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不思議な気持ち


八月の日曜日。街は夏休みの真っただ中で、駅前の大通りは買い物客や家族連れで賑わっていた。


「たまには付き合え。服を見たい」


ぼたんからの突然の連絡で、初奈は午前中から街に繰り出していた。待ち合わせ場所に着くと、ぼたんは普段のレッスン着とは違う、黒のスキニーパンツにシンプルな白Tシャツという出で立ちで待っていた。


「ぼたんさん、お待たせしました」


「別に。今来たとこだ」


絶対に今来たばかりではないのに、いつもこう言う。初奈が微笑むと、ぼたんは照れくさそうにそっぽを向いて歩き出した。


「で、何を見たいんですか」


「んー、新しいスニーカーと、あと適当に。お前も、たまには自分の服でも見ればいいだろ。いつも同じようなのばっか着てるし」


「そうでしょうか」


「そうだ。ま、お前の清楚な感じは悪くねえと思うけどな」


「それは褒めてるんですか、けなしてるんですか」


「さあな」


こんな風に軽口を叩き合いながら歩くのも、今ではすっかり慣れた。数ヶ月前までは話すらまともにできなかったのに、と思うと、不思議な気持ちになる。ぼたんは相変わらずクールで気が強いけれど、初奈にはそれが彼女なりの優しさだとわかるようになっていた。


スポーツショップでスニーカーを物色し、雑貨屋でウィンドウショッピングをして、そろそろ昼食にしようかと話していたときだった。


本屋の前を通りかかった初奈は、聞き覚えのある声に足を止めた。


「達也氏、これを見るでござる」


「左様。達也氏は若いのに、推しを神聖視しすぎでござるよ。こういうものも、たまには必要な刺激」


「田中先輩、伊藤先輩、やめてくださいってば!」


店の奥から現れたのは、三人の若者だった。田中先輩と伊藤先輩、そして達也。二人の先輩は今日もドル研のTシャツを着ている。達也は相変わらず学ランで、三人とも手には何やら本を持っていた。達也の手にだけは、やけに分厚い写真集が握られている。


「若い殿方には、推しを想う純粋な心と同時に、こうした発散先も必要不可欠。拙者からの餞別でござる」


「た、田中先輩、こんなのいりませんって! 僕はただ、初奈さんの歌が」


「それでよいのでござるよ。初奈殿を心の支えとしつつ、時にはこうして」


田中先輩が達也の手にさらに一冊の本を押し付けた瞬間だった。


達也の手から、ずるりと一冊のグラビアアイドルの写真集が滑り落ちた。


ぱさり。


表紙を上にして、アスファルトの上に開く。派手な水着姿の女性が、表紙いっぱいに微笑んでいた。


ちょうど初奈の足元に。


時が止まった。


初奈は足元に落ちた写真集を見た。それから顔を上げて、達也を見た。達也も初奈を見た。メガネの奥の目が、驚愕に見開かれる。


一瞬の静寂。


「あ、あーっ!」


達也の口から飛び出したのは、裏返った大声だった。


「先輩の! 先輩の写真集が落ちましたよ! 僕のじゃない先輩の! 田中先輩が勝手に押し付けたんです!」


「ちょっ、達也氏、血迷ったでござるか!」


「これなるは達也氏のために用意したもの。責任転嫁はいけないでござるよ!」


「違う違う違う! ぼ、僕は初奈さん一筋で!」


達也は真っ赤になりながら、落ちた写真集を拾い上げると、田中先輩の胸にぐいぐいと押し付けた。


「こ、こんなの要りませんから! 返します! 僕は帰ります!」


「あっ、達也氏! まだ秘蔵のDVDも」


「要りません!」


達也は叫ぶと同時に走り出した。脱兎のごとく、人混みの中を縫うようにして、あっという間に見えなくなる。残された田中先輩と伊藤先輩は、顔を見合わせてから初奈に向き直った。


「こ、これは失礼をば、初奈殿」


「達也氏は決してやましい心があったわけでは。全ては我々が」


初奈は何も言わなかった。ただじっと、二人の手にある写真集の山と、達也が消えていった方向を交互に見つめている。その目は、自分でも意識しないうちに、じとっと細くなっていた。


「……行こう、初奈」


ぼたんが初奈の肩をぽんと叩いて、歩き出した。初奈も無言でそれに続く。田中先輩と伊藤先輩は、その後ろ姿に向かって何度もお辞儀をしていた。


「お前さあ」


大通りの喧騒に紛れて、ぼたんが口を開いた。


「あれ、絶対、達也のじゃなかっただろ。先輩たちが勝手に持ってたやつだ。なのに、お前はなんであんなにジト目になってたんだ」


「ジト目になんかなってません」


「なってた。すげえジト目だった。初めて見たわ、お前のあんな顔」


「……だって」


初奈はしばらく黙って歩いていたが、やがてぼそりと言った。


「なんだか、もやもやしたんです」


「もやもや?」


「はい。たとえ先輩のものだとしても、達也くんがああいうのを見てるのかと思うと、なんだか胸がざわざわして」


「……それ、嫉妬って言うんだぞ」


「し、嫉妬じゃありません!」


「じゃあ何だよ」


「わかりません! わかりませんけど、とにかくもやもやしたんです!」


ぼたんはぷっと吹き出して、それから腹を抱えて笑い出した。


「お前なあ! いつの間にそんなキャラになったんだよ! 清楚なお嬢様はどこ行った!」


「笑わないでください!」


「悪い悪い。いやー、でも安心したわ」


「何がですか」


「お前、なんでもお淑やかに許しそうだから。でも、ちゃんと嫉妬とか、もやもやとか、そういう感情もあんだな。普通の女の子なんだよ、お前は」


初奈は言葉に詰まった。普通の女の子。その言葉が、思ったよりも胸の奥にすとんと落ちてくる。


「……初奈さん一筋って、言ってましたね」


「お、覚えてんのか。やっぱ気にしてんじゃねえか」


「気になんかしてません」


「目がまたジト目になってるぞ」


「なってません!」


初奈はぷいっと横を向いて、大股で歩き出した。後ろから、ぼたんの楽しそうな笑い声が追いかけてくる。しばらく歩いてから、初奈は立ち止まって振り返った。


「……達也くん、あのあと大丈夫だったでしょうか」


「さあな。逃げ足だけは速かったから、もう家に着いてんじゃねえか」


「そうだといいんですけど」


初奈は空を見上げた。夏の太陽がギラギラと照りつけている。どうしてだかわからないけれど、さっきのもやもやはまだ、胸の隅にちいさく引っかかっていた。初奈さん一筋、か。あの言葉を思い出すと、顔がほんの少し熱くなる。でも、それを認めるのは、なんだか悔しかった。


【初奈の日記】


今日はぼたんさんと買い物に行きました。スニーカーを選んだり、雑貨を見たり、楽しい休日でした。


でも、途中で達也くんたちに会いました。田中先輩と伊藤先輩が、達也くんにグラビアアイドルの写真集を渡しているところでした。それが落ちて、私の足元に広がって。目が合って。気がついたら、達也くんは「先輩のです!」と叫んで走り去っていました。


胸の奥がもやもやして、ぼたんさんにジト目だと言われてしまいました。嫉妬だとも言われました。でも、これは嫉妬なんでしょうか。よくわかりません。ただ、あの人が他の誰かの写真集を持っているのを見るのが、とても嫌だった。


それから、彼は「僕は初奈さん一筋で」と言っていました。あれは、私への好意ということなのか。それとも、ただのファンとしての言葉なのか。


そういうことを考えると、なんだかうまく言葉にできなくて、余計にもやもやしてしまいます。次に会うとき、どんな顔をすればいいのか、まだわかりません。

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