フレー、フレー
あの日から、月に一度の単独イベントが初奈の新しい日常になった。
三月、四月、五月。季節が巡るたび、初奈は同じショッピングモールの同じ吹き抜けスペースに立った。パイプ椅子は相変わらず空席が多くて、多い日でも五人、悪けりゃ誰もいない日もあった。それでも初奈は、毎回精一杯の声で歌い続けた。
あの少年は、いつも来ていた。
開演に間に合わず息を切らせて駆けつける日もあれば、初奈が会場に着いたときにはもう隅の方で所在なさげに待っている日もあった。相変わらず百円ショップのサイリウムを握りしめて、不器用に振りながら聴いている。終われば二人で同時にお辞儀をするのが、いつの間にか恒例になっていた。
それでも、会話はなかった。名前さえ知らない。初奈が「あの」と声をかける前に、少年はいつも逃げるように去っていく。初奈はその背中を見送りながら、いつも胸のどこかがくすぐったくなるのを感じていた。
「また来てる」
ある日のイベントの片付け中、ぼたんがダンボールを畳みながら言った。今日は四人の来場者があり、その中に当然のように学ランの少年が混ざっていた。
「はい。毎回来てくださいます」
「あいつ、お前に一言も声かけずに帰るよな。物販も買わねえし、チェキも撮らねえ。ただサイリウム振って、お辞儀して終わり。あれだけ距離を詰めずに通い続けるって、逆にすげえと思うぞ」
「そうでしょうか」
「そうだよ。売れないアイドルに近寄って食い物にしようとする輩は腐るほどいる。ああ見えてこの業界、そういうので溢れてるんだ。でも、あいつからはそういう気配がしねえ。ただ純粋に、お前の歌が好きなんだろうな」
「……そうだといいな、と思います」
初奈が微笑むと、ぼたんは「ま、気をつけろよ」とだけ言って、それ以上は何も言わなかった。でも、ぼたんが滅多に人を褒めないことを知っている初奈には、その言葉が何より嬉しかった。
るるかも「うふふ、素敵なファンね」と言ってくれた。初奈はうなずきながら、少年が去っていった通路の方をそっと見つめた。次こそ話しかけたいと思うのに、いざとなると初奈も勇気が出なかった。
五月の半ば、聖クラウディア女学院は新緑に包まれていた。
放課後の教室で、初奈が教科書を鞄にしまっていると、学友である加藤樹里と数人のクラスメイトが近づいてきた。
「櫻坂さん、今度の土曜日、みんなで新しくできた喫茶店に行かない? 駅前の、すごくおしゃれなところなんだって」
「それ、雑誌にも載ってたよね。櫻坂さんが一緒なら、絶対楽しいと思うの」
「予約が取りにくいお店なんだけど、櫻坂さんのお名前があれば大丈夫かも、なんて」
苦笑しそうになるのを堪えて、初奈は静かに微笑んだ。
「お誘いありがとう。でも、土曜日は少し家の用事がありまして」
「あら、残念。じゃあまた今度ね」
クラスメイトたちは残念そうに、でも慣れた様子で引き下がっていく。初奈は心の中で「ごめんなさい」と謝りながら、鞄を抱えて教室を出た。
相変わらず、学校では「櫻坂さん」は人気者だった。テストでは常に上位、立ち居振る舞いは品がよく、それでいて気取らない。友人たちは初奈を慕ってくれて、しょっちゅう遊びやお茶に誘ってくれた。申し訳ないと思いながらも、初奈はほとんどを断っていた。土曜日はレッスンがあるし、日曜日はイベントの準備がある。それに何より、アイドル活動をしていることは絶対に知られてはいけなかった。
五月のイベントは、季節外れの暑さに見舞われた日だった。
ショッピングモールの空調は弱く、吹き抜けの天井からは容赦ない陽射しが降り注いでいる。初奈は汗をぬぐいながら、桜色の衣装でステージに立った。今日も客席はほとんど空で、用意したパイプ椅子に座っているのは高齢の夫婦一組だけ。それでも初奈は笑顔を絶やさず、『はじまりのうた』を歌い切った。
イベントが終わり、片付けをしようとしたときだった。
「よお、お嬢ちゃん」
声のした方を見ると、二人の男性が通路の柱にもたれて立っていた。一人は派手な柄シャツにサングラス、もう一人は痩せぎすで猫背の、薄気味悪い笑みを浮かべた男だった。年齢はどちらも三十代半ばくらいだろうか。このショッピングモールには似つかわしくない、場末の空気をまとった二人だった。
「君さあ、売れてないんだって? 俺たち、そういう子を応援するのが趣味でさ」
柄シャツの男がにじり寄ってくる。初奈は無意識に一歩後ろに下がった。胸の奥で警鐘が鳴っている。この人たちは、ぼたんが言っていた「食い物にしようとする輩」だ。
「今度さ、個人的にライブやらない? 俺たちが会場を手配してあげるよ。もちろん、打ち上げも豪華にさ」
「お嬢ちゃんみたいに清楚な子、俺ら好みだわ。絶対売れるって」
猫背の男が笑った。気持ちの悪い笑みだった。
「……お引き取りください」
初奈は精一杯の冷静さを保って言った。けれど声はかすかに震えていて、握りしめた両手も小刻みに揺れている。二人の男はそんな初奈を見て、ますます面白がるように口元を歪めた。
「つれないなあ。俺たち、君のためを思って言ってるんだよ」
柄シャツの男がさらに一歩近づいた。初奈はもう一歩後ろに下がろうとして、足がもつれた。そのときだった。
「ちょっと、何してるんですか」
通路の向こうから、数人の女性の声がした。初奈が顔を向けると、そこには見覚えのある制服姿の集団が立っていた。聖クラウディア女学院の生徒たちだった。加藤樹里と、その友人たち。買い物に来ていたのだろう、手にはショッピングバッグを提げている。
(見つかってしまった)
初奈の全身が凍りついた。ここが聖クラウディアの生徒が来るような場所でないことはよく知っていたはずなのに。郊外とはいえ、同じ都内だ。偶然の出会いがあってもおかしくはなかった。
加藤樹里は、じっと初奈を見ていた。桜色のブラウスに白いロングスカート。手にはマイク。周りにはダンボールとラジカセ。そして、チャラついた男二人。
(櫻坂さん、なんでこんなところで)
心の声が聞こえてくるかのようだった。
初奈は何かを言おうと口を開きかけた。でも、言葉が出なかった。なんと説明すればいいのか。家の用事があると嘘をついて断った土曜日に、こんな場所で歌っている理由を。違うんです、これはその、と心の中で言い訳を探したけれど、声にならなかった。
佐伯真由は、初奈から目を逸らした。そして友人たちに耳打ちをすると、くるりと背を向けた。その横顔に浮かんでいたのは、紛れもない軽蔑の色だった。去り際、誰かが「趣味悪くない?」と小さく言い、もう一人が「見間違いだよね、きっと」と返すのが聞こえた。
佐伯は何も言わなかった。それが、一番堪えた。
(やっぱり、知られてはいけなかったんだ)
聖クラウディアでは、アイドルなんて軽蔑の対象でしかない。クラスメイトたちが話していたのを何度も聞いた。「品がない」「教育が足りない」「まともな家庭の子女がやることじゃない」と。今、その「軽蔑すべきアイドル」が、よりによって自分たちの憧れの「櫻坂さん」だったのだ。佐伯たちは初奈を軽蔑したのではない。もっと悪いことに、無視した。見なかったことにした。それが何よりの答えだった。
「なんだ、お嬢ちゃんの知り合い? 逃げていったけど」
柄シャツの男がまた声をかけてくる。初奈はもう返事をする気力もなく、ただ俯いていた。
そのときだった。
通路の遠くから、バタバタという足音が聞こえてきた。初奈が顔を上げると、いつもの学ラン姿が息を切らせて走ってくる。今日も髪はぼさぼさで、メガネはずり落ちそうになっていて、額には汗が光っている。
(来てくれたんだ)
少年は初奈の前に立つと、一瞬だけ、男二人の方をちらりと見た。それから、手に持ったままのサイリウムをぎゅっと握りしめて、大きく息を吸い込んだ。
「フレーッ! フレーッ! は・つ・な!」
少年の声が、がらんどうのショッピングモールに響き渡った。
それは少し裏返っていて、リズムも音程もめちゃくちゃで、近くにいた買い物客が驚いて振り返るほどの大声だった。でも、少年は構わなかった。「フレーッ! フレーッ! は・つ・な!」と、もう一度、今度はさっきよりさらに大きな声で叫ぶ。
通行人が足を止めた。高齢の夫婦が何事かと振り返る。若いカップルがくすくすと笑う。「何あれ」「ダサくない?」「またあの子だよ、毎月いるらしいよ」と、ひそひそ声があちこちから聞こえた。
それでも少年は叫び続けた。顔は真っ赤で、声はもう掠れかけている。サイリウムを振る手も震えている。明らかに、こういうことをするのに慣れていない。でも、それでもやめなかった。
「フレーッ! フレーッ! は・つ・な!」
その声に引き寄せられるように、少しずつ人が集まってくる。十人、二十人と、野次馬が増えていく。あっという間に、ステージの周りはちょっとした人だかりになっていた。
柄シャツの男が舌打ちをした。
「なんだよこいつ、ウゼえな。行くぞ」
二人の男は、集まってきた人混みに紛れるようにして、そそくさと立ち去っていった。猫背の男も小走りにその後を追い、二人の姿はあっという間に見えなくなった。
初奈は呆然と立ち尽くしていた。胸の奥が熱くて、喉の奥が震えている。マイクを握りしめた指先が、かすかに痙攣していた。
少年は男たちがいなくなったのを確認すると、ようやく声を止めた。息が上がっていて、肩で大きく呼吸をしている。メガネは汗で曇り、ぼさぼさの髪はさらに乱れていた。
(この人が、私を)
守ってくれたのだと気づくのに、少しだけ時間がかかった。
初奈が口を開くより先に、少年はぺこりと深々とお辞儀をした。いつものように、二人同時に。まるで「今日も聴きましたよ」と伝えるみたいに。それから顔を上げることもなく、人混みの中を縫うようにして逃げていった。学ランの背中が、人垣の向こうに消えていく。
初奈はただ立ち尽くして、その背中を見送った。
(まだ、名前も聞いていないのに)
初奈は気づけば、唇が震えていた。目の奥が熱くなって、視界がじわりと滲む。泣きそうになるのを堪えて、ぎゅっと唇を噛みしめた。
(次こそ、ちゃんと話そう)
まだ見ぬ『貴方』。それは誰かまだわからない。でも、あのサイリウムの光が、不器用な声援が、どうしようもなく初奈の心を揺さぶっていた。
【初奈の日記】
今日も月に一度のイベントがありました。客席は相変わらずまばらで、誰も立ち止まらない。それでも、あの学ランの人は今月も来てくれました。彼は名前も名乗らず、会話もせず、ただサイリウムを振って、終わればお辞儀をして帰っていく。ぼたんさんは「食い物にしようとしない、純粋なファンだ」と言ってくれて、私もそうだと思います。
でも、今日は嫌なこともありました。イベントが終わったあと、二人の男性に絡まれてしまいました。いわゆる、ぼたんさんが言っていた「食い物にしようとする輩」だったのだと思います。怖くて、どうしていいかわからなかった。そのとき、偶然学園の友人たちが通りかかりました。佐伯さんたちです。彼女たちは私を見て、軽蔑するような目で去っていきました。見間違いだと言ってくれた人もいたけれど、あの目はきっと、私に向けられたものだと思います。悲しかったけれど、それが現実なのだと受け入れるしかありません。
でも、そのあとです。彼が、あの学ランの人が息を切らせて駆けつけてきました。そして叫んだのです。「フレーッ! フレーッ! は・つ・な!」と。大きな声で、何度も何度も。通行人は笑っていました。「ダサい」と。それでも彼は叫び続けてくれました。人が集まり、二人の男性は去っていきました。彼は私を守ってくれたのです。
私はまだ彼の名前を知りません。次こそ話しかけたいのに、彼はいつもお辞儀だけして逃げていってしまう。いつかきちんとお礼を言いたい。そう思います。
お母様。私はまだ、売れないままです。それでも、たった一人のあの光があるから、歌い続けられます。




