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名前



六月に入り、街は梅雨の気配に包まれていた。聖クラウディア女学院の渡り廊下にも、しとしとと雨が降り注いでいる。


「櫻坂さん、今日こそ大丈夫? 前に約束した喫茶店、ようやく予約が取れたの」


加藤樹里が声をかけてきた。あのショッピングモールでの一件以来、彼女は何も言わない。見なかったことにしてくれているのだろうか。それとも、本当に初奈だとは気づかなかったのか。どちらにしても、こうして変わらず誘ってくれることがありがたかった。今日はたまたまレッスンもイベントもない、久しぶりの完全なオフだった。


「はい、今日は大丈夫です。ぜひご一緒させてください」


「やった! じゃあ放課後、正門で!」


樹里は嬉しそうに笑って、自分の席に戻っていく。初奈も微笑みを返した。たまには、普通の高校生らしい放課後を過ごすのも悪くない。


駅から少し歩いた先に、その喫茶店はあった。古い商店街の一角をリノベーションした、落ち着いた雰囲気のカフェだ。店内には観葉植物が飾られ、アンティークの家具が配置されている。コーヒーの香ばしい匂いと、焼き菓子の甘い香りが漂っていた。


「素敵なお店ですね」


初奈が素直に感想を漏らすと、樹里がメニューを開きながらうなずいた。


「でしょ? スイーツもすごく評判なんだって。でもね、こんな下町にあるのが意外だよね。もっと洗練されたエリアにあってもおかしくないクオリティなのに」


「確かに、もう少し都心にあれば、もっと流行っていたかもしれませんね」


「そうそう。でも、このギャップがいいのかも。隠れ家的で」


友人たちが楽しそうに話すのを聞きながら、初奈は紅茶を一口含んだ。アールグレイの華やかな香りが、ふわりと広がる。


ふと窓の外に目をやると、見覚えのある姿が通りを歩いていた。ぼさぼさの髪に黒縁のメガネ。今日も学ラン姿だ。あの少年だった。彼は小さなリュックを背負って、せかせかとした足取りで歩いている。手にはコンビニのビニール袋を提げていて、中にはカップ麺とおにぎりが見えた。


(こんなところで)


初奈の視線に気づいたのか、少年がふと立ち止まった。そして喫茶店の窓越しに初奈を見つけると、一瞬びっくりしたように目を見開いて、そのまま固まってしまった。初奈がそっと会釈をすると、少年は慌ててぺこぺこと何度もお辞儀を返してから、逃げるように立ち去ろうとした。そのときだった。


「達也! お前、今日もバイトかよ」


通りを自転車で走ってきた別の少年が、彼に向かって声をかけた。同じくらいの年齢の、快活そうな男子学生だった。あの学ランの人、達也というのか。初奈は紅茶のカップを口元に運びながら、耳を澄ませた。


「うん、まあ」


「まあって、お前最近バイトばっかじゃねえか。土日も全然遊ばねえし。金貯めて何すんの」


「……応援したい人が、いるんだ」


その言葉に、自転車の少年がぱあっと顔を輝かせた。


「へー! なんだよ、推し活ってやつか!」


「ま、まあね」


「浅見達也の初推したんじょー!」


「か、揶揄わないでよ、もう!」


達也と呼ばれた少年は、ぼさぼさの髪の下で耳まで真っ赤にしている。それでも、まんざらでもなさそうに口元がほころんでいた。


(浅見、達也……)


初奈は心の中でその名前をそっと繰り返した。ようやく知った、あの人の名前。応援したい人がいる、と彼は言った。バイトまでして、お金を貯めて。それって、もしかしたら。


「櫻坂さん、どうしたの? 外ばかり見て」


樹里に声をかけられて、初奈ははっとした。


「いえ、少しぼんやりしてしまいました。すみません」


窓の外を見ると、もう達也の姿はなかった。自転車の友人と一緒に、雨上がりの通りを歩いていったらしい。


浅見達也。初めて知った彼の名前を、初奈は何度も心の中で呟いた。会話もしたことがないのに、名前を知っただけで、少しだけ距離が縮まったような気がした。やっぱり今度こそ、ちゃんとお礼を言わなければ。


週明け、初奈は九条プロデューサーに呼ばれて事務所の会議室に向かった。中では九条が手帳を開いて、何やら難しい顔をしている。


「櫻坂、次のイベントに向けて、あなた自身のグッズを作ってほしいの」


「私の、グッズですか」


「そう。CDだけじゃなくて、ファンが手に取りやすい価格帯のグッズがあると、物販の売上が見込めるの。ただ、正直に言うと、あなたに割ける予算はほとんどなくて」


九条は申し訳なさそうに言った。


「資材費だけなら、なんとか捻出できるんだけど、業者に発注するほどの額じゃないの。だから、もし可能なら」


「手作りでよければ、私が作ります」


初奈は迷わず言った。衣装のときに針と糸を握った手が、まだ覚えている。九条は少し驚いた顔をしたが、すぐに微笑んだ。


「……そう言うと思ってたわ。じゃあ、お願いしていい? 数は、まずは三十個くらいから」


「はい。やってみます」


その夜、初奈は寮の自室に資材を広げた。九条から受け取った封筒には、アクセサリー用のビーズとワイヤー、それから透明の台紙と包装用の袋。それほど多くはないけれど、確かに預かったお金だ。アクリルキーホルダーや缶バッジを発注する余裕はないけれど、手作りのアクセサリーなら、なんとか形にできるかもしれない。


デザインは自分で考えた。小さな星のモチーフ。『星空のプロローグ』と、新曲『はじまりのうた』。そのどちらにも、星や光のイメージが込められている。それから、もう一つ。控えめな桜の花びら。これは自分の名前から。


「……難しい」


ワイヤーを曲げて星の形を作るのは、想像以上に細かい作業だった。何度も失敗して、指先がビーズの跡で赤くなる。それでも、初奈の手は止まらなかった。衣装を作ったときのことを思い出す。あのときも、夜遅くまで針を握りしめて、指を刺して、それでも楽しかった。


「誰かの手に渡るものを作るのって、歌に似てる」


初奈は小さく呟いて、また一つ、星を形作った。


数日後、スタジオの休憩時間に、初奈は完成したアクセサリーをぼたんとるるかに見せた。小さなビーズの星と、ピンクの桜の花びらを組み合わせた、ストラップにもなるブローチだ。


「いいじゃねえか」


ぼたんが一つ手に取って、まじまじと眺めた。


「一個一個、全部手作りなんだろ。すげえな、お前、いつの間にこんなの作れるようになったんだ」


「衣装を作ったときより、ずいぶん上達したわね」


るるかも嬉しそうに言った。


「初奈ちゃんの手先の器用さは、最初から感じていたけれど、ここまでとは思わなかったわ。星の形も、桜の花びらも、初奈ちゃんらしくてとても可愛い」


「ありがとうございます。でも、まだまだです。もっと綺麗に作れるように練習します」


初奈は照れくさくなって俯いた。でも、二人に褒めてもらえたことが、何よりも嬉しかった。


「これ、三十個作るんだろ。一個いくらで売るんだ」


「……まだ決めてないんです。あまり高くできないし。五百円くらいかなと」


「安すぎねえか。手間賃考えたら赤字だろ」


「でも、学生さんが買うことを考えたら、あまり高くは」


「まあ、いいんじゃねえか。その分、数で勝負だな」


ぼたんはそう言って、手にしたブローチをそっと台紙に戻した。


(三十個、全部売れるだろうか)


CDがようやく数枚売れたくらいだ。グッズを買ってくれる人がいるかどうか、まったくわからない。でも、作るしかなかった。これが、今の初奈にできる精一杯の「結果を出す」方法だった。


(達也くんは、買ってくれるかな)


ふと、そんなことを思う。浅見達也。ようやく名前を知った、たった一人の、確かなファン。いつも物販には並ばない人だった。たしか前に事務所の先輩のCDばかり買っていたと言っていたのは、多分、彼のことだ。彼は自分のためではなく、先輩たちのCDを買うことで、間接的に事務所に貢献しようとしていたのかもしれない。でも、今度は初奈自身のグッズがある。


(次こそ、声をかけよう)


名前を呼ぼう。ありがとうと伝えよう。そして、この星のブローチを、一番に手渡したい。


【初奈の日記】


今日は嬉しいことがありました。学友と入った喫茶店の窓から、偶然あの人を見かけました。友人が「達也」と呼んでいて、初めて名前を知りました。浅見達也くん。そういう名前なのだそうです。


「応援したい人がいるんだ」と、友人に話しているのも聞こえました。それから「推し活」だとからかわれて、真っ赤になって照れていました。その様子を見て、胸の奥がほっとあたたかくなったのを覚えています。彼は私のために、バイトまでしてお金を貯めて、あのサイリウムを買って、遠くのショッピングモールまで通ってくれているのかもしれない。


それから、自分のグッズを作ることになりました。予算がなくて、資材費だけをいただいて、あとは手作りです。星と桜の花びらをモチーフにした小さなブローチを作りました。ぼたんさんとるるかさんが褒めてくれて、とても嬉しかった。まだ三十個、ちゃんと売れるかはわからないけれど、全部私の手で作ったものです。これを手に取ってくれる人がいるなら、その一人ひとりに、ちゃんと「ありがとう」を伝えたいと思います。


達也くんは買ってくれるだろうか。もし買ってくれたら、そのときこそ、声をかけたい。私の歌を聴きに来てくれてありがとう、と。それから、イベントのときに助けてくれたお礼も。


名前を知っただけで、なんだか世界が少し広がった気がします。次に会えるのが、待ち遠しいです。

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