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七月のイベントは、蒸し暑い曇り空の下で始まった。
ショッピングモールの吹き抜けに、今日も初奈の手作りポスターが貼られている。パイプ椅子は相変わらずほとんど埋まらず、通りすがりの買い物客がちらりと見ては去っていく。それでも初奈は、いつもと変わらぬ笑顔でステージに立った。
今日はぼたんとるるかが、物販の売り子を買って出てくれていた。ステージ脇に置いた小さなテーブルの上に、初奈が一ヶ月かけて作った三十個の星と桜のブローチを並べる。ついでに、これまで売れ残っていたCDも何枚か。
「へへ、売り子は任せとけ。オレが接客すれば、どんなやつでも財布の紐が緩むってもんだ」
「うふふ、ぼたんちゃんがそんなこと言うなんて珍しいわね」
「るるか先輩だって、なんだかんだノリノリじゃないっすか」
三人で笑い合いながら、開場の準備を進める。客は少ないけれど、それでも誰かが来てくれるなら、精一杯の笑顔で迎えたいと思う。
開演時間が近づき、初奈がステージに立とうとしたときだった。通路の向こうから、見慣れた学ラン姿が歩いてくるのが見えた。
(達也くんだ)
初奈の胸が小さく跳ねる。でも、今日の彼は一人ではなかった。隣には二人の若い男性がいる。一人は長身で細身、もう一人は小太りで眼鏡をかけている。どちらも二十歳前後だろうか。二人とも「ドル研」と大書された派手なTシャツを着ていた。背中には「アイドル研究会」の文字。胸には推しの写真がプリントされている。
「達也氏、ここが例のショッピングモールでござるか」
長身の男性が芝居がかった口調で言った。
「初めて推しができた後輩の応援に、こうして馳せ参じた甲斐があるというもの。なあ伊藤氏」
「まさにそれでござるよ田中氏。しかし達也氏、そなたがそこまで入れ込むとは、よほどの逸材とお見受けする。あとでみっちりレクチャーを受けるがよい」
小太りの男性がふむふむとうなずく。達也はそんな二人の間で、耳まで真っ赤になって俯いていた。
「お、お二人とも、からかわないでください。それに、そんな大声で言わなくても」
「なにを申すか達也氏! 推しを前にして声を張らぬなど、オタクの名折れ。これなるは戦場ぞ。心してサイリウムを振るがよい!」
そう言って田中先輩が達也の背中をばしばしと叩く。初奈はその様子をステージの上から微笑ましく眺めていた。どうやら彼は今日、先輩たちを連れてきてくれたらしい。それだけで、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。
開演と同時に、初奈は『はじまりのうた』を歌い始めた。相変わらず客席に人はまばらだったけれど、達也が百円ショップのサイリウムを振り、二人の先輩が派手なオタ芸で盛り上げてくれる。田中先輩はキンブレと呼ばれる高価なサイリウムを自在に操り、伊藤先輩は息の合ったコールを入れている。達也だけが相変わらず不器用だったが、今日は少しだけリズムが合っていた。
歌が終わり、初奈が深く頭を下げる。拍手は少なかったけれど、それでも確かに、誰かに届いた実感があった。
ライブが終わると、物販コーナーに人が流れる。
ぼたんとるるかはすでに「ルナシエル」として活動を始めていて、正式なデビューはまだ先だが、業界内での評判は高まりつつあった。今日は初奈のイベントの手伝いということで、二人のグッズも少しだけ販売されている。
田中先輩と伊藤先輩は、物販テーブルを見つけるなり目を輝かせた。
「おおっ! これはこれは百合咲ぼたん殿に神崎るるか殿! お二方とも、一段と輝きを増しておられる!」
「ルナシエルのお二人が売り子とは、これは大変貴重な機会。CD三枚にクリアファイル全種、それからアクスタも全種、全部いただくでござる!」
二人は矢継ぎ早にまくしたてると、ぼたんとるるかのグッズを片っ端から買い漁っていった。ぼたんは「あざーす」とクールに対応しながらも、まんざらでもなさそうだ。るるかは「うふふ、ありがとう。大事にしてね」と優しく微笑んで、握手を求められると快く応じていた。
その隣で、初奈は自分のグッズを前にして立っていた。星と桜のブローチ、三十個。それからCDが数枚。物販が始まって十分が経っても、初奈の前には誰も並ばない。隣ではぼたんとるるかの列ができているというのに、初奈のテーブルはひっそりとしていた。
(やっぱり、私のグッズには誰も興味がないのかな)
そんなことを考えていると、人混みの中から、ぼさぼさの髪の学ラン姿が現れた。達也だった。
彼は初奈の前まで来ると、一度立ち止まって、真っ赤な顔で俯いた。そして恐る恐る、指を三本立てて言った。
「あ、あの……全部、ください」
初奈は一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「……全部、ですか?」
「はい。あ、あの、グッズ、これ、ぜんぶ。それとCDも、全部」
達也は、テーブルの上のブローチ三十個と、残っていたCD五枚を指さした。初奈がぽかんとしていると、後ろから田中先輩と伊藤先輩がニヤニヤしながら近づいてくる。
「達也氏、やりおったでござるな!」
「あれだけバイトを詰め込んでおったのは、この日のため。まさに漢の買い物。あっぱれでござる!」
「だからやめてくださいって!」
達也は耳まで真っ赤にして叫んだが、先輩たちはおかまいなしだ。伊藤先輩が初奈に向かって丁寧に一礼した。
「初奈殿、どうかご容赦を。この達也氏、口下手ゆえ直接お伝えできておりませぬが、毎度毎度、それはもう貴殿の歌を楽しみにしておるのでござる」
「伊藤先輩!」
「初奈殿が初めての推し。だからこの純情、どうか受け取ってやってほしいのでござる」
「もうやめてくださいってば!」
初奈は、気がつくと笑っていた。くすくすという小さな笑いが、自然とこぼれてくる。だって、全部買うなんて。そんなの、一人でどうするんだろう。ブローチだって、三十個もあるのに。
「あ、あの、笑わないでください……」
「ごめんなさい。笑っているわけじゃないんです。ただ、嬉しくて」
初奈は笑顔のまま、ブローチを一つ一つ、丁寧に袋に詰めていった。CDも一緒に、手提げ袋に入れる。ずっしりと重たくなった袋を、両手で達也に差し出した。
「ありがとう、達也くん」
名前を呼ばれて、達也の肩がびくんと跳ねた。目を見開いて、初奈の顔を凝視する。メガネの奥の瞳が、驚きと戸惑いと、ほんの少しの喜びで揺れていた。
「な、名前、知ってたんですか、僕の」
「……この前、たまたまお見かけしたときに」
それだけ言うと、達也はますます茹で蛸のように赤くなった。あのとき喫茶店の窓から見ていたなんて言ったら、きっとこの人は爆発してしまうだろう。俯いたり顔を上げたり、口を開きかけたり閉じたりを繰り返している。
「あ、ありがとう、ございます。その、なんていうか」
言葉になっていなかったけれど、それで十分だった。達也は袋をぎゅっと胸に抱えて、ぺこりとお辞儀をした。初奈も同じように、深くお辞儀を返す。いつもの、二人だけの習慣。
でも今日は、いつもと少しだけ違った。初奈はお辞儀をしながら、もう一つだけ言葉を添えた。
「次もまた、聴いてくださいね」
達也は顔を上げて、何度も、何度もうなずいた。それから二人の先輩に「行くぞ達也氏!」と呼ばれて、抱えきれないほどの袋を提げて、通路を走り去っていく。その後ろ姿を見送りながら、初奈はもう一度、小さく笑った。
(全部、私のグッズだけを買ってくれたんだ)
隣ではぼたんが腕を組み、呆れたような、それでいて少しだけ感心したような顔で呟いた。
「……相変わらず、極端なやつだな。三十個って、どう考えても使い道ねえだろ」
「うふふ、そういうことじゃないのよ」
るるかが柔らかく言った。
「多分あの子は、初奈ちゃんを『応援したい』だけなの。何個必要とかじゃなくて、全部欲しかったのね。素敵じゃない」
初奈は何も言わず、空っぽになったテーブルの上をそっと撫でた。一ヶ月かけて作った三十個の星と桜は、今、すべて彼の手の中にある。これが誰かの手に渡るというのは、歌が誰かの耳に届くのに少し似ている気がした。
【初奈の日記】
今日のイベントは、相変わらず人は少なかったけれど、とても特別な一日になりました。
達也くんが来ました。しかも今日は、学校の先輩らしきお二人と一緒でした。「田中先輩」「伊藤先輩」と呼んでいて、「ドル研」というシャツを着ていました。アイドル研究会、だそうです。お二人はとても慣れた様子で、オタ芸もコールも完璧で、頼もしかったです。達也くんは相変わらず不器用でしたが、それでも一生懸命サイリウムを振っていて、なんだか今日はいつもよりリズムが合っていた気がします。
ライブ後の物販で、田中先輩と伊藤先輩は、ぼたんさんとるるかさんのグッズをたくさん買ってくださいました。でも達也くんは、私のグッズだけを全部買ってくれました。三十個のブローチと、残っていたCD五枚。両手いっぱいの袋を抱えて、真っ赤な顔で「全部ください」と。
嬉しかった。言葉では言い表せないくらいに。彼はきっと、たくさんバイトをしてお金を貯めて、今日のために来てくれたのだと思います。応援したい人がいる、と友人に言っていた言葉を思い出しました。もしかしたら、その「応援したい人」は、私のことなのかもしれない。おこがましいとは思うけれど、そうだったらいいなと、初めて素直にそう思いました。
初めて名前を呼んで、「ありがとう」を伝えました。彼はすごく驚いていましたが、ちゃんとお礼を言えてよかった。次は、「イベントのときに助けてくれてありがとう」と伝えたい。
お母様。私の歌はまだ、たくさんの人には届いていません。でも、たった一人に届くことの幸福を、私は今、確かに感じています。




