↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
11/54

サイリウム


「単独イベント?」


二月の終わり、九条プロデューサーから突然の通達があった。初奈はスタジオの隅でストレッチをしていたところだったが、その言葉に思わず顔を上げる。


「ええ。CDの売上を伸ばすために、あなたの単独イベントを開くことになったの。ミニライブと特典会。もちろん私たちもバックアップするし、場所ももう押さえてあるから」


「場所は、どこですか」


「郊外のショッピングモール。少し寂れてるけど、週末はそれなりに人が来るみたい」


九条は少しだけ言い淀んだ。多分、もっと大きな会場を用意したかったのだろうけれど、売れない新人に割ける予算はないということだ。


でも、初奈はそんなことを気にしなかった。自分の単独イベント。誰かの前座でも、合同発表会でもない、初奈だけのステージ。その響きだけで胸が弾んで、自然と笑顔がこぼれた。


「嬉しいです。精一杯やります」


「……そう言ってくれると思ったわ。櫻坂は本当に前向きね」


九条が少しだけほっとしたように微笑む。初奈はもう一度「ありがとうございます」と頭を下げて、スタジオの隅に置いたラジカセに手を伸ばした。今日も自主練だ。イベントに向けて、一曲でも多く、一音でも美しく。


イベント当日。空はあいにくの曇り空だったけれど、初奈の心は朝からずっと踊っていた。


会場は都内から電車で一時間ほど離れた、郊外の小さなショッピングモールだった。二階建ての細長い建物で、一階にはスーパーマーケットとドラッグストア、二階には百円ショップと書店、そして何店舗かはシャッターが下りたままになっている。週末だというのに人の姿はまばらで、通路を行き交うのは地元の高齢者ばかりだった。


桜坂家がショッピングに訪れるような場所では、決してない。政治家の妻や娘たちは、都心の百貨店か、あるいは海外のブティックでしか買い物をしない。初奈自身も、こうした大衆向けの商業施設に足を踏み入れるのは初めてだった。


それでも、ここが今日の初奈のステージだった。


モールの一階、中央の吹き抜けスペースに設営された簡易ステージ。といっても、それは店頭ライブと同じで、床に直接敷かれたグレーのカーペットと、バックパネルに貼られた手作りのポスターがあるだけ。音響はラジカセよりはましな小型のスピーカーが用意されていたけれど、それでもお世辞にも立派とは言えなかった。


「やっぱりこれだけかよ」


設営を手伝いながら、ぼたんがぼやいた。今日はオフだというのに、またもや手伝いに駆けつけてくれたのだ。


「仕方ないよ。初奈はまだソロになったばかりなんだから」


るるかがパイプ椅子を並べながらなだめる。もっとも、その椅子に座る人がいるのかどうかは、まだ誰にもわからなかった。


「お二人とも、本当にありがとうございます。今日はお休みなのに」


「当たり前だろ。初奈の初めての単独イベントだぞ。見逃せるわけがねえ」


「うふふ、私たちも楽しみにしてたんだから」


初奈は胸がいっぱいになって、二人に何度もお辞儀をした。衣装はあの日三人で縫った、桜色のブラウスに白いロングスカート。少しほつれているけれど、初奈にとってはどんな高級なドレスよりも大事な一着だった。


開演時間。


初奈はステージの脇に立って、そっと客席をのぞき込んだ。


誰もいなかった。


パイプ椅子はきれいに並んだまま、一つも埋まっていない。通りすがりの買い物客も、初奈のステージをちらりと見ては、そのまま通り過ぎていく。吹き抜けの天井からは、フロア全体に流れる有線放送のBGMが降り注いでいた。


「……時間だ」


ぼたんが小さく言った。時計の針はもう定刻を回っている。


初奈の手が震えていた。ドサ周りで味わったのと同じ、いや、それ以上にひどい緊張。あのときは少なくとも、三人で歌えた。でも今日は、本当に一人きりだ。


それでも。


(やらなきゃ)


誰も見ていなくても、ステージはここにある。初奈は震える手でマイクを握りしめ、カーペットの上に立った。スピーカーから、『はじまりのうた』のインストゥルメンタルが流れ出す。


そのときだった。


通路の向こうから、足音が聞こえた。


走っている。誰かが、全力で走っている。


初奈が顔を上げると、息を切らせた一人の少年が、通路の端から飛び出してきた。ぼさぼさの髪に、黒縁のメガネ。着ているのは見慣れた学ランで、手には百円ショップで買ったような安っぽいサイリウムが握られている。


間違いない。あの少年だった。


少年は初奈と目が合うと、ぴたりと足を止めて、それから慌てて俯いた。周りの買い物客たちが、珍しいものを見るような目で少年を見ている。休日のショッピングモールで、学ラン姿の男子学生がサイリウムを手に走ってくる。その姿は滑稽で、通りすがりの若いカップルがくすくすと笑った。


少年は顔を真っ赤にして、それでも逃げ出さなかった。ステージの正面、パイプ椅子の列の一番後ろに立つと、ぎこちなくサイリウムを折った。パキッという小さな音。先端がぼんやりと黄色に光り出す。振り方がわからないのか、ただそれを胸の前で両手に持ち、まるでお守りを掲げるみたいに立っている。


(来てくれたんだ)


初奈の胸の奥で、何かがはじけた。


あの日、CDを買ってくれたのは、本当にこの人だったのかもしれない。それどころか、先輩のライブで見かけたことも、発表会であの一瞬だけ目が合ったことも、全部が一気に頭の中を駆け巡る。


でも、今はそれよりも。


たった一人でも、聴いてくれる人がいる。


初奈はマイクを握り直し、息を吸い込んで、歌い始めた。


「聴いてください。『はじまりのうた』」


歌声が、がらんどうのショッピングモールに響いた。


天井が高いせいで音は散り散りになり、有線放送のBGMと混ざってしまいそうになる。それでも初奈は、声の限りに歌った。技術ではまだまだ及ばない。声量も足りない。でも、今はこの歌を届けたい。


『貴方に出会えて良かった、この世界が美しく見えるから』


サビが来るたび、初奈はまっすぐに少年を見つめた。彼は相変わらず、不器用な手つきでサイリウムを振っている。リズムはめちゃくちゃだった。腕の振り方もぎこちなくて、周りの見物人たちは「何あれ」「ダサくない?」とひそひそ笑っている。それでも少年は、顔を真っ赤にしながら、必死でサイリウムを振り続けた。初奈がどんなに遠くを見ても、どんなに声を張り上げても、その光だけは確かに揺れていた。


(ああ、これだ)


初奈は思った。


五歳の夏の日、庭で歌ったあの日。塀の向こうから聞こえた拍手も、手拍子も、『ありがとう』の声も。初奈がずっと探していたのは、こういうことだったのかもしれない。


誰かに届くこと。誰かが応えてくれること。


それだけで、こんなに世界が違って見える。


曲が終わった。


拍手は聞こえない。通りすがりの人たちはもうどこかへ消えていた。残っているのは、息を切らせた初奈と、サイリウムを握りしめたまま固まっている少年だけ。


初奈はマイクを下ろして、深く、深く頭を下げた。


「ありがとうございました」


顔を上げた瞬間、初奈ははっとした。


少年もまた、同じタイミングで深々とお辞儀をしていた。まるで示し合わせたみたいに、二人同時に。


(あ)


初奈は思わずくすりと笑ってしまった。少年はというと、自分も頭を下げていたことに気づいて、ますます真っ赤になって、ペコペコと何度もお辞儀を繰り返している。その姿があまりにも不器用で、真面目で、初奈は胸の奥がくすぐったくなるのを感じた。


(ちゃんと、お辞儀してくれた)


ステージの上の初奈と、たった一人の客である少年。二人だけの、妙な空間がそこにあった。


少年は何か言いたげに口を開きかけたが、結局何も言わず、もう一度だけお辞儀をして、逃げるように通路を駆け出した。黄色いサイリウムの光だけが、しばらく遠くに見えていて、それもやがて人混みの向こうに消えた。


「……ふふ」


初奈はマイクを胸に抱いて、しばらくそこに立っていた。客席はもう空っぽだったけれど、先ほどまでそこにサイリウムがあったことが、不思議なあたたかさを残していた。


(来てよかった)


誰に言うでもなく、心の中で呟いた。


片付けを終えた三人は、モールのフードコートで遅い昼食をとっていた。ぼたんは特大サイズのラーメンを啜りながら、むすっとした顔で言った。


「なんだ、やっぱり来たのか、あの学ラン」


「学ラン、ですか」


「前にも客席にいただろ。ぼさぼさ頭のメガネ。今日も来てたじゃねえか。お前、あいつの知り合いなのか」


「いいえ、一度もお話ししたことはないんです。ただ、先輩のライブや発表会でお見かけして。CDを買ってくれたのも、多分あの人です」


「なんだそれ。ストーカーか?」


「ち、違うと思います。ストーカーという感じじゃなくて、その、なんというか」


「なんだよ、はっきり言え」


「……真面目そうな、不器用そうな人だなって」


ぼたんはじとっとした目で初奈を見た。


「ふーん。まあ、あれだけサイリウムの振り方が下手くそだと、逆に印象に残るわな。今日なんて笑われてたぞ。それでも必死に振ってたけど」


「あれはあれで可愛らしいと思ったわ」


るるかがそっと口を挟んだ。


「きっと慣れてないのね。それでも、応援したいと思ってここまで来てくれた。素敵なことじゃない」


「るるかさん……ありがとうございます」


「それにしても、一人だけか。お客さん」


ぼたんがぼそりと言った。


「一人でも、来てくれたんです。私にとっては、それだけで十分すぎるくらいで」


「……まあ、そうだな」


ぼたんはラーメンのスープを飲み干して、空の器をテーブルに置いた。


「でも、次はもっと集めろよ。オレとるるか先輩も、また手伝ってやるから」


「はい。必ず」


初奈はうなずいて、冷めたフライドポテトを口に運んだ。正直、イベントの結果としては最悪だ。告知費もかけたのに、来場者はたった一人。売上も、おそらく物販はゼロだ。でも、初奈の心は弾んでいた。


あのサイリウムの光。ぎこちなくて、下手くそで、でも一生懸命な、小さな光。


それは確かに、初奈のために灯されていた。


【初奈の日記】


初めての単独イベントが終わりました。


郊外の小さなショッピングモールでの開催でした。桜坂家の人間が訪れるような場所ではなかったけれど、初めて自分の名前だけで開いたステージが、嬉しかった。開演時間になっても誰もいなくて、やっぱり駄目なのかと震えていた矢先、息を切らせてあの学ランの少年が走ってきた。


彼は百円ショップのサイリウムを持っていて、周りに笑われながらも、ずっと振り続けてくれた。リズムもめちゃくちゃで、振り方もぎこちなかったけれど、それでも必死に。歌が終わってお辞儀をしたら、彼も同時にお辞儀をしていて、なんだかおかしくて笑ってしまいました。


あの人は、一体どうして私の歌を聴きに来てくれるのだろう。まだ話したこともないのに、先輩のライブにも発表会にも、CDショップにも、そして今日も。もしかしたら、私と同じように、何かを探しているのかもしれない。


誰かにとっての「貴方」になりたいと願ってきたけれど、もしかしたら、もうすでに誰かにとっての「貴方」になれているのかもしれない。たった一人でも、そう思ってくれる人がいるのなら、私の歌には意味がある。


お母様。今日、私の世界に、初めて確かな色が灯りました。あの小さなサイリウムの光が、私にとっての『貴方』への道しるべなのかもしれません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。