五分。シャッターの閉まった店も多い寂れた商店街の一角に、その店はあった。店先にダンボールを敷いて即席のステージを作り、ラジカセから流れるカラオケ音源に合わせて歌う。通行人はまばらで、立ち止まる人もほとんどいない。
「櫻坂初奈です! 聴いてください、『はじまりのうた』!」
初奈は精一杯の声を張り上げた。通りすがりの主婦がちらりとこちらを見て、すぐに去っていく。自転車に乗った学生が一瞥をくれて、そのまま走り去る。
それでも初奈は歌い続けた。誰もいなくても、ラジカセから流れる伴奏に合わせて、懸命に声を届ける。『貴方に出会えて良かった、この世界が美しく見えるから』。この歌詞を歌うときだけは、自分が少しだけ強くなれる気がした。
「初奈!」
二曲目が終わったとき、聞き覚えのある声がした。振り向くと、ぼたんとるるかが立っている。ぼたんは不機嫌そうに腕を組み、るるかは相変わらずの柔らかい笑顔で手を振っていた。
「お二人とも、どうして」
「手伝いに来たに決まってんだろ。一人でやらせられるか」
「うふふ、私たちも歌っていいかしら。三人のほうが、通りすがりの人も立ち止まってくれるかもしれないわ」
初奈は胸が熱くなって、うまく返事ができなかった。ユニットから外されても、変わらずにいてくれる二人。この人たちがいてくれるなら、まだ頑張れると思った。
それから、三人での店頭ライブが始まった。ぼたんの力強い歌声と、るるかの伸びやかなハーモニーが加わると、ただのカラオケ音源だった『はじまりのうた』が、急に色を帯びて輝き出す。通りすがりの人も、三人の歌声に足を止めるようになった。といっても数人だけれど、それでもゼロよりはずっとましだ。
曲が終わる。まばらな拍手。初奈は深く頭を下げた。
「ありがとうございます! CD、こちらで販売しております!」
誰も買わなかった。
それでも初奈は笑顔を崩さなかった。まだ始まったばかりだ。そう言い聞かせて。
それから一週間、毎日が同じことの繰り返しだった。
午前中は学校。聖クラウディア女学院の教室で、初奈はいつもの「櫻坂さん」だった。授業が終われば、クラスメイトが話しかけてくる。
「櫻坂さん、この間の英作文コンクール、入賞したんだって? すごいね!」
「古典の先生が、櫻坂さんのノートを手本にしろって言ってたよ」
「さすがお嬢様って感じ。私なんか、いつも課題ギリギリで」
初奈は微笑みながら「そんなことありません」「皆さんもお上手です」と返す。教室ではみんなが初奈を慕ってくれる。優等生で、お淑やかで、清楚な櫻坂さん。それが、みんなの知っている初奈の姿だった。
でも、放課後になると、初奈は誰にも知られないように駅のトイレで服を着替えて、郊外のCDショップに向かう。そこにはダンボールのステージとラジカセがあって、初奈は声を張り上げて歌う。通りすがりの人はほとんど見向きもせず、たまに立ち止まっても、すぐに去っていく。CDは一枚も売れない。
そのギャップに、心が引き裂かれそうだった。
(学校ではちやほやされて、ここでは誰にも見向きもされない)
どちらが本当の自分なのか、時々わからなくなる。教室で「櫻坂さん」と呼ばれている自分は、ただの仮の姿なのだろうか。それとも、ダンボールの上で歌っている自分が、本当の自分なのだろうか。
「今日も、売れませんでした」
片付けをしながら、初奈はラジカセの電源を切った。CDショップの店主は、無言で店のシャッターを閉め始めている。一週間も店の前に居座って、売り上げにも貢献しない歌手とその仲間たちに、きっと愛想が尽きているのだろう。
「帰るか」
ぼたんがダンボールを畳みながら言った。
「明日は別の店だってよ」
「はい……」
「初奈ちゃん、そんな顔しないの」
るるかが背中をさすってくれる。
「私たちの歌、届いてるわよ。今日も何人か立ち止まって聴いてくれたじゃない」
「でも、一枚も」
「まだ一週間よ」
るるかの声は優しくて、それがかえって胸に沁みた。
二週間目の水曜日も、結果は同じだった。
商店街のCDショップ。人通りは少なく、冬の風が容赦なく吹きつける。初奈は声がかすれるのも構わず歌い続けた。ぼたんもるるかも、今日は事務所のレッスンがあって来られない。一人きりの店頭ライブは、三人のときより何倍も心細かった。
ラジカセの音は風にかき消され、歌声は雑踏に溶けていく。誰も見ていない。誰も聴いていない。それでも初奈は、五歳の夏の日を思い出しながら歌った。あの拍手。あの「ありがとう」。それを胸に、ただひたすらに。
歌い終わって、深く頭を下げる。拍手はなかった。初奈はラジカセを止め、ダンボールを畳み始めた。今日も駄目だった。もう二週間、一枚も売れていない。
「お疲れさま」
CDショップの店主が、店の中から声をかけてきた。五十代くらいの男性で、この二週間ずっと迷惑そうな顔をしていた人だ。初奈はぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございました。お騒がせして申し訳ありません」
「いや、それはいいんだけどさ」
店主は少し気まずそうに頭をかいた。
「さっき、一枚売れたよ」
初奈は顔を上げた。
「……え?」
「だから、CD。一枚売れた。お前さんが歌ってる途中に、一人だけ立ち止まってた客がいてさ。歌が終わったら店に入ってきて、『あのCDをください』って。で、買っていった」
「誰が、ですか。どんな方でしたか」
店主は記憶をたどるように、首をひねった。
「さあ……あんまりよく覚えてないけど、学ラン着てたかな。学生さんだよ。たしかメガネをかけてたような、違ったような」
学ラン。メガネ。
初奈の胸が、どきんと大きく跳ねた。
(まさか)
「あの、それってどんな」
「いや、だからあんまり覚えてないんだって。悪いね。でも確かに売れたから。一週間後にまた集計に来てくれれば、ちゃんと数字に反映されてるはずだよ」
「……ありがとうございます」
初奈はぺこりと頭を下げた。心臓がうるさい。手が震えている。
学ランにメガネ。あの少年だろうか。先輩のライブで見かけて、発表会でも見かけて、いつも誰かに連れて来られているようだった、あの。でも、ここはあの子がいたライブ会場から遠く離れた郊外の商店街だ。偶然同じような格好の学生がいただけかもしれない。そう考えるほうが自然だ。
(でも、もし)
もし、あの少年だったら。
初奈は畳んだダンボールを抱えたまま、商店街の通りを見つめた。もう誰もいない。とっくに日は暮れて、古い街灯がぽつぽつと点っているだけだった。
一枚。
たった一枚。
でも、確かに売れた。
誰かが、初奈の歌を聴いて、CDを買ってくれた。
初奈はダンボールをぎゅっと抱きしめた。ぼろぼろと涙がこぼれて、ボール紙に染みをつくる。泣くつもりなんてなかったのに、嬉しさと、安堵と、名前のつけられない感情が一気に溢れてきて、止められなかった。
(売れた。私のCDが、売れた)
もしかしたら、あの少年かもしれない。違うかもしれない。でも、どちらでもいい。誰かが確かに、初奈の歌に手を伸ばしてくれた。それだけで、十分だった。
初奈は涙をぬぐい、ラジカセとダンボールを抱えて駅への道を歩き出した。空には星が瞬いている。一月の冷たい夜空だったけれど、胸の奥は不思議と温かかった。
(次も、頑張ろう)
まだ一枚。たった一枚。
でも、その一枚が、初奈の世界を確かに変えた。
【初奈の日記】
CDが発売されてから二週間、一枚も売れませんでした。
毎日、CDショップの前でラジカセを置いて歌う日々。ダンボールのステージは寒くて、誰も立ち止まってくれなくて、声が風に消えていくばかりでした。ぼたんさんとるるかさんが手伝いに来てくれた日は心強かったけれど、それでもCDは売れません。自分の歌に価値がないのかもしれないと、何度も思いました。
学園ではみんなが私を慕ってくれます。成績優秀で、品行方正で、名家のお嬢様。でも、その姿と、CDショップの前で誰にも見向きもされない自分とのギャップに、惨めになることもありました。
それでも、今日。
一枚だけ、売れました。
店主さんに「学ランの子だったかな」と言われて、胸がどきんとしました。もしかしたら、あの少年かもしれません。違うかもしれません。でも、誰かが確かに私の歌を聴いて、お金を払って、CDを買ってくれた。それだけで、涙が出るほど嬉しかった。
たった一枚。でも、その一枚が私にとっては、何百枚よりも重くて、大切な一枚です。
お母様。あなたの言葉を歌った私の歌が、初めて誰かに届きました。
まだ始まったばかりです。これからも、頑張ります。




