本当のファンクラブ
あの日から、初奈は毎日病院に通っていた。朝、アパートを出て、駅前の花屋で小さな花を一輪買い、病院に向かう。達也の病室に着くと、窓を開けて空気を入れ替え、花瓶の水を替え、彼が食べやすいように朝食のトレーを整える。最初は看護師に「ご家族ですか」と聞かれて少し戸惑ったけれど、今では「おはようございます、櫻坂さん」と声をかけられるようになった。
達也のリハビリは、想像以上に過酷だった。複雑骨折した両脚は、手術こそ成功したものの、再び歩けるようになるまでには数ヶ月を要する見込みだった。午前中は理学療法士の指導のもと、ベッドの上で脚を動かすところから始め、午後には車椅子に乗ってリハビリルームに向かう。
「じゃあ今日は、ここまで歩いてみましょうか」
理学療法士の声に、達也は「はい……!」と力強く返事をし、平行棒にしがみつくようにして立ち上がった。額にはすぐに汗が浮かび、歯を食いしばって一歩を踏み出す。その足はまだ震えていて、今にも折れてしまいそうに見える。初奈はリハビリルームの隅の椅子に座り、自分のことのように祈りながら達也を見守っていた。
「無理しないで、ゆっくりでいいんですよ」
思わず声をかけると、理学療法士が笑った。
「彼はいつもこうです。こっちが止めるくらい頑張るんですよ。理想の患者さんです」
「……達也くんらしいです」
「あ、でも無理は禁物ですからね。彼女さん、ちゃんと止めてあげてください」
「か、彼女じゃないです!」
達也が平行棒から手を離し、真っ赤になって首を振った。その拍子にバランスを崩し、あわや転びそうになるのを療法士が慌てて支える。初奈はそんな達也の姿を見て、思わずくすりと笑ってしまった。彼女、という言葉に動揺する達也を見るたび、胸の奥がくすぐったくなる。でも同時に、少しだけ残念な気持ちもあった。これだけのことをしてくれたのに、彼はそれを一度も理由に近づこうとしない。見返りを求めない誠実さが愛おしくて、でも、だからこそ、もう少しだけ近づきたくなってしまう自分がいた。
達也はリハビリルームの人気者だった。真面目で一生懸命な彼の姿は、自然と周囲の心を掴んでいた。
「達也くん、昨日より足が上がってるじゃないか」
隣でリハビリをしていたおじいちゃんが声をかける。七十代半ばだろうか、腰の手術で入院しているらしい。達也は照れくさそうに頭をかいた。
「そうですかね。まだ全然で」
「若いっていいなあ。彼女も毎日見舞いに来てくれるし」
「だ、だから彼女じゃないんですってば!」
そのやりとりを聞いていた車椅子のおばあちゃんが、にこにこしながら初奈に話しかけてくる。
「お嬢ちゃん、毎日偉いねえ。あんなに頑張ってる彼を見てると、こっちまで元気が出るよ。ええ彼氏さんを持ったねえ」
「ありがとうございます。でも、まだ彼氏ではないんです」
「まだ、ねえ」
おばあちゃんは意味ありげに笑った。初奈は少しだけ頬を染めて、でも否定はしなかった。
小児病棟から来ていた小さな男の子も、達也に懐いていた。まだ五歳か六歳くらいのその子は、脚に装具をつけて、達也の隣で一緒にリハビリを受けている。
「おにいちゃん、きょうはあるける?」
「うん、ちょっとだけ歩けるよ。君も頑張ろうな」
「おにいちゃんがあるけるなら、ぼくもがんばる」
「……そっか。じゃあ一緒に頑張ろう」
小さな男の子が差し出した小指を、達也は自分の小指でそっと絡めた。指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます。そんな無邪気な仕草を見て、初奈の胸は温かくなった。
(この人は、どこにいてもこうなんだ)
派手さはないけれど、誠実で、一生懸命で、誰に対しても真っ直ぐで。それが周りの人の心を自然と開かせていく。初奈は、そんな達也の隣にいられることを、誇らしく思った。
昼過ぎ、リハビリを終えた達也が病室に戻ると、すでに田中先輩と伊藤先輩が待っていた。二人とも今日はドル研のTシャツではなく、普通の私服姿だった。なんだか少し元気がなくて、何か真剣な話があるのだろうと初奈にもわかった。
「どうしたんですか、先輩たち。改まって」
「うむ……実は、達也氏に相談がござる」
田中先輩が言いにくそうに口を開いた。
「実は、ドル研を廃部にしようかと話していたのでござる」
「廃部?」
「左様。部員はもともと我々三人だけ。達也氏が入院してからは二人きりでござった。それに、我々はあの路線変更の時期、初奈殿から離れてしまった。それ以来、自分たちのやっていることにどうしても自信が持てなくなってしまって」
伊藤先輩も沈んだ声で続けた。
「初奈殿を応援すると言いながら、本当に辛いときに支えられなかった。そんな自分たちに、アイドルを応援する資格があるのかどうか」
達也はしばらく黙って話を聞いていたが、やがて顔を上げて言った。
「……先輩たち。ドル研、やめないでください」
「達也氏……」
「先輩たちは、僕が初奈ちゃんを応援するきっかけをくれた人たちです。先輩たちがいなかったら、今の僕はありません。それに、先輩たちが路線変更のときに離れてしまったのは、辛かったからですよね。それは僕も同じでした。見ているのが辛くて、グッズを買う気にもなれなくて。だから気持ちはわかります」
「しかし」
「それに、先輩たちはまた戻ってきてくれた。だったら、それでいいと思うんです。それよりも」
達也は少しだけ間を置いて、それから初奈の方をちらりと見て、意を決したように言った。
「ドル研を、初奈ちゃんのファンクラブにしませんか」
初奈は驚いて達也を見つめた。田中先輩と伊藤先輩も顔を見合わせている。達也は続けた。
「僕が言いたいのは、ただ初奈ちゃんを応援するだけのファンクラブじゃないんです。初奈ちゃんの歌を、本当に好きな人のためのファンクラブです。身体目当てじゃなくて、歌を好きでいてくれる人たちのための場所。そして、何より初奈ちゃんが安心して歌える場所を作りたいんです。初奈ちゃんがもう一度歌いたいと思ったときに、待ってる人がいるんだって、そう思えるような場所を」
「達也くん……」
初奈は胸がいっぱいで、うまく言葉が出なかった。
「でも、僕はまだ入院中だから動けない。だから先輩たち、力を貸してほしいんです」
田中先輩と伊藤先輩は顔を見合わせ、それからほとんど同時に、涙を浮かべてうなずいた。
「やるでござる!拙者たちにできることなら、何でもやるでござる!」
「左様!今度こそ、初奈殿と歌のためのファンクラブを作るでござる!」
「先輩たち……ありがとうございます」
達也がほっとしたように笑う。初奈はその横顔を見つめながら、そっと自分の胸に手を当てた。
(私が安心して歌える場所)
まだ人前に立つ勇気は戻っていない。あの日々の記憶はまだ生々しくて、目を閉じると今でも少しだけ怖くなる。でも、こんなにもたくさんの人が、私の歌を待っていてくれる。それだけで、いつかまた歌いたいと思える日がきっと来る。
「あの、私、まだ歌えるかどうかわからなくて。でも、そう言ってもらえてすごく嬉しいです。ありがとう」
初奈がそう言うと、田中先輩がハンカチで目をぬぐいながら言った。
「初奈殿が歌いたくなったときに歌えばいいでござる。我々はいつまでも待つでござるよ」
伊藤先輩も深くうなずく。病室の窓からは、午後の陽射しがやわらかく差し込んでいた。初奈は達也の手をそっと握りしめて、彼にだけ聞こえる小さな声で言った。
「達也くん。私のために、ありがとう」
「い、いえ。僕はただ、初奈ちゃんの歌が好きだから」
「うん。それだけで、十分すぎるくらい」
初奈の目に涙が浮かんでいるのを見て、達也は慌てて枕元のティッシュを差し出した。田中先輩と伊藤先輩は「お熱いことでござる」と冷やかし、病室はまた賑やかな笑い声に包まれた。それは、これから始まる新しい日々の、確かな予感に満ちていた。




