優しさのキャッチボール
五月の半ば、庭の白いバラが今年も蕾をつけ始めた週末のことだった。
休日の朝、初奈が自室でイベントの準備をしていると、お父様から書斎に呼び出された。最近は仕事が忙しいらしく顔を合わせることすら少なかったが、こうして改まって呼ばれるのはいつぶりだろう。
書斎に入ると、お父様はデスクに座って何かの書類に目を通していた。初奈が入っていくと顔を上げ、いつもの落ち着いた声で言った。
「初奈、座りなさい」
「はい、お父様」
「今日はお前に、将来の話をしようと思う」
将来。その言葉に、初奈は少しだけ身を固くした。
「大学はもう決めてある。清泉女子大学だ。ここなら学園からの内部進学も可能だし、お前の成績なら問題ないだろう。お前にはそこで国際教養を学んでもらう。桜坂家の娘として、相応しい教養を身につけるように」
「……はい」
「それともう一つ。今日の午後、鷹宮さんが来られる。お前の許嫁になる方だ」
初奈は顔を上げた。今、この人はなんと言ったのだろう。
「許嫁、ですか」
「鷹宮家は政財界に太いパイプを持つ名家で、我々桜坂家にとっても大切な縁だ。鷹宮さんはまだ若いが、とても聡明で品のある方だと聞いている。お前も会えばきっとわかる」
初奈は何も言えなかった。心の中が一気に重くなる。大学も、結婚も、すでに決められている。自分が選ぶ余地はどこにもない。まるでレールの上を走るだけの、誰かの作った未来。
「わかりました。お会いします」
初奈は短く答えて、書斎を後にした。重い足取りで廊下を歩きながら、私は誰のために生きているんだろうと考えていた。
その日の午後、鷹宮さんが屋敷を訪れた。
応接室に通された彼は、年の頃は初奈より五つほど上だろうか。細身のスーツを品良く着こなし、穏やかな微笑みを絶やさない人だった。押し付けがましさは微塵もない。話し方も静かで、相手を不快にさせない距離感をわきまえている。なるほど、お父様の言う通り「品のある方」なのだろうと初奈は思った。
「せっかくですから、お庭を散歩しませんか。この時期はバラが美しいと伺っています」
鷹宮さんの提案で、二人は庭を歩くことになった。五月の陽射しは柔らかく、風がバラの香りを運んでくる。お母様が大切に育てていた白いバラは、今年も見事な花を咲かせようとしていた。
「美しい庭ですね。手入れが行き届いている」
「お母様が、生前に大切にしていた庭なんです」
「そうですか。お母様を亡くされて、お寂しいでしょう」
「……はい。でも、もう一年以上経ちましたから」
「悲しみは時間では測れませんよ」
鷹宮さんは優しい言葉をかけてくれた。その声音には嫌味がなく、初奈は少しだけ警戒を解いた。少なくとも、悪い人ではないのかもしれない。
池のほとりまで来たとき、風が吹いて、初奈のスカーフがふわりと解けた。白い絹のスカーフが、ひらひらと舞って池のほとりの石畳に落ちる。初奈が慌てて手を伸ばすより早く、鷹宮さんが身をかがめてそれを拾い上げてくれた。
しかしそのとき、鷹宮さんはバランスを崩し、片足が池の縁の泥にずぶりと沈んだ。水しぶきが上がり、磨かれた革靴とスラックスの裾が泥まみれになる。
「鷹宮さん! 大丈夫ですか」
「ええ、お気になさらず。これくらい、なんでもありません」
鷹宮さんは平然とした表情でスカーフを差し出した。
「ありがとうございます。でも、お召し物が汚れてしまって」
「気にしないでください。それより、綺麗なスカーフですね。汚れがつかなくてよかった」
初奈はスカーフを受け取りながら、違和感を覚えた。鷹宮さんはスーツのポケットからハンカチを取り出していたのに、自分の濡れた靴やスラックスには一度も手を触れなかった。ただハンカチを手に持ったまま、じっと初奈を見つめている。
なんだろう、この感じ。何かを待たれているような。
でも、それが何なのか初奈にはわからず、ただぺこりと頭を下げてその場を後にした。
鷹宮さんが帰られたあと、初奈は再びお父様の書斎に呼ばれた。
「初奈、先ほどのことだが」
「はい」
「鷹宮さんが池のほとりで濡れてしまったそうだな。あのようなとき、どうすればいいかわからなかったのか」
「スカーフを拾っていただいたので、お礼は申し上げましたが」
お父様は、ため息を一つついた。
「そういう時は、お前が彼の濡れた靴や服を拭いて差し上げるんだ。彼はそれを待っていたんだよ。だからハンカチを取り出したのに、わざわざ自分の手では拭かなかった。親切には親切で返すものだ。それが人としての礼儀というものだ」
初奈は言葉を失った。彼は、自分で拭けたのに、初奈が拭くのを待っていたのだ。それが礼儀? それが親切?
「……申し訳ありませんでした」
頭を下げながらも、初奈の心の中では何かがざわついていた。何かが違う。そう思うのに、うまく言葉にできない。
書斎を辞して自室に戻ると、窓の外のバラが夕暮れに染まっていた。ふと、ずっと昔の記憶が蘇る。
五歳か六歳の頃だった。庭で転んで膝をすりむいた初奈に、お母様が優しくハンカチを当ててくれた。
『お母様、私、何かお返ししなくちゃいけないの?』
『お返し? どうしてそう思うの?』
『だって、優しくしてもらったから』
お母様は優しく微笑んで、初奈の頭を撫でた。
『優しくされたら、お返ししたいと思うのは自然なことね。そうやって優しさはキャッチボールみたいに、人から人へと渡っていくんだから、とても素敵なことよ』
『じゃあ、やっぱり返さなきゃダメなんだ』
『でもね、初奈。お返しがいらないのに優しくする人もいるのよ』
『そういう人もいるの?』
『ええ。そういう人はね、いちばん優しい人なんだと思うわ』
『なんで?』
『見返りを求めてないからよ。ただ、相手の幸せだけを願ってる。だから、お返しがなくても、その人が笑顔になったら、それで十分だと思えるの』
幼い初奈には、その言葉の本当の意味はわからなかった。でも今なら、少しだけわかる気がした。
鷹宮さんは、親切の見返りを待っていた。お父様はそれを「礼儀」と呼んだ。でも、お母様は違った。お返しを求めず、ただ与えるだけの人がいると言った。それが一番優しい人だと。
私は、どっちの世界で生きたいんだろう。
翌日、事務所のスタジオに向かう初奈の足取りは重かった。大学、許嫁。すべて決められた未来。自分がアイドルをやっている時間は、きっとこの決められたレールの上ではただの寄り道に過ぎない。いつかは終わりが来る。その現実が、初奈の心に重くのしかかっていた。
「初奈、なんか元気ないぞ」
ぼたんに言われた。
「顔色も優れないわね。大丈夫?」
箒にものぞき込まれる。
「大丈夫です。少し、考え事をしているだけで」
初奈は曖昧に微笑んだが、心の中は晴れなかった。
そんな初奈を見かねて、るるかがそっと声をかけてくれた。
「初奈ちゃん、ちょっと散歩しない? いい天気だし、気分転換になるわ」
「るるかさん……でもレッスンが」
「たまにはサボるのも大事よ。うふふ」
るるかに手を引かれて、初奈は事務所の近くを流れる小さな川のほとりを歩いていた。空は青く、川面には若葉が影を落としている。風が心地よくて、少しだけ心が軽くなる気がした。
「それで、何があったの?」
るるかの優しい問いかけに、初奈はぽつりぽつりと話し始めた。お父様に大学を決められたこと。許嫁がいること。鷹宮さんという品のある人に会ったこと。でも、何かが違うと感じたこと。
「……それで、お父様に『親切には親切で返せ』と言われました。彼がハンカチを取り出したのに自分の手では拭かなかったのは、私が拭くのを待っていたからだと。でも、なんだかそれが、引っかかっていて」
「引っかかるのは当然よ」
るるかの声はいつもより真剣だった。
「親切はギブアンドテイクじゃないもの。見返りを求めるのは、親切じゃなくて取引だわ」
「取引……」
「そう。でもね、初奈ちゃんの周りには、きっとそうじゃない人もいるんじゃないかしら。見返りを求めずに、ただ誰かのために何かができる人」
初奈の脳裏に、青いサイリウムの光がよぎった。
そのときだった。
「あら、あそこに誰かいるわ」
るるかが指さす方を見ると、川の中に人影があった。向こう岸の、水深の浅いところで、誰かが膝まで水に浸かりながら何かをしている。泥だらけになりながら、必死に手を伸ばしている。
学ランだった。
「達也、くん……?」
初奈は息を呑んだ。どうしてあんなところに。彼は一心不乱に川底を探り、そしてようやく目的のものを見つけたようだった。ずぶ濡れになったカバン。学生鞄だった。
達也くんが川から上がると、土手の上から三人の女子高生が駆け寄ってきた。
「あっ、それ私のカバン!」
「よかった、見つかった!」
女子高生の一人が川に降りようとすると、達也くんは慌てて手を振ってそれを制した。
「だ、大丈夫です! 靴が汚れますよ! それに、もう僕、濡れちゃってますから!」
そう言って彼は土手を上がり、女子高生にカバンを手渡した。自分のほうがずっと濡れているし泥まみれなのに、彼女たちの靴の汚れを気にしている。
「ありがとうございます! 本当にありがとう!」
「い、いえ。お気をつけて」
女子高生たちは何度もお礼を言って去っていった。達也くんはそれをぼんやりと見送って、それから川岸にぺたんと座り込んだ。全身ずぶ濡れで、泥だらけで、眼鏡も水滴で曇っている。息を切らせて、やっと一仕事終えたという顔だった。
しばらく休んでから、彼はゆっくりと立ち上がり、水を含んで重くなった学ランを絞りながら歩き出した。その背中は相変わらず頼りなげで、歩き方もどこか危なっかしい。けれど、それが不思議と目に焼きついた。
初奈は、気がつくとその場に立ち尽くしていた。足が動かなかった。るるかも同じだった。
「ねえ、初奈ちゃん」
るるかが静かに口を開いた。
「そういえば、あの学ランくん。一度も初奈ちゃんに話しかけてこないわね。私たちが知る限り、彼の方から歩み寄ってきたことなんて一度もない」
「……はい」
「普通、アイドルヲタクって、推しに『認知』されたがるものなのよ。自分の存在を知ってほしい、名前を覚えてほしい、顔を覚えてほしい。それがヲタクの『見返り』なんだって。どれだけお金を使っても、どれだけ時間を費やしても、認知されることが一番の報酬だって聞くわ」
るるかは、遠くに見える学ランの背中を見つめながら言った。
「でも、あの子はそれすら求めてこない。あれだけ応援してくれて、初奈ちゃんが困っているときには必ず現れて助けてくれてるのに。自分が笑われても、泥だらけになっても、見返りを何ひとつ求めず、ただ必死にサイリウムを振って、歌が終われば逃げるように帰っていく」
「るるかさん……」
「きっと彼は、初奈ちゃんの歌だけを応援してるのね。初奈ちゃんが笑顔になることが、彼にとっての一番の報酬なんだわ。見返りを求めてる人には、あんな顔はできないもの」
初奈は胸が熱くなった。今すぐ駆け出して、彼の名前を呼びたかった。「ありがとう」と伝えたかった。でも、足が動かなかった。
だってまだ、自分は彼に何も返せていない。ただ一方的に、受け取ってばかりだ。その不甲斐なさが、初奈の足をその場に縫い止めた。
代わりに、そっと胸の中で呟く。
いつか必ず、この想いを伝えに行くから。それまで見ていてください。私、ちゃんとあなたに見合うアイドルになります。
だって、それがきっと、私のしたい「優しさのキャッチボール」だから。
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初奈の日記
五月十八日 晴れ
今日、鷹宮さんという方と会った。お父様が決めた許嫁らしい。品のある、優しそうな人だった。スカーフを拾ってもらったとき、彼はわざと自分のハンカチで濡れた服を拭かなかった。お父様は「親切には親切で返せ」と言った。それが礼儀だと。
でも、なんだかもやもやする。お母様が昔、「お返しがいらないのに優しくする人がいちばん優しい」と言っていたからかもしれない。
るるかさんが散歩に誘ってくれた。川のほとりを歩きながら、将来の話をした。るるかさんは自分の家族のことも話してくれて、少しだけ心が軽くなった。
それから、達也くんを見た。川の中で誰かのカバンを拾っていた。ずぶ濡れで泥だらけなのに、「靴が汚れますよ」って、自分のことは全然気にしていなかった。
るるかさんが言っていた。あの人は一度も私に話しかけてこないし、見返りも求めてこない。ただ私の歌だけを応援してくれているんだと。
私、まだ何も返せていない。いつかちゃんと、あの人に伝えたい。あの青い光に、どれだけ救われているか。それが、私の最初の「お返し」になると思う。
おやすみなさい、お母様。今日は、優しさについて考えた一日でした。




