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それでも、私だから


翌朝、初奈はこれまでにないほどの不安を抱えて登校した。電車に揺られている間も、校門をくぐるときも、心臓はうるさいままだ。イベント会場に加藤さんたちがいた。自分の姿を、見られてしまった。あの軽蔑するような視線。それが何よりも雄弁に、事態の深刻さを物語っていた。


学園に着くと、初奈はなるべく静かに、目立たないように教室へ向かった。


「おはよう、桜坂さん!」


「おはよう、今日もいい天気だね」


「桜坂さん、次の授業の予習した? 私、難しくてぜんぜんわかんなくて」


それが、いつもと変わらぬクラスメイトたちの反応だった。


初奈はわずかに戸惑いながらも、いつものように曖昧に微笑んだ。


「おはようございます。予習は、はい、一応。でも、私も完璧ではないので、一緒に考えましょう」


「さすが桜坂さん! 助かる!」


加藤さんもまた、いつも通りだった。


「桜坂さん、試験終わったら、前に言ってた喫茶店、行こうね!」


「……はい。楽しみにしています」


初奈が答えると、加藤さんは嬉しそうに笑って自分の席に戻っていった。あの昨日の軽蔑するような視線は、なんだったのだろう。気のせいだったのか。それとも、見て見ぬふりをしてくれているのか。


どちらにしても、この日常がまだ続くことに安堵している自分がいた。同時に、いつ終わるとも知れない曖昧な現状に、心のどこかで怯えている自分もいた。


その日の放課後、初奈は事務所のスタジオでぼたんとるるかに、昨日の出来事をすべて話した。二人組の男に絡まれたこと、クラスメイトに見られたかもしれないこと、そして、あの少年が叫んでくれたこと。


「なんだその助け方」


最初に口を開いたのはぼたんだった。しかも、笑っている。


「フレーフレーって、応援団かよ。この時代に学ランで、サイリウム折って。ダサすぎる」


「で、でも、すごく必死で」


「わかってるよ。ダサいけど、かっけえよ、そいつ」


ぼたんは笑うのをやめて、少しだけ真剣な目をした。


「その場にいなかったオレが言うのもなんだけどよ、普通、ああいう場面で叫べるか? 周りに笑われるのわかってて、自分が恥かくのわかってて。オレ、男って基本嫌いだし、特にそういうアイドルオタクっぽいのって生理的に無理なんだけどよ。でもそいつだけはなんか、いいな」


「あらあら、ぼたんちゃんが男の人を褒めるなんて。明日は雪かしら」


「うるせえ。るるかだってそう思っただろ」


「そうねえ」


るるかは小さく笑って、初奈のほうを向いた。


「私はね、誰かのために恥をかける人って、本物だと思うの。だって、恥をかくってことは、それだけ本気だってことでしょう。格好悪くても、笑われても、それでもやる。なかなかできることじゃないわ」


「るるかさん……」


「うふふ。初奈ちゃん、いい人に見つけてもらったわね」


初奈は胸がいっぱいになって、何も言えなかった。ただ深くうなずいた。男嫌いな二人が揃って褒めてくれたこと、それがたまらなく嬉しかった。


しかし、その温かな時間は、すぐに終わりを告げた。


スタジオのドアがノックされ、九条さんが顔を覗かせた。その表情はいつにも増して硬い。嫌な予感がした。


「初奈、ちょっと来てくれる。社長が呼んでいるの」


社長室の重いドアを開けると、氷川社長がいつものようにデスクの向こうで待っていた。しかし、今日の空気は明らかに違っていた。社長の機嫌が悪いことは、部屋に入った瞬間にわかった。


「桜坂くん、君に話がある」


「はい」


「単刀直入に言おう。君はまだ売れていない。CDの売上は散々だ。イベントをやっても人は集まらない。いつまでそのつもりだ」


初奈は黙って聞いていた。それはすべて事実だったから。


「だが、先日のイベントで君の動画がネットに上がった。正確には君ではなく、あの学ランの少年の動画だ。『アイドルのために叫ぶ変なやつ』として、少しだけ話題になっている。そしてついでに、君の顔も少しだけ世間に知られた。ここが狙い目だ。事務所としても次の手を打つ」


社長は薄く笑った。


「まず、あの学ランは出禁にする。イベントへの出入りを禁止しろ」


初奈は自分の耳を疑った。


「なぜ、ですか。あの人は、ただ私の歌を聴きに来てくれているだけで」


「ああいうタイプは、長期的に見てイメージが悪い。いわゆるキモオタというやつだ。一人にああいうのがつくと、他のファンが寄りつかなくなる。わかるな」


「キモ……オタ」


初奈は声を震わせた。社長は、あの人の何を知っているのだろう。名前も知らないのに。顔も、声も、真っ直ぐな心も。何一つ見ていないくせに。


「それから、君の売り出し方についてだ。桜坂くん、君は顔もいいし、スタイルも悪くない。体型は細身だが、肌は綺麗だし、もっと見せれば必ず需要がある。握手会をしろ。それも、できるだけ露出の多い衣装でな。ファンは君に触れたがっているし、君の身体が見たいんだ。特にこの界隈のファン層は、清純派に見えるお嬢様が実はちょっとセクシーだってギャップに弱い」


「握手会……」


「そうだ。それが普通だ。君が特別じゃない。特別なのは君の育ちだけだ。その育ちを最大限に利用しろ」


吐き気がした。


目の前の人間は、自分の身体までも「商品」としてしか見ていない。着飾って、露出して、笑顔を振りまいて、知らない誰かに触られて。そうすれば、少しは売れるのかもしれない。


でも、それは自分の望んだアイドルなのだろうか。


そんなことのために、お母様の言葉を歌にしたのだろうか。


気がつくと、初奈は立ち上がっていた。両手は強く握りしめられ、爪が掌に食い込んでいる。心臓は痛いくらいに脈打っていた。


「……嫌です」


声は震えていなかった。


「出禁にはさせません。それに、私は自分の身体を売り物にするつもりもありません。握手会を否定はしませんが、少なくとも今の私には、そんな資格も覚悟もない。私は、私の歌を聴いてほしいだけです。ただそれだけなんです」


「ほう。君は自分の置かれた立場がわかっていないようだな」


「いいえ、あなたこそ、私の何がわかるんですか」


社長室の空気が、一気に冷え込んだ。氷川社長の目が細められ、部屋の温度が数度下がったような錯覚を覚える。


「君のような小娘にわかるはずがない。これはビジネスだ。ビジネスに感情を持ち込むな」


「ビジネスでも、私は私です。誰かに利用されるためにここにいるわけじゃない。お母様の言葉を、誰かに届けたい。ただ、それだけなんです」


「母親だと? そんなものが何の価値を持つ。死んだ人間の言葉に、一体いくらの値段がつく」


その言葉は、ナイフよりも鋭く初奈の心臓を貫いた。


一瞬息が詰まる。目の前が真っ白になった。大切な人を踏みにじられ、あの言葉まで穢された気がした。


それでも、初奈は顔を上げた。


「……もう、よろしいでしょうか」


深く頭を下げると、返事も待たずに踵を返し、社長室を後にした。背中に刺さる冷たい視線を感じながら、それでも初奈は涙をこらえて廊下を歩いた。


階段の踊り場で、初奈は立ち止まった。膝が震えて、その場にしゃがみこみそうになる。


私は、間違っているのだろうか。


お母様の言葉を歌うために、それ以外のすべてを犠牲にしろと言うのだろうか。


違う、と思った。絶対に違う。


歌で人を幸せにできると教えてくれたのは、他でもないお母様だ。自分の生き方は、誰かに決めさせるものじゃない。


初奈はポケットから、あの日拾ったサイリウムを取り出した。もう光は消えているけれど、それは誰かが本気で振ってくれた証だった。


「私は……私だから」


小さく呟く。その言葉は誰にも聞こえなかったけれど、確かにそこにあった。ぶれない芯が、心の真ん中に。


たとえ今は売れなくても、たとえ誰かに笑われても、自分の歌を聴いてくれる人がいる。自分が届けたい言葉を受け取ってくれる人がいる。それだけで、十分だった。


夜、初奈は自室の窓辺に立っていた。カーテンを開けると、庭の白いバラが月明かりに照らされて青白く浮かび上がっている。お母様が大切に育てていたバラだ。今年もまた、蕾をつけようとしていた。


初奈はそっと窓を開けた。冷たい夜風が部屋に流れ込んで、机の上のノートがぱらぱらとめくれる。春はまだ遠い。けれど、確かに近づいている。


初めて「嫌です」と、自分の言葉で拒否した。怖かったけれど、言わなければならないことだった。社長はきっと、これからもっと冷たくなるだろう。立場はさらに悪くなるかもしれない。それでも構わない、ともう決めていた。


しかし、社長があの学ランの人を「キモオタ」と呼んだことだけは決して許せなかった。あの人は、ただ不器用なだけだ。それなのに。絶対に守らなければいけない。私の歌を聴いてくれる、たった一人のあの人を。


ノートの端に、誰に見せるでもない言葉をそっと書く。


きっといつか、あの人に伝えたい。「ありがとう」だけじゃ足りない、もっとたくさんの言葉を。そう思った。


---


初奈の日記


三月十五日 晴れ


今日、社長に呼ばれた。あの学ランの人を「出禁にしろ」と言われた。「イメージが悪いから」だそうだ。それから、もっと露出の多い服で握手会をしろとも言われた。


初めてはっきりと「嫌です」と言った。声が震えていたけれど、自分の言葉で断ることができた。これで何かが終わるかもしれない。でも、それでいいと思った。私の歌には、お母様の言葉が詰まっている。その言葉を、そんな形で売りたくはない。


守らなければと思う。あの人のことも、私自身のことも。


おやすみなさい、お母様。今日は少しだけ、自分を誇りに思えます。

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